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7. 吉岡忍 @「小田実『終らない旅』 小田の目に涙」(『 波』2007年1月) A「喪友記」(『日本経済新聞』2007年8月4日) B「小田実さんを悼む」(共同通信配信 2007年7月30日) 各全文以下に、吉岡忍さんが書いた小田実さんに関する文、3編を吉岡さんの諒解を得て、全文転載いたします。
@ 吉岡忍『小田実「終らない旅」 小田の目に涙』(新潮社『波』2007年1月)
私は小田実が泣くのを見たことがある。男泣きの号泣ではなく、涙ぐむという程度でもなく、彼は泣いた。ベトナム戦争が終わって数年後、一九八〇年頃のことだ。ウランバートルで開催された文学者の国際会議に出たあと、二人で小型機に乗り、ゴビ砂漠のなかにある村まで足を伸ばしたときのことだった。
小田はそんなときも原稿用紙を広げ、当時愛用していたサインペンの太い文字で小説を書き続けていた。見渡すかぎりの砂漠と、夜になれば落ちてきそうな星の群れを見るほかにやることがない。夜寝る前、退屈した私は、彼が仕事に疲れた頃を見計らって部屋を訪ね、軽く一杯やることにしていた。
あるとき話は、ベトナム戦争とベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のことになった。アメリカに留学し、ヨーロッパやアジアを貧乏旅行しながら日本にもどり、『何でも見てやろう』を書いてベストセラー作家になった彼が、なぜベトナム反戦運動を、それも市民運動という形でというか、形も何もない運動としてやることになったのか。
おかげで十八、九歳だった私自身は、小田や大江健三郎や開高健などの作家や、久野収や日高六郎や鶴見俊輔などの学者とデモもすれば、脱走してきた米兵らを匿い、ストックホルムまで逃がす地下活動までやることになった。とはいえ、面と向かって、あれは小田さん、そもそもどういうつもりだったのですか、と質問したことがない。作家や学者だろうと私のようなガキだろうと、一人ひとりが自分で考え、判断し、動く。まさに自己責任の覚悟。それが、その頃の市民運動の流儀だった。
その数カ月前だったと思う。鶴見俊輔が何かの新聞か雑誌で当時を振り返って、半ば冗談めかしながらではあったが、「私は小田の家来だった」という発言をしたことがある。鶴見は小田より十歳くらい年上だ。彼の真意は、日本で最初の市民運動はそのくらい先輩後輩の区別もなく、自由な運動空間だった、ということにあったのかもしれない。だが、簡潔にまとめられた字面だけを追えば、それは私にも違和感のある発言だった。
文字通りの漆黒の闇に包まれたゴビ砂漠。その闇の重さに押し潰されそうな簡素な宿で、小田がその鶴見の発言を持ちだしたときのことは、いまでも彼の言葉や口調とともに耳に残っている。彼は「おれの家来だったなんて、あの言い方はないだろう。おれは、おれたちは、そんなつもりでやってきたんじゃない。吉岡、おまえ、そんなふうに思ったことはないやろ? おれたちはみんな、平等でやったきたんじゃないか」
小田実が泣いたのは、そのあとだった。大柄で、のっしのっしと世界各地を歩きまわりもすれば、デモもし、仏頂面で黙り込みもすれば、強面の議論もする作家が、薄暗い電灯の下で本気で泣いていた。後にも先にも、彼の泣く姿はそのときしか見たことがない。ああ、この人は本気だったんだ、とそのとき私は思った。痛烈に思った。
まっとうなことを口にするのは難しくない。ひとつやふたつ、やってみせることもできる。だが、まっとうに生きること、生き続けることは誰にでもできることではない。
小田の新しい小説『終らない旅』を読みながら、何度も私はあのゴビ砂漠の夜を思い出した。米軍の空襲を受けて逃げまどった少年時代、ハーバード大学留学当時の甘酸っぱい記憶、ニューヨークの雑踏の陰影、止むに止まれぬ思いで始めたベトナム反戦と脱走米兵支援の活動、それから四半世紀が過ぎて起きた阪神大震災と、二一世紀冒頭の世界を震わせた9・11同時多発テロ。小田はみずから生きてきた軌跡を、日本の市井の小市民と、アメリカのやはり普通の女との愛に重ねるように物語っていく。
ダイアローグ(対話)小説というものがあるかどうかは知らないが、二人が惹かれ合い、離れて暮らしながら年齢を重ね、偶然に、しかもベトナムで再会し、激しく抱き合い、やがて死んでいく物語に込められているのは、対等に語り合い、平等に愛し合うピュアな人間の姿である。それが、小田実を小田実たらしめている核心でもある。
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【書名】終らない旅
【著者】小田実
【出版社】新潮社
【初版】2006年11月30日
【価格】3200円+税
A 吉岡忍「喪友記」(『日本経済新聞』2007年8月4日)
小田実さんが亡くなった病室には、分厚い英語の本が山積みになっていた。とっさに私は、四十年ほど前のベトナム反戦運動のころを思い出す。
『何でも見てやろう』の作家はベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)を発足させ、十代の私はそこで反戦バッヂを作ったり、脱走米兵をスウェーデンまで逃がす地下活動をやっていた。小田さんがニューヨークやパリを駆け回ってもどってくると、よくお茶や食事に連れていってもらった。
「面白いで。読めよ」
大きく重い旅行鞄からはいろんな本が出てきた。あるときはN・メイラー『なぜぼくらはヴェトナムへ行くのか?』、別のときはK・ヴォネガット『猫のゆりかご』、その次はD・ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』……。サルトルやチョムスキーやハワード・ジンのこともあった。
いまでこそ邦訳のある著述家たちだが、その当時は未知の人もいる。どういう書き手ですか、と聞くと、「ボストンでいっしょに歩いた。デモしてきたんや」などという返事がもどってくる。小田さんはほとんど彼らと会ってもいた。
小田さんは大変な読書家だった。大きな教養もあった。それでいて、小田実の小説や評論は、その誰のものとも似ていなかった。驚くのは、むしろそのことである。
B 吉岡忍「小田実さんを悼む」 (『共同通信』2007年7月30日配信 『琉球新報』その他各紙に掲載)
暗い朝が明けた。数時間前、小田実さんが息を引き取った。朝刊に「自民大敗」の見出しが踊っている。私は読む気がしない。こんな程度のことで一喜一憂するな、という声が聞こえてくるような気がする。
私は六七年春、十八歳のとき、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモに行き、『何でも見てやろう』の作家に会った。小田さんはずだ袋のような鞄をポンッと叩き、「銭湯に行くときでも、原稿を持ち歩いとるよ。留守中に火事になったら、パーやろ」と言った。作家とはこういう人か、と私は目を見張った。
二年後、反戦キャラバンで北海道をまわった。小田さんが持ち歩いていた濃緑色の重い鞄に、分厚い原稿の束が入っているのを見た。一九七二年、体調を崩し、徳島市で入院中だった小田さんにスープを届けたときも、ベッドには書きかけの原稿が広げてあった。
七〇年代の終わり、文学者の国際会議に出席するためモンゴルに行った。ゴビ砂漠の町まで飛ぶ機中、小田さんはノートを広げ、メモしていた。旅日記ですか、と聞くと、「小説や。旅行しながら書くのは疲れるな。頭を切り換えるのが大変よ」と笑った。
数年後、新潟港から旧ソ連や中国をめぐる船旅に出る前夜、私はコーヒーをいれ、小田さんの部屋に持っていった。出航前に投函しなければならない原稿がある、と聞いていたからだ。カップを置き、部屋を出ようとしたとき、背後から小田さんの声が響いた。
「人間にはな、絶句する瞬間があるやろ。そこに社会の矛盾や歴史の重みがのしかかってきて、そのことに気がついて、言葉を失うような瞬間が。そこでつぶされそうになっている人間を書くのが小説や」
小田さんは、個々の人間の背景にあって、人間を動かしている世界像を描く全体小説に取り組んでいた。すでに長編小説『現代史』『HIROSHIMA』を書き上げ、それを上回る、十年がかりの大作『ベトナムから遠く離れて』を書き始めた時期だった。
二〇〇二年三月のある日、私たちはホーチミン市にいて、サイゴン川を眺めるホテルのレストランで向かい合っていた。高い窓から射し込む朝の光が、だんだん濁ってくる時刻だった。ベトナム戦争当時、反政府ゲリラの青年が公開処刑された広場か、腐敗した権力者たちの巣窟だった旧大統領官邸に行ってみませんか、と誘うと、小田さんは「原稿が終わらんのよ」と、元気がなかった。
昨年末、新作小説『終らない旅』を読んだ。若き日のアメリカ留学、ベトナム反戦と脱走兵援助、阪神大震災と歩んできた人生を、小田さん自身がひっそりと回顧するような物語だったが、あるページにきたとき、私は「だまされたッ」と大声を上げそうになった。
老境に入った主人公がホーチミン市に行き、まったく偶然にアメリカ留学時代の女友達と再会するシーンがある。物語の転換点となる重要な場面である。その場所こそ、私と小田さんが座っていたあのホテルのレストラン、あれと位置や光の加減まで同じテーブルだったのだ。
どこにいても、どんな体調のときも、小田さんは作家だった。市民社会が在るかなきかのこの国で、ベ平連やその他の市民運動が教条主義や内ゲバに巻き込まれずにすんだのは、絶句し、言葉を失う人間の姿に目を凝らしつづけた作家のおかげだった。
小田さんが最後の入院をした翌日、私はお見舞いに行った。病室に次の小説の資料だという洋書が山積みになっているのを見て、私は一人うなずいていた。そこに、最後まで作家であることを貫き通す小田さんの志を、たしかに感じたからである。
小田さんのいない暗い朝、もっと人間に目を凝らせ、と語る作家の声が私の耳に鳴り響いている。