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鶴見俊輔・吉岡忍「脱走兵の話――ベトナム戦争といま」 編集グループSURE 2007年4月
)(2007/04/18記載)
「ニュース」欄 No.464
にあるように、本書は、主要には鶴見俊輔さんと吉岡忍さんの話で構成されている。ベ平連ヤジャテックなどによる脱走兵援助をめぐる話が中心テーマだが、それ以外にも、ベ平連運動やその当時の状況、そして、運動の思想などが縦横に論じられている。ここでは、吉岡さんが
「殺すなバッジ」を和田誠さんに飛び込んでつくってもらったエピソードの部分と、吉岡さんがベ平連運動に参加した10代の若者の気分について語っている部分をご紹介する。
吉岡
……最初にぺ平連の事務所にいったころ、アメリカの新聞や雑誌を見ていると、デモをしている若者が、缶バッジを付けているんですね。「ピース」とか「メイク・ラブ」とか書いてあるバッジですね。面白そうだなと思って、あれをつくったのが、ぺ平連事務所での僕の最初の仕事でした。
当時、ぺ平連は、ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムスに「殺すな」と毛筆で大きく書いた意見広告を出していたんです。市民のカンパでね。日本からアメリカの新聞に意見広告を出したのは、これが最初です。その「殺すな」という文字は岡本太郎さんが書いたんですが、それをデザインして、缶バッジにしようと考えた。でも、実際にはどうしたらいいのかわからない。とにかくデザインをしてもらおうと思って、銀座あたりのデザイン事務所に、「反戦.ハッジをつくりたいんですけど」って持っていった。たしか誰かの紹介があったと思いますが、とにかく一人で行ったんです。
そうしたら、ジーパン届いた小柄なお兄ちゃんが出て来て、いいよ、いいよって簡単に引き受けてくれました。その彼はミッキーマウスの腕時計をしてた。かっこいいなと思ったんだけど、当時三〇歳くらいのその人は、じつは煙草の「ハイライト」の包装デザインをやったりして新進デザイナーとして注目されていた和田誠さんでした。あとになって、彼に僕の本の装丁もやってもらいましたが、あのときバッジのデザインを図々しくお願いにいったのは僕ですけど、と言ったら、和田さん、覚えていましたね。そうやって彼にデザインしてもらって缶バッジをつくった。いまはあの種のバッジは日本の広告宣伝でもたくさん使われていますが、あれは僕が最初につくったと。ちょっと自慢したい(笑)。……
(鶴見俊輔・吉岡忍『脱走兵の話――ベトナム戦争といま』22〜23ページより)
吉岡
鶴見さんが脱走兵援助をはじめられたのは、四五歳のときですね。あれが、鶴見さんにとって悪の楽しみだったとしたら、僕みたいな一八歳のはな垂れ小僧にとっては何だったか。
最初に、反戦バッジのことを言いましたね。あれはあの時代、アートとして、新しかったんです。和田誠さんに会って、かっこいい人だなと思って、帰り道に同じミッキーマウスの時計を買ったりした。つまり、その時代に流行っているものってありますよね。小説や映画や、ときには思想にも、そういうものがある。思想がファッションだ、などというと、鶴見さんから、だから日本のインテリはダメになったんだ、と嫌われそうですが(笑)、言葉でこねくりまわすだけでなく、その思想をデモなり、脱走兵援助なり、反戦フォーク集会などで実践してみたら、少しは体に残るんじゃないか、と僕は思っている。問題なのは、しゃべったり書いたりはするけれど、そういう人たちは現実には何も働きかけない、何もしない、ということの方でしょ。
半分冗談で言いますけど、僕はいつべ平連をやめようかなって、最初から思っていたんです。僕にはすごく簡単なモノサシがあった。それは、デモをしている女の子たちのスカートが、普通に銀座を歩いている女の子のスカートより長くなったらやめよう、というとです。あのころ、ミニスカートが流行っていましたね。デモのなかにいる女の子たちは過激に超ミニで、銀座あたりの歩道を歩いている子は、普通のミニだった。
つまり表現として、ファッションとして、何かをやるときっていうのは、まず気分的に過激なんですよ。たとえば音楽でも、ビートルズを聴いている学生はたいてい何もしない。僕らはローリングストーンズやドアーズを聴いている、とかね。一〇代のおしまいくらいって、つっぱることがあるてしょ。学問という方向にはなかなか頭が働かなくて、着るものとか、音楽とかで。あのころはジーンズというものが店になかったんです。ほんとに古着だったんですよ。上野のアメ横でモデルガンを買ったついでに、古着のジーパンなんかも買ったりしていた。ベ平連の事務所のなかで、最初にジーパンはいていたのは僕だったと思う。ほかの人たちは石津健介のヴァン風とか、女の子ならタータンチェックだった。それから、僕はかかとの高いブーツをはいていましたね。そのうちにオレンジ色のジーンズをはいたりね(笑)。つまり、何を言いたいかというと、頭のよい人は何もしないっていうけど、普通の人もなかなか何もしないっていうところがあってね、そういうものに対して、反抗するというか、突っ張るというか、それが一〇代の子どもにとっては表現だったんしゃないか。だから、カッコよさって大事なんですよ。
イラク戦争が始まったとき、僕も個人的にいろんなデモに行きました。アメリカ大使館前にも行ったし、若い人たちが主催した日比谷野外音楽堂の集会にも行きました。だけど、彼らを見ていて、ちょっとみんな仲良しになりすぎていて、突っ張ってひりひりしているようなところがないな、と感じた。デモでも集会でも、手持ちの材料だけてやっている感じがする。すごい啓蒙的なんですよ。あの雰囲気が、僕には嫌なんてすね。反戦デモや集会っていうのも、表現なんですよ。ビデオや音楽やコンピュータとか、いろんな道具がいまありますけど、自分たちが思っていることを言うためには使っていないな、という印象がある。
ベトナム戦争のときも一九七〇年が境目てすね。それからだいたい半年くらいで、やっぱりスカートが、デモ隊より街かどの女の子たちのほうが短くなった。ああ、やめようかなと思って、実際しばらく休みましたね。……
(鶴見俊輔・吉岡忍『脱走兵の話――ベトナム戦争といま』77〜79ページより)
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