122国富建治「『全共闘世代』の経験をどのように言語化すべきなのか」(『 季刊 運動〈経験〉』2006年 No.19)(2006/12/18記載)

 反天皇制運動連絡会が編集する季刊『運動〈経験〉』2006年No.19 の「ロング書評」欄に、国富建治氏が「『全共闘世代』の経験をどのように言語化すべきなのか」と題して、小阪修平『思想としての全共闘世代』、絓秀実『1968年』(いずれも筑摩新書)の書評が掲載されている。このうち、ベ平連の評価に関する部分だけを以下にご紹介する。

    ベ平連と共労党――絓秀実の思い込み 
 他方、絓秀実の『1968年』は、一九五〇年代後半の日本の新左翼連動の創成期からの運動史・思想史を、いくつかの断面を通じて切り取るものとなっている。たとえば
べ平連と共労党との関係、一九七〇年七・七「華青闘告発」の意味、一九七〇年代の「偽史」的想像力と太田竜、日本浪漫派、内ゲバと「連合赤軍」などである。
 ただし、そのまとめ方はかなり強引で、思い込みと誤りが随所に散見される。たとえば「べ平連」と共労党との関係の分析に、その強引な思い込みが最も端的な形で示されている。絓によればべ平連は、もともとソ連派として出発した共労党(共産主義労働者党)員(吉川勇一、武藤一羊、いいだもも、栗原幸夫ら)と無党派市民との合流を通じて作られたものであり、そこではソ連の「平和共存」戦略が色濃く貫かれていたとされる。
 「無党派市民の反戦平和主義は、米ソどちらの側からの戦争にも反対するというたてまえをとっていた。しかし、事、ヴェトナム戦争についてみれば、アメリカがヴェトナムの民族自決という平和的・民主的要求を阻害している帝国主義的な戦争勢力であり、ヴェトナム解放民族戦線を支えるソ連邦は平和勢力であるという図式をこえることはできなかったと言うべきだろう。この意味でも、ソ連の平和共存路線は有効に浸透していたのである」。「今日の歴史的な記述において、『ただの市民』の運動として賞賛されるべ平連の運動は、ソ連邦の支えなしには不可能であったと言ってよい」。
 そしてこの「平和共存戦略」は「帝国主義戦争を内乱へ」というレーニン主義戦略の「現代的適用」だとされる。絓の整理によれば「平和共存戦略」に埋め込まれたこの「内乱戦略」の矛盾が顕在化したのが一九七〇年前後の共労党内における「現代世界革命」派と「平和共存」派の分裂であり、べ平連内共労党員の多くは「平和共存」派としての少数派に属することになった、とされる。
 私は共労党やべ平連の運動とはおよそ無縁であったから、何かを語る立場にはない。しかし、私が見聞した範囲ではこれは事実に反するのではないか。この時ソ連派=「平和共存派」として共労党から離れるのは、松江澄らのグループ(後の労働者党全国委員会)が中心であり、べ平連内の共労党員は決して「平和共存」派としてくくられるものではない。むしろベトナム反戦運動と一九六八年反乱をビビッドに受け止め「現代世界革命」派への転換の舵を切った人びともいたはずだ。
 また絓は、「革命党派の党員が大衆団体に参加する場合、……『革命運動』という方向において大衆運動を位置づけていなければならないはず」なのだから、べ平連の主要メンバーが共労党幹部であった以上、そこには「党派の意思」が貫徹していたのは当然であり、小熊英二や道場親信が述べるように「党派の活動とべ平連の活動は区別され、党派の『衛星』団体となることを彼ら(共労党員)自らが防ぐ、という、日本の運動史上でもまれな形」が成立していたという道場の評価を「ノンキ」な話と否定している。しかし私が理解するかぎり、共労党員のべ平連への参加は、少なくとも彼らが除名された共産党のフラクション支配の政治とは異なった論理で展開されていたと考えている。すでに共労党においては事実として古典的なレーニン主義的組織観は溶解していたのではないか。 絓の主張は、共労党=ソ連派=「前衛党としてのフラクション政治」という固定観念的命題に即した整理ではないか、というのが共労党の外部から見た私の実感である。……
(『季刊 運動〈経験〉』2006年 No.19 109〜110ページより)

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