121 内村直之「ニッポン人脈記 数学するヒトビトB 暗号解読『命からがら』 大学追われベトナム反戦」(『朝日新聞』2006.12.13夕刊)(2006/12/18搭載)

 数学は政治的に中立な学問であるが、数学者は政治的になることがある。元東京農工大教授で位相幾何学を専門にする福富節男(ふくとみせつお)(87)は、反戦にのめり込んだ。
 福富はあこがれの東大数学科に入学した。太平洋戦争が始まり、42年9月、卒業を前にばたばたと、生まれ故郷である樺太の砲兵連隊に入営した。
 翌年、東京に戻され、暗号の開発、解読に携わる陸軍特種情報部に勤務した。米軍の暗号機の秘密を解き明かす手がかりを得る。
 戦時中、暗号にかかわった数学者は福富だけではない。日本陸軍は「陸軍数学研究会」を東大の数学教室と組織、暗号開発に力を入れていた。しかし、福富は、数学者には珍しく戦線に出た。フィリピンのマニラで解読の実作業に取り組んだが、作業は徒労に終わった。戦況悪化で日本軍は敗走、福富はいろいろな部隊にくっついて命からがら逃げ帰った。帰国後も解読作業をさせられた。終戦の前日、暗号関係の書類を焼いた。
 戦後、東大に戻った福富は、日本数学会の設立と、数学辞典の編集に尽くした。この辞典は77年に英訳され世界に広がる出来だった。ただ、福富は、著書の中で「戦争についてできるだけ無関心でまきこまれ方を少なくしたいとだけ考えていた」と告白している。
 後の日大闘争の前哨戦となった「日大数学科事件」が、福富の心を変えるきっかけになる。
 62年秋、福富は日大数学科に勤め、「学生は増やすが教師は増やさない」という学科の拡大方針に反対していた。大学当局は福富ら4人に対し、「思想に合わぬ」と辞職を求めた。福富以外の3人は、福富が日大に呼び寄せた人材だった。福富は東京農工大に、他の3人も他大学へ散った。
 そして、ベトナム戦争が、福富の心に反戦の炎を燃やす。
 65年2月、米ジョンソン政権がベトナム北爆を開始した。2カ月後、福富らは来日したフィールズ賞受賞のフランス人数学者ローラン・シュワルツに会った。シュワルツが話題にしたのは政治のことばかり。彼から同じくフィールズ賞受賞者である米国人スティーブン・スメールが、北爆への抗議運動を始めると聞いた。福富は、連帯する電報を送ろうと、開催中だった数学会の会場で呼びかけ、賛同者141人を得た。
 この年の10月、福富が中心になって「ベトナム問題に関する数学者懇談会(通称・ベト数懇)」をっくった。福富は、べ平連運動にも参加、脱走兵や徴兵拒否者の援助にかかわる。
 それから40年余り。今年11月、数学者の有志たちが教育基本法改正に反対するアピールを出した。「人の心や家庭のあり方に法律が入り込み、口をはさむなどとんでもない」。米寿を迎える福富の名も、そこにあった。
 福富が無党派とすれば、戦後の東大数学科で急進派だった一人は銀林浩(ぎんばやしこう)(79)だ。前述した「日大数学科事件」で福富と共に日大を追われた一人である。東大入学後、共産党に入り、東大理学部自治会をリードした。50年のレッドパージ反対の全学ストを指導した責任を取らされて退学処分となった。復学後、学生運動の急降下とともに共産党を離れ、東京工業大の遠山啓(とおやまひらく)の研究室に特別研究生としてやっかいになる。銀林は、遠山を中心に設立され、今も続く数学教育研究実践団体「数学教育協議会」にかかわり、後に委員長にもな

る。「学生運動を数学教育に持ち込んだようなものだ」と銀林。
 日本の数学者で現役政治家は、おそらく広島市長、秋葉忠利(あきばただとし)(64)だけだろう。「ヒロシマの心」を世界に発信し続ける。東大数学科、同大学院を経てマサチューセッツ工科大で博士号を受け、タフツ大で准教授を務めた。べ平連の国際シンポジウムで同時通訳をした際に福富と出会っている。
 「数学者は論理的なので、基本的なスジは譲れない譲らない、というのが政治的特徴だろう」と秋葉。だからこそ反体制的に政治を考える数学者が多いのかもしれない。   (内村直之) 
    〈写真 上・米軍が使った暗号機の説明をする福富節男さん 中・銀林浩さん 下・秋葉忠利さん〉

もとの「最近文献」欄に戻る    

  ニュース欄先頭へ   placarhome.gif (1375 バイト)