641 戸井十月さん逝去。 (2013年07月31日
掲載)
作家の戸井十月さんが本日、逝去されました。64歳でした。残念でした。哀悼の意を表します。
とりあえず、以下に、親しい友人のKさんとYさんからのメールによる訃報を転載いたします。
「今日(2013/07/28)12時20分、戸井十月さんが入院先の聖路加国際病院557号室で逝去しました。
3年前、肺がんが判明し、闘病中でしたが、その間にも海外取材等をつづけ、NHKなどで番組を制作・発表してきました。
数日前、今年になって3回目の入院をしていましたが、残念な結果になりました。
昨日はKが、今朝はKとYがお見舞いに行ってきました。
病院には家族のほか、十数人の旅行仲間や学生時代からの友人などが駆けつけており、病室で最期を見送りました。
大きな呼吸がだんだん間遠になり、息をしなくなってから20分後、心臓も停止しました。
静かな最期でした。
15時過ぎ、あらためて寝姿を整えた彼にも会ってきました。
多少痩せてはいますが、精悍な、いい顔をしていました。
今後の予定などはまだ決まっていません。
おそらく葬儀は家族などで行ない、その後、別の機会を設けてお別れの会を開くことになるだろうと思います。
詳細がわかり次第、またお知らせいたします。 K , Y」
戸井さんの公式ホームページ「越境者通信」は、http://www.office-ju.com/ ですが、それには、戸井さんの作品、小説その他が多数掲載されています。是非ご覧になってみて下さい。
ここには、その中の「100枚のエハガキ」という短篇集の中の第17号の「空にいる友」前後編をご紹介しておきます。
これは、旧ベ平連事務局メンバーで早世された吉田泰三さんのことをテーマにされ他作品でした。ここに出てくる忍野は、故吉田さんが闘病を続けた場所で、お姉さんがいらっしゃる家があります。そこには、戸井さんをはじめ、多くの旧ベ平連の仲間が毎年、春秋に吉田さんを偲ぶ集まりをしています。戸井さんはその集まりの代表の一人でしたが、今や彼も「空にいる友」になったのですね。
空にいる友
(前編)
河口湖ランプで中央自動車道から下り、138号線を山中湖に向かって走る。木の匂いのする風は切るように冷たい。高い空に屹立する富士山の冠雪が、午後の陽差しを反射してキラキラ輝いている。気がつけば、もう12月。今年も、1年があっという間に過ぎてしまった。
浅間神社の先を左に折れて忍野の方へ下った。週末は別荘などへ向かう車で混んでいるが、平日は深閑としていて空気も澄んでいる。道は自衛隊基地の先で左に曲がり、葉を落とした雑木林の中へ延びてゆく。
30年来の友、吉井(よしい)の家は雑木林の奥に隠れるようにしてあるが、そこに吉井はもういない。吉井は5年前に死んだ。脊椎空洞症という名の難病と20年間闘った末の、窒息による静かな死だった。今は、20年間手足となって吉井を支えた姉が1人で暮らしている。
エンジンを止めると静寂に押し包まれた。桂田(かつらだ)がバイクから下りるのを見計らっていたかのように、ログハウス風の家のドアーが開いた。
「いらっしゃい」
吉井の姉が半身を乗り出していた。桂田はヘルメットを外して会釈を返し、デイパックを背負ったまま家の中に入った。
食堂兼居間の奥の、かつて吉井と姉が寝ていた部屋に入る。部屋はひんやりと寒かった。壁際に祭壇のようなものがあり、そこに並んだ花や本を見下ろして吉井が笑っていた。30歳の頃の吉井だろうか。写真の中で時間は止まっている。
桂田はデイパックの中から旅のみやげを出して祭壇に置き、写真の中の吉井の笑顔を見据えた。ただいま、と心の中で吉井に声をかける。合掌はしない。手を合わせたら、吉井が本当に仏様になってしまったような気になる。吉井は死んではいない。いつも自分の傍にいる。少なくとも桂田はそう思っている。だから合掌はしない。
桂田は、旅から無事に帰ったことを吉井に報告する。写真の中の吉井は、桂田の報告を嬉しそうに聞いている。桂田と吉井の無言のやりとりを、姉もまた黙って見ている。
桂田と吉井は20歳の頃に出会って意気投合した。それから6年後に吉井が倒れ、20年間に及ぶ車椅子の生活が始まった。手足の麻痺から始まった病気の進行はやがて五体の自由を奪ったが、吉井の明晰な頭脳と大らかな人柄が犯されることはなかった。吉井は死ぬ数ヶ月前まで付近の悪ガキたちに勉強を教えた。教師を蹴飛ばし、親に唾を吐くような少年たちが吉井の前では不思議と素直になった。自分の手足さえ自由にならない吉井を、しかし少年たちは尊敬し、その前で裸になったのだ。車椅子の吉井は、そういう力を持った男だった。
吉井は強かった。自分の運命を淡々と受け入れ、最後の瞬間まで前向きに生きた。人前では怨みごとも泣きごとも一切口にしない吉井だったが、しかし1回だけ、桂木にこう言ったことがあった。
「不思議と病気には腹が立たないんだ。病気も俺の体の一部だし、人にはそれぞれどうにもならない運命ってものがあるからな。でもさ、旅ができないことは正直言って悔しいよ。外の世界を見たいと思っても、それができない。それだけだな、自分の運命に腹が立つのは」
吉井はふざけるように笑って言ったが、その目は本当に悔しそうだった。桂田は、今でもあの時の吉井の顔を忘れない。
(後編)
「今度は長かったのね」
吉井(よしい)の姉が淹れるコーヒーの香ばしい匂いが家の中に広がる。吉井はコーヒーと煙草が好きだった。倒れて以降さすがに酒は飲まなくなったが、コーヒーと煙草は最後まで楽しんだ。自分の指で煙草が挟めなくなった後も、姉や友人や教え子たちに助けられて煙草を吸った。桂田も、吉井の口に煙草を銜えさせてやったことが何度もある。
「丸々4カ月かかりました。大陸を縦断する旅ですからね。アフリカは大きいですよ」
桂田(かつらだ)は、アフリカ大陸を縦断する長い旅から1週間前に帰ってきた。桂田は、テレビ・ドキュメンタリーのディレクターだ。仕事柄、旅が多い。そんな桂田の仕事を、吉井は心の底から羨ましがっていた。桂田は、長い旅の後には必ず吉井に報告に来る。不思議だが、そうしないと旅が終わった気がしないのだ。
姉の淹れてくれたコーヒーを2杯飲み、煙草を吸いながらアフリカの旅でのエピソードをいくつか話す内に窓の外が暗くなってきた。
「そろそろ失礼します」
桂田は席を立ち、奥の部屋に入った。写真の中で吉井が笑っている。桂田は煙草に火をつけ、それを写真の前の灰皿に置いた。揺れながら立ち昇る煙を吉井がうまそうに吸っている。また来るな、と声には出さずに言い、桂田は部屋から出た。
「気をつけて」
姉の言葉に頷き、バイクに跨る。
「また来ます」
ヘルメットの中でそう言い、桂田は静かにバイクを発進させた。バックミラーの中で、雑木林に囲まれた家が闇に溶けてゆく。
138号線に出、中央自動車道の河口湖ランプに向かう。地平線のあたりはまだ仄明るく、空にも微かな青みが残っている。夜空より黒い富士山の影の脇に、銀色の盆のような月がのほほんと浮いている。
切るように冷たい風。誰もいない道。闇を照らすヘッドライト・・・。頭上の月が吉井の顔に見えた。吉井が冷たい風を切って1人走る桂田を見守っている。
桂田は、今年53歳になった。生きていれば吉井も同じ齢だ。お前の分まで旅をするから心配するなと、桂田は月を見上げて言った。空にいる友が笑ったように見えた。
終わり
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