もののべながおきさんとベ平連

吉  川   勇  一

 

 

もののべさんは「ベ平連」ではなかった

 

 まずベ平連ともののべさんとの関係から始めたいと思います。それは、もののべさんは「ベ平連」ではなかったということです。これにはちょっと注釈がいるでしょう。

 ベ平連は広い意味ではもちろん組織と言えますが、ただそれまでの大部分のいわゆる平和団体が持っていたような会員制度も規約も会費もなく、およそ、それまでの組織とは違ったありようをしていました。ですから、地域や学校、職場などでベトナム反戦のグルーブができた場合、それを「○○ベ平連」と名乗ろうが、全然別の名前を付けようがそれは当然そのグルーブの勝手で、前者の場合も、ベ平連「中央本部」(そんなものはないのですが)の承認も了承も必要はありませんでした。ベ平連を名乗ったところで、上下や本部・支部の関係はなく、命令、服従、民主集中制など、いっさい関係ありませんでした。

 ですから、ベトナム反戦の組織は一九六七年以降、続々と誕生するのですが、あるものは「○○ベ平連」と名乗り、あるものはまったく違う名称を名乗りました。記録に残っているものだけで、こうした組織は三五〇近くになります。

 こうして、一九六七年七月一日に第一回のデモを始めた武蔵野、三鷹地区のグループは「ベトナム反戦チョウチン・デモの会」と名乗りました。当時の事務所は束京神学大学の中におかれていました。

 しかし、こうしたグルーブ、それまでの社、共、総評など大規模既成組織主導型運動と区別される自立したベトナム反戦グル一ブを総称するとき、マスコミは一括して「ベ平連系運動」とか「ベ平連系組織」とか呼びました。有名な話ですが、山口大学の学生が数人で反戦デモの計画をし、警察にデモ届けに行ったところ、主催団体の名称を聞かれ、そんなものはまだ決めていない答えたら、警察側が、そういうのは「ベ平連」というのだ、といって「山口大学ベ平連」と書かされ、そこで山口大ベ平連は発足することになってしまったのです。

 もののべさんはこうして、自分の参加する運動が「ベ平連系」と一括されることを強く拒否されました。「ベ平連系の武蔵野・三鷹ちょうちん・デモの会」などと言われたり、書かれたりする度に、「私たちはベ平連じゃあない、武蔵野・三鷹ちょうちん・デモの会だ」と声を大きくして訂正しました。

 これはベ平連、特に神楽坂に事務所を置いていた私たちへのある点での批判もあったかもしれませんが、ベ平連への反発というよりも、本来ベ平連運動の精神でもあったそれぞれの自立性ということを、特にもののべさんが重視していたからだ、と私は思います。神楽坂のベ平連はベ平連、武蔵の三鷹のグループは武蔵野三鷹、私は私、その個を重視されたもののべさんは、時にその個の強い主張が、周囲を蹄易させることもないではありませんでしたが、もちろんその真意が誤解されることはなく、あくまで信念を貫こうとする姿勢は見事でした。その自立の精神は、もう一つ、権力、権威、強者に対するあくなき抵抗、それからの自立の姿勢によって裏打ちされたものでした。

 「私たちはベ平連じゃあない」というもののべさんの言葉に、私たちベ平連は、運動が大きくなったことから必然的に出てきがちな、運動の官僚主義化、おごり、保守化などへの批判も読みとり、反省、フィードバックも可能にさせられたのでした。

 

「東京都反軍平和条例」のこと

 

 信念を貫く、という点で、私個人が内心もののべさんに対して忸怩たるものがあるところを一つだけ申し上げておきます。ここについ最近出版された林茂夫さん編集の『平和の条例・条例案』というパンフレットがあります。そこに「東京都反軍平和条例案」という文書が載っています。これは、1971年、立川の自衛隊基地に反対する市民運動が、「立川市反軍条例」を地方自治体法に基づく条例として制定させようとする運動を受けて、もののベさんを初め何人かの人が立案した東京都の条例案です。これを都が却下したことに対し、その違法を問う訴訟が美濃部都知事を相手に行なわれました。私も最初、その原告にもののベさんとともに加わりましたが、一審で敗訴のあとは原告から退きました。しかしもののべさんは2審以降を、私の記憶ではほとんどお一人で、しかも弁護団抜き、自分が弁護の役割も引き受けて闘いぬかれたのでした。一徹とも言えるその姿勢は、運動にも大きな影響を与えられ、今、それはこうして歴史的な文献として残るにいたっています。

 

歴史的な1969年11月17日の日比谷での演説

 

 一九六九年一一月一七日、佐蔭首相訪米阻止の集会、デモを東京都公安委員会が禁止したとき、私たち、6月行動委員会は行政処分執行停止の訴訟を、もののべさんを代表として起こし、私ももののべさんらとご一緒に、裁判所に通い、そしてそれに勝利しました。裁判所は、この東京都公安委員会の決定を憲法の認める表現の自由を侵す違法なものだと決定し、禁止の撤回を命令したのです。しかし、佐蔭首相自身が、この裁判所命令を無視する異議申し立てをするという強権を首相の権限において発動し、デモは再度不許可になりました。

 その時の集会での、もののべさんの演説は、実に迫力あるもので、そこに参加していた一万五千の人びとの心を強く揺さぶるものでした。その一部をご紹介します。

「われわれの正当なデモの権利も認められない昨今になってしまった。本日のデモは裁判で勝利したにもかかわらず、首相の異議申し立てにより取り消された。首相の異議申し立ては、本来、事後に国会の承認がいるのだろうが、首相はそれも恐れてはいないだろう。なぜなら、議会は、もはや死にたえてしまった。これからの諸君の行動について、束縛する権利は実行委員会にはない。諸君は諸君の個人の責任において、これからの行動を決定してほしい」(『ベ平連ニュース縮刷版』286ベ一ジよりの引用」)

.この演説のあと、どうなったか、引き続き『ベ平連ニュース』の記事を引用して終わりたいと思います。

「人々は三々五々、公園を出て行く。大学ベ平連は公会堂の前で集会をし、ジクザグデモをしている。人々は公園の外へ進む。国電が止まるかまもしれない。そんな噂も飛ぶ。突然、目の前にフランスデモが広がっていた。人々は自らの意志と責任において、自ずからの意志で自らを解き放ち、デモを始めた。佐藤がいちばん恐れ、彼らの最大の武器を使って、禁止しようとしたコースでデモをはじめた。「声なき声の会」「武蔵大ベ平連」の旗やのぼりが見える。夕闇のカスミの中で、後方がすべては見えはしなほどの長い長いフランスデモが道を埋めてゆく、最初は黙々と。だれかが「アンポ、フンサイ」「ホーベーソシ」とさけんだ。三千人が続いた。そして東京駅八重洲口まで続く、一つのデモは貫き通された。

品川へと進んだ人々もあった。ふくれあがる人々の群れ、機動隊に負われ、逃げまどう人々も飛び込んでくる、フランスデモは品川のすぐ近くまで続く。これらのデモはわたしたちの最大にして最強の抗議の意志を含んでいた。わたしたちはわたしたちの進む方向をわたしたち自身の手で決めたい、選びたいのだ、決して、佐藤にも、ニクソンにも決めさせることはできないのだ。デモはそう語っている。人々の渦巻がそう語っているのだ。」(同号)

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