ベ平連への批判的文献
杉山龍丸・(1)『 平和をもたらすもの』、(2)『たより』、(3)『ベトナムに思う』 「声なき声のたより」 (1)は35号・1966年8月、(2)は53号・1971年12月31日号、(3)は56号・1973年8月15日号より (『復刻版 声なき声の便り』第一巻 、第二巻にも)
杉山龍丸さん(1919〜1987年9月20日)は、インドの緑の父(Green
Father)と呼ばれる人物。杉丸さんの名前は、1965年4月のベ平連発足の際の最初の「呼びかけ」の中に、小田実、開高健さんらとともに含まれている。その時の肩書きには「玄洋社国際部長」とあった。また、同年5月のベ平連第2回のデモの「呼びかけ」にも「人形師」として名が含まれている。翌1966年8月、ベ平連は東京で「ベトナムに平和を!日米市民会議」を開催するが、杉山さんは「玄洋社常務理事」として、日本代表の一人に入っている。上述の文の(1)は、その直後にベトナム戦争に関連した叙述で、そこでは、ベ平連自体についての意見は書かれてない。だが、(2)の1971年12月の文には、「……ベ平連も解散と聞きました。小田実君とも鶴見君とも久しく会いません。京都での会議で、ブラックパワーとゲバ学生パワーとの結合をみて心配していたことが現実になったようです。……」と書いている。この「京都の会議」というのは、おそらく、前年8月にベ平連が主催した京都での「反戦と変革に関する国際会議」のことかと思う。そして、(3)では、「……アジアの飢饉は、第二次大戦の戦地、戦災者の数より、多い数の餓死者を僅か一年で出している。べ平連はそれに一顧だに与えていない。今年から、ベトナムの米ソの直接援助による戦いはないが、ベトナムの戦いは続く。しかし、アジア全体、百年に一回という、飢餓が、アジアのみでなく、全世界の異常乾燥という問題が迫っている。……」と、ベ平連に対する強い批判的意見を書かれている。杉山さんは、ベ平連の後半では、ベ平連への批判的態度をもつようになったようだ。以下にこの3点の文を紹介する。
なお、杉山さんについては、杉山龍丸『砂漠緑化に挑む』 葦書房、(1984年
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死の2年前の論文を含み、緑化のノウハウをまとめている)と、杉山満丸『グリーン・ファーザー インドの砂漠を緑にかえた日本人・杉山龍丸の軌跡』 ひくまの出版、2001年(長男がインドでの緑化事業の軌跡を訪ねたドキュ
メント)をごらんください。ただし、前者は売り切れで、古書は5.000円ほどになっています。
また、2011年2月17日、NHK・BSプレミアムで放映されたテレビマンユニオン制作の『トライ・エイジ〜三世代の挑戦』の第3話「杉山家三代の物語」は非常に興味深い作品でした。
(1)『平和をもたらすもの』 杉山龍丸
第二次大戦直後、我々の眼の前に現われたものは、思想による、米ソの冷戦てあった。それは独逸の二分と朝鮮の南北分裂、中国の国共の争いを伴い、又人類に、核戦争の恐怖をもたらした。 『声なき声のたより』 39号(1966年8月5日発行) |
(2)『たより』 福岡市 杉山龍丸
お変りありませんか。庭の柿の実も真赤になりました。その柿をみつめて、ふと、ああ、遂に今年も終りつつあるな、と思いました。べ平連も解散と聞きました。小田実君とも鶴見君とも久しく会いません。京都での会議で、ブラックパワーとゲバ学生パワーとの結合をみて心配していたことが現実になったようです。
十一月六日
『声なき声のたより』 53号(1971年12月31日発行)
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(3)『ベトナムに思う』 杉山龍丸
「ベトナム」! 『声なき声のたより』 56号(1973年8月15日発行)より。
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