十 年 (『声なき声の便り』50 1970年6月10日号より) 全文
高 畠 通 敏
哲学者のベルグソンが、生命を巻物がころがって拡がってゆくさまにたとえたことが記憶に残っている。運動するということも、それと似たようなものだ。過去は拡がってゆくのだけれど、いつも今しかなくて、もう十年といわれても、あらためての感慨も湧かず、来月何をしよとかということのほうで頭がいっぱいになる。往事片々、十年は夢の如しという心境である。しかし、これでは老人のボケてきたときのいいぐさと同じだ。活力のあるものは、区切り目ごとにきっちり巻物を点検し、明日からの拡がりの方向を自覚的にコントロールできなくてはいけない。市民連動のこの十年をふりかえって、何が私たちの努力にたりなかったかを反省すべきときに、やはりさしかかっているのである。
私の手もとには、この十年間に私たちが知り合い連絡を取り合ってきた人たちのカードの山がある。二千枚をこえるこのカードを繰ってみれば、その一枚一枚から、この十年間の思い出の一こまか呼び出されてくるようだ。この一月の集会で会った十年目のつきあいの人の数は十人だった。それは決して少ない数ではない。しかし、二千枚のカードにくらべれば多すぎるとはいえない。私たちはこのカードを大切に保存することを、はじめの目的の一つにしていた。いつか連絡がとだえた人たち。生活が忙がしくてつい足が遠のいた人たちが、私たちの「非常招集」の案内でかけつけてくれる日がいつかはくるという期待が私たちの運動を支えていた頃があるということだ。十年目、それはそのいつかの年になるはずだった。しかし、今そういうことが可能だろうか。そういうことが起こりうるだろうか。私はひとり首をふってカードの山をしまいこむ。そして考える。私たちの期待に「若者よからだをきたえておけ」式の安易さが潜んでいたことは確かであり、また、声なき声に今集まってこない人たちのなかで、他のいろいろの場所に自分の使命を見出して活動している人たちがたくさんいることも事実である。また、七十年が六十年と「客観条件」がちがうことをいくらでも数えあげることができる。にもかかわらず、そういうことのすべてを割引いたあとに残るいくらかの部分には、私たちの責任として考えるべきものがないだろうか。今、私が考えたいのは、そのことについてなのである。l
十年という時間のへだたりを置いてふり返ってみると、いくつかのポイントがよりくっきりと浮かびあがってみえるように私には思える。その一つは、無党派の市民運動ということの意味だ。運動に新しく入ってくる人は、必ず一度はこの壁にぶつかる。だから、市民運動はつねにこの問題をかかえてゆれる。ゆれつづけるなかで、私には無党派であることの意味が、より明確になってくるのである。一九六〇年の時、無党派の市民運動が誕生したことの政治的意味は、運動に「国民運動」的イメージを与えることにあった。「議会主義擁護」「民主主義を守れ」のスローガンは、戦後民主主義の国体的タテマエだった。だから、〈本当は〉党派に属しているが、「戦術的に」無党派の市民運動のなかで活動するという人がかなりいたのは事実だ。その人たちにとって、声なき声も、いろいろな「民主団体」のうちの一つとして心得られていたわけだ。他方、無党派であることの意味を、市民の「ひ弱さ」のための弁明だと考えた人々もあった。ようやく政治的に「目覚めた」民衆が、まだ充分に政治意識が〈高く〉ないため、無党派の段階に止まっているという考え方である。
どちらの考え方に立つにせよ、こういう思考の名残りを止めているかぎり、市民連動は党派の運動に対して従属的な位置以上にふみでることはできない。60年のときに党派とは社共であり、今日ではそれは新左翼セクトなのだが、党派にとって市民運動とは、カモフラージュであり草刈り場であり、また戦術的協同のためのセメントなのであって、市民運動に参加しているものも、自らの役割をシンパ、第二戦線、あるいは前衛のための救対に甘んじて限定してしまう。
党派と無党派との間の関係は、こういう「前衛」と「後衛」、「指導部」と「大衆」との間の関係と同じなのだろうか。いや、こういう図式のなかに、すでに、「大衆」が「指導部」をつねにのりこえてゆく運動ダイナミクスを無視した「指導部」的発想がひそんでいるのではないだろうかと私は思う。
こういうことに私が深く気をとめるようになったのは、すでに一九六〇年の連動の中で「指導部」のかかげたいろいろな公式スローガンや論説とは全く別なところで、運動が成立しているのではないかということに気がつくようになってからである。
運動の波が引いて、なお残った人たちが、固いくちびるを開いてあるいはとぎれとぎれに、あるいは淡々と自己を語り出したとき、青二才の私は街頭に出た大衆ひとりひとりの生活体験のなかに沈澱し、そこからにじみ出てくる情念の生々しさに圧倒されたのだった。それは、戦中戦後を生きてきた庶民の悔恨であり、怨念であり、絶望でもあったのだが、そういう個々人の内面にうごめいているものに比べれば、「指導部」や知識人の理論や言説は、いかにも表面的なきれいごととしか映らなくなったのも当然だろう。
私のこの〈実感〉は、その後の十年の才月を経てますます深まっている。それは、安保知識人が市民運動から研究室や論壇へ復員してゆく過程の中で、新左翼諸セクトがさまざまな戦略的展望と〈位置づけ〉の下に大衆運動の引きまわしをはじめる中で、あるいは反博の際に浮び出た〈土民派〉の反逆の中で、すべて同じテーマの繰り返しとして私には実感されてきているのである。
市民運動をスローガンや路線における幅広主義としてではなく、ましてや革命への戦略や展望における統一としてではなく、大衆の根にあるところの心情に即した共同性の表現としてつくり上げてゆくということ、それが、この十年間を通じての私のテーマだった。運動を、そういう大衆的根源に戻すことによって、運動に自ずからなる革命性と大衆性を備えさせること、それが私にとっての市民運動の課題に他ならなかったのである。だが大衆の根にある心情とは何か。それをどのように了解したらいいのか。
一九六五年にはじまったベ平連の運動が、大衆の「人間として」の心情を「自発的に」表出する場として形成されたとき、それは六〇年の市民運動のあり方から、大きく前へ進み出た。もはや市民運動は、党派のつくる運動に追随する部隊ではなく、自立的に大衆がつくり上げる運動であり、そのスローガンは、幅広的統一でありえなくなった。しかし、こういう理念とは別に、現実に展開しているここ一、二年のベ平連の運動に、私があきたらないものを感じていることも事実である。運動の〈深化〉が必然的に〈社会変革〉のプログラムへと進み、「ベトナムに平和を」は、必然的に安保、沖縄、佐藤打倒の三スローガンに深まり、運動の発展は「新左翼」を自称し新左翼セクトと協同することにゆきつくはずであるという論理が、ベ平連の運動の中に優位を占めるにいたったプロセスには、市民運動を大衆運動として考える際の不徹底さが原因していると私は感じている。そこにあるのは、大衆運動の党派に対する基本的優位性への自信の欠如なのだ。この自信と感覚がないとき、市民運動は単なる量としての大衆連動の地位におとしめられ、特定の政治目的のための力の補完として動員され利用されるものに変形させられてゆく。そして、そのことに対して、大衆は必らずや秘やかなる復讐を行わずにはいない。ベ平連のデモから手づくりのプラカードやゼッケンが次第に消え、ただ旗のみが林立するようになりつつあるとき、私たちはそれを〈状況のきびしき〉のみに還元するのではなく、大衆運動としての市民運動の本質に関する問題として考え直さなくてはならない。
私は、市民運動が根を下ろすべき大衆の心情とは、権力不信の心情だと思う。権力不信とは、直接にはもちろん政府を頂点とする体制的権力への不信であり、〈お上み〉への庶民の反感である。しかし、明治維新以来の日本の近代化のあり方は、〈維新の志士〉から〈党官僚〉にいたるまでの反体制的エリート層をも生み出してきた。階級分化よりは階級形成を社会的な実体とするわが国の出世民主主義のあり方は、反体制運動と身分構造との癒着を容易にしてきたし、今日の社会の「管理社会」化は、この問題を日本個有の問題であると同時に、最も〈先進国〉的な問題として浮かび上がらせているのである。こういう状況の中で、大衆を反政府というシンボルの下に、名望家的知識人や党官僚を先頭にして、オルグするのは、ある意味ではやさしい。しかし、そのとき、反体制運動の中に〈小天皇制〉や〈小名望家社会〉あるいは〈小大学社会〉がしのびこむのもさけがたいのである。そして、体制権力とエリート構造の交錯の中で今や二重に疎外された大衆は、深い不信の心情を孤独の中でかみしめながら、マイホームの私へ逃避するしかないのである。小田実がいう〈私状況〉が、〈公状況〉に瞬間的に対置させられながらも、ふたたび〈私〉の世界に容易に還流してしまうのは、日本の大学において、〈私〉を〈公〉に転化してゆく道筋が、その意味での〈私〉の〈個〉への転成が、反体制運動の中でさえ絶望的に閉ざされているからに他ならない。
マルクスが、共同性の実現としての階級闘争を構想したとき、そこには、政治権力からはもとより、社会的権力や文化からも絶対的に疎外されていた十九世紀イギリスの労働者階級の現実があった。プロレタリアートの独裁は、彼においては、労働者階級を、一つの自治的社会へ転化することと同じ意味をもっていた。日本の社会風土、管理社会化、そしてスターリニズムという経験をふまえて、私は、現在、日本の大衆のもつ〈反エリート〉、〈反権力〉の心情に根を下ろし、それを基盤にして自治的な社会の実体をつくり上げてゆくことは、根抵的な意味をもつと思う。それは単に、現在の政府権力を打倒し、もう一つの権力をつくり上げる基盤として市民運動を考えるのではなく、また、職業政治家やエリートがつくりあげる権力組織を前提とし、ただそれを批判したりコントロールしたりするだけの役割を市民連動にわりふるのでもなく、あらゆる権力組織のあり方をかえ、その基盤をほりくずし、それを市民の自治的組織によって置きかえてゆくプロセスとして市民運動を考えるという立場に立つということでもある。
こういう展望と反省の上に立って、これまでの市民運動を考えるとき、その歴史のくぎり目がより明確に浮かび上がってくる。
六〇年の運動のイデオロギーの一つは、職業的基盤の上に立ってということだった。各職業団体や市民が、自分の職業的論理の延長の上に立って要求を深めてゆけば、必らず政府批判にいたりうるというオプティシズムがそこにあった。文化団体としての論理の上から、家庭の主婦は主婦として、強行採決批判の論理を展開した。それは同時に、運動に協力する仕方の上にも原理化された。「金あるものは金を、力あるものは力を」という毛沢東のことばは、学者が学者として、作家は作家として運動に参加することを合理化した。さらに、この論理は、運動の持続の方法として、各職業や生活の場所での個別的、日常的要求を組織化することへ発展した。地域における市民組織は、保育所増設や下水問題などへの取組みを通じて、運動の定着をはかった。こういう論理のたて方にいわゆる戦後民主主義の刻印を見出すことは容易である。しかし、それは論理の問題というよりは、敗戦以来の社会の歴史的構造の問題としてより多く了解されるべきものなのである。
六五年型の運動は、「人間として」というスローガンの下に、職業や生活の論理をこえる共通の基盤に、市民運動は、たたなければならないことを明らかにした。また、利益の要求にかわって感性の解放が、運動の発展のためにより役立つようになった状況の変化をも示した。しかし、そこでも市民運動を群集運動と考える思考は残った。市民は〈自発的に〉心情を発散させるべく集まり、〈自発的に〉散っていった。運動の中で、職業のちがいをこえて、市民がひとしなみに隊列を組んで権力と対峙しなければならない時点があるということは了解されるようになった。それは、その意味で何のプロでもない「ふつうの市民」の勝利ではあったが、しかし、市民運動自体についてのプロとアマの区別は残った。呼びかける側と呼びかけられる側の区別でもある。同時にそれは、「ふつうの市民」が「ふつうの生活」に手をつけないまま余暇的に運動に参加している状況がのこりつづけているということでもある。
今、私たちがとりくみはじめた「安保拒否百人委員会」の運動は、これまでの市民運動へのあり方への以上のような反省から生まれているといえるだろう。はたして、それが七〇年型の運動として、新しく定着するかどうかについて、私には見通しがない。しかし、その論理だけは、はっきりしている。それは、運動の基盤を徹底的な直接民主主義に置こうとする。設けられた運動に、外側から、その日だけ参加するのではなく、設計の段階から討議に全員参加することを要求する。それは当然、運動への参加を一つの自発的な義務に変えてゆくことを意味する。
私たちの日常生活は、もはや聖域でもなければ、市民運動への唯一の源泉でもあり得ない。それは、運動の圧力の下で少しつつ変形せざるをえない。今や、日常生活における疎外のあり方が、そして運動を通じての、お互いの共同性の創出のなかでの、その克服が問われざるを得ないのである。百人委員会は、その有力な運動手段として坐り込みを提起する。坐り込みは、群集のなかにかくれた市民であることを許さない。また、市民運動が、匿名の暴力として権力の暴力に対抗することを拒否する。市民は、その無力性に徹して、しかし、その個別の人間的意志の力で権力の暴力を解体しょうと努める。
これは、私なりに、市民運動の十年を通じて辿りついた一つの結論である。今日の眼からすれば、この帰結は、十年まえの出発点において、すでに論理としてあったと見ることもできる。しかし、それが形をとることができるようになったのに十年という年月があったとすれば、必らずしも年月はムダであったとは思えない。次の十年が、よりみのりの多いものであるようにねがうのみだ。