30. 吉川さんの「ベ平連始末記」にある小中陽太郎氏の『ふぁっく』をめぐる記述について(東一邦)(2000/01/04掲載 送信は1999/12/04)
吉川さん
先日のホームページに掲載された「連合赤軍 "狼"たちの時代」の吉川さんの文章のなかに、こんな一節がありました。
『あるとき、埼玉ベ平連だった小沢遼子さんが小中さんの小説を問題にして、こんな男は追放だとか言い出して「私、帰る。あんな裏切り者とは同席しない」と。そしたら小中さんは「いやいや、いてくださいよ、僕が帰りますよ」と帰りかけた。僕は絶対、帰っちゃいけないと。イヤなら、小沢が出ていけばいいんだと。ベ平連は、人がある小説を書いたから追放だ、なんてことは絶対させないと言ったんですね。で、結局小沢さんのほうが折れた。』
私の記憶では、これは神楽坂の事務所で、在日米軍兵士たちに反戦劇を公演してまわったFTAショーのメンバーとの話し合いが行われた際のことでした。71年の秋ごろだったのではないでしょうか。ジェーン・フォンダさんもいたときです。
各地のベ平連がプロデュースしたFTAツァーの過程で、いろいろな問題がおきて、この話し合いになったのだったと思います。FTAのメンバーが4〜5人、日本側が10人ぐらいだったかと思います。
いつも会議をしていた入り口手前のスペースではなく、扉をはさんだ奥の部屋で話し合いがはじまって間もなく、小中さんがその部屋に入ってきました。そこで、小沢遼子さんをはじめ埼玉ベ平連のメンバー(私とほかに2人ぐらいいたと思います)は、「小中さんとは同席できない」として、その部屋をでて隣のスペースに移りました。
小沢さんはFTAショーのツアーにもつきあっていました(これはジェーン・フォンダさんが女性問題にこだわっていて男だけでは対応できないというので、来てもらいたいという要請が神楽坂ベ平連からあって、FTAツアーに参加したのではなかったかしら)から、そのミーティングに小沢さんが隣の部屋にいて参加しないのはおかしい感じでした。
そこで、私がわざわざ、奥の部屋に行って「突然部屋を出ていって驚かれたと思うが、小中さんとは同席できない」と集まったみなさんに言いました。それをまた鶴見良行さんが、通訳してくれたのも覚えています(「FTAの人たちには関係ないのだから英語にしてくれなくてもいいのに」と思った覚えがあります)。
で、たしかに、へんな雰囲気の中で数分がたったところで、小中さんが奥の部屋からでてきて、「ぼくがこっちに移るから、小沢さんあっちに参加しなよ。ぼくより小沢さんがいたほうがいいから」と言うので、入れ替わるように、私たちは再び奥の部屋に移り、話し合いに参加しました。
話し合いのあと、吉川さんから、私に「ああいうことは困る」と言われたのは覚えています。でも、何か反論したような覚えがあります。
というわけで、この吉川さんの文章のなかにある「こんな男は追放だ」というふうに小沢遼子さんが言ったとは、ちょっと思えません。
「神楽坂ベ平連(あるいはベ平連運動全体)から追放するべきだ」などということは、私たちの発想にはなかったからです(だって、よそのベ平連のことだし)。私たちは、あくまでも、「私たちをさしたる必然性もないのに(『ふぁっく』という小説で)戯画化して表現した小中さん」と「私たち」の問題と考えていたと思います。
「裏切り者」という言葉も、どうだったかなと思います。「人間的信頼関係を唯一のつながりの基盤にする市民団体(と、私たちは考えていましたが)で、その信頼関係をそこなうとはどういうつもりだ」とは思っていましたが、「裏切り者」というニュアンスで小中さんを思ってはいなかったように思います。
まじめな話し合いも、小中さんがあんなふうに小説に戯画化して表現するのなら、とても小中さんのいるところでは、話し合いに参加できない。それでもいいという人にはべつにとやかく言うつもりはないが、私たちはイヤだから、小中さんのいるところにはいたくない、つまり同席できないということだったのです。
また、小沢さんは、「小中さんと同席できないから、話し合いの部屋には入らない」とは言いましたが、「私、帰る」とは言いませんでした。したがって、小中さんも「『僕が帰りますよ』と帰りかけた」わけではなかったと思います。また、「結局小沢さんのほうが折れた」のでもなかったのだと思います。
結局、小中さんが「巨像と楽隊」というNHKの楽団の労組の本(これはすばらしい本でした)を出したことで、私たちの腹立ちは氷解しました。これもへんな話ですが、小中さんなりのおとしまえのつけ方とうけとったのです。逆に言えばこの程度で氷解することだったわけです。
こんなことを書いたのは、別に吉川さんの文章に訂正を求めてというわけではありません。吉川さんにとっては、あの一件はそういうこととしてあったのだと思いますし、細かい事実関係については、必ずしもわたしの記憶が正確とはいえないかもしれません。
吉川さんの文章を読んで、私たちは(私たちのあのときの腹立ちを否定するつもりはありませんが)、「この程度で氷解することだった」のに、あのときは自分の腹立ちの正当性を、対象化したり相対化することなど考えもしなかったと、あらためて思いました。
吉川さんからは、その後も何度か小中さんの件で「何とかならないのか」といわれた覚えもあります。吉川さんは、私たちの「正当性(『ふぁっく』の問題性)」を否定していたのではないことはわかっていました。わたしたちの問題のしかたが、吉川さんをはじめほかの人々に、私たちの正当性を強制することになることは認められないということだったのでしょう。「ああいうやり方は、わたしが困るんだ」と、そういえば吉川さんは、言っていたような気もします。
「正当性の強制」こそ、あの「連合赤軍の時代」のもっともありがちな、そしてあぶないことだったと、いまさらながら思います。
「ベ平連の偉かったことは『ふぁっく』という小説をうみだしたことだ。これは100年後に評価されますよ」という鶴見俊輔さんは、すごいことを(あの時点で)言ってたのだと思います。
本棚のどこかにあるこの小説をとりだして読んでみようかしら。また腹がたつかもしれませんが。
<ひがし>
吉川からのお詫びとコメント
この東さんからのメールは、昨年12月4日にいただいたものでした。掲載までに1ヶ月も過ぎてしまったことに、まずお詫びします。
理由はこうです。私はふだんメーリング・ソフトとして「Becky」を使っています。ところが、昨年12月はじめ、そのソフトに不具合が起こり、どうしても受発信ができず、そのため、1度だけ、使い慣れていないMSの「Outlook」で受信をしました。そのとき、この東さんからのメールを見落としたようです。その後、また「Becky」を修復して使うようにしたため、もう「Outlook」の受信ファイルを見直す機会もなく、そのままに打ちすぎてしまっていたのでした。たまたま、今日、「Outlook」の「連絡先ファイル」を見直しているときに、偶然、受信簿を開き、やっと気がついたという次第です。驚きました。1ヶ月後にせよ、気がついたのは偶然の幸いで、危ないところでした。とにかく東さんに申し訳なかったと思います。
さて、東さんのご指摘ですが、とても具体的に当時の状況を記憶されており、おそらく、そのほうが事実に近いのだろうと思います。私のほうは、メモがあるわけでなく、当時の記憶に自分の思い込みや意見を重ねてしまって、不正確な話を『毎日』の記者にしてしまったようです。東さんは、「訂正を求めてというわけではありません。……細かい事実関係については、必ずしもわたしの記憶が正確とはいえないかもしれません」と、老人の私に思いやりの表現をしてくださっていますが、記憶力が衰え、思い込みのみが強くなっているのは、もちろん、私のほうです。
いつか、故久野収さんの『市民として哲学者として』(毎日新聞社から出た初版)の中のベ平連についての談話(聞き手は高畠通敏さん)に、ひどい誤りや思い込みがいくつもあるのに驚いたことがありました。それで、後に岩波書店からの『久野収集』第5巻にそれが再録される際、同書店編集部に詳細なメモを送りました。(岩波版のほうは、全部訂正されています。) 単純なミス(たとえば、新宿ベ平連の古屋能子さんが横浜べ平連になっているなど)ならすぐ過ちには気がつくのですが、開高健さんがベ平連運動から身を引く時の開高さんと小田実さんの対話のエピソードなど(岩波版にはありません。)は、私にはまったく初耳で、早速小田さんに電話をして、いつ、どこであった対話なのかを確かめましたら、小田さんも、「俺もはじめて聞く話で驚いているんだ」と大笑いになりました。その部分は、久野さんが、「こうであったかもしれない」、と半ば希望的に推察していたことが、やがて「こうであったに違いない」、さらには「こうであった」という断定になってしまったのだろうと思いました。久野さんのような方が、毎日新聞社から出した立派な書物の中で断言されると、それは歴史的事実としての証言となってしまいます。危ないことだ、と私は自戒もしたのでしたが、それと同じことを私もやってしまったようです。とくに、談話というのはあぶないですね。『連合赤軍 "狼"たちの時代』の改訂版が出るかどうかはまったくわかりませんが、訂正の機会があれば、したいとおもいます。
とりあえず、このホームページに、東さんの文と私のお詫びとコメントとを載せる次第です、ご参考にしていただければ幸甚です。
談話室に投稿する / 談話室の先頭にもどる /