インタビュー〉  

  稲たつ子さん、高松ベ平連を語る

  

〔解説〕  このインタビューは、2001年7月29日の午後、高松市塩上町の稲たつ子さん宅で、1時間ほど行なわれた。インタビューアーは、井上澄夫(元『べ平連ニュース』編集部、元・一橋大べ平連)。同行してくれた奥田恭子さん(愛媛県松山市在住、愛媛玉串料違憲訴訟最高裁大法廷勝訴判決記念集会実行委員会、小泉首相靖国参拝違憲訴訟四国訴訟団・事務局)が、写真撮影とテープレコーダーの録音を担当してくれた。お話をうかがったのは、稲たつ子さんと、たつ子さんの娘の吉田孝子さんである。

 テープを起こしたのは、奥田恭子さんである。井上が、それを整理した。といっても、人名などに註を入れただけで、お二人の発言は、できるだけそのままにした。またさまざまなエピソードの確認について、稲さんのお話に出てくる矢代富子さん(やしろ・とみこ、高松市在住、古書店経営、「歴史は消せない!」みんなの会、同会の隔月発行メディア『きざむ』編集部)に助けていただいた。

 インタビューに応じて下さった稲たつ子さんと吉田孝子さん、および奥田恭子さんと矢代富子さんに深い感謝の意を表明したい。

  なおこのインタビューについては、テープ起こししたものを、稲たつ子さん、吉田孝子さん、稲暁(さとる)さんのお三方に郵送して、内容を確認していただいた。稲たつ子さんからお返事をいただいたのは、2001年12月22日である。稲さんは、地名の誤記などを修正して下さった。そして翌日、同月23日、テープ起こしが完成した。

 以下に、稲さんと吉田さんのプロフィールを記す。

 

◎稲たつ子  1916年10月 香川県高松市に生まれる

              1944年11月 旧「満州」(中国東北部)に渡る

              1945年 8月 平壌(ピョンヤン)に疎開後、敗戦 

              1946年12月 日本に引き揚げる 

              1990年 3月 作歌を開始

              2000年 9月 歌集『わが戦争』を刊行

                                                (『わが戦争』より)

 

◎吉田孝子  1935年       稲たつ子の長女として、大阪市に生まれる

              1944年       高松市に縁故疎開

              1945年       高松空襲により庵治村へ再疎開

              1946年       引き揚げて来た母と再会

       1991年       作歌を開始

       2001年12月 歌集『わがシベリア』を刊行

                        *父〔たつ子の夫〕稲長武は、シベリアで抑留死

                               (『わがシベリア』と『わが戦争』より)

 

 

井上 お目にかかれて、本当にうれしく思います。さっそくですが、お話をうかがいたいと思います。

 ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の事務局長をしていた吉川勇一さんが、インターネットでべ平連のホームページを開いています。今後の反戦市民運動に役立てようと、当時のいろいろな記録を資料として出しています。

 あのベトナム戦争の時代、全国各地にべ平連がありました。しかし、47都道府県の中で、香川については記録がなかったのです。吉川さんは、香川にはベ平連はなかったのかなと思っていたようです。

 ところが、今日いっしょに来てくれた奥田恭子さんが、「歴史は消せない!みんなの会」の矢代(やしろ)富子さんが、香川県議の渡辺智子(さとこ)さんを囲む「女性を議会に!みんなと政治をつなぐ会」発行のメディア『つなぐ』の2001年4月号に、高松べ平連や稲さんのことを書いていることを、私に教えてくれ、その文章をFAXで送ってくれました。

 私は、中学校の歴史教科書からいわゆる「従軍慰安婦」についての記述を削除する動きに反対する活動の中で、1997年に矢代さんや奥田さんに出会いました。その後も交流が続いています。

 矢代さんから昨年送ってもらった稲さんの歌集『わが戦争』に非常に感動して、松下竜一さん(大分県中津市在住、作家)が発行している『草の根通信』(2000年12月号)で紹介しました。それで稲さんについて、お目にかかったことはないものの、少しは知っていました。しかし矢代さんの文章に触れた私は、あの稲たつ子さんが高松ベ平連の中心だったのかとびっくりして、あわてて電話でお話をうかがい、その内容を吉川さんに伝えました。吉川さんは、これで全国にベ平連があったことになると、たいへん喜ばれ、それをベ平連のホームページで紹介しました。

 しかし先日は、お電話でお話をうかがっただけなので、もう少し詳しくお話をうかがいたいなと思いまして、お訪ねしました。当時のことを思い出していただけるとありがたいのですが。

 全国的な運動は、これまでもいろいろありました。しかし政党ではなく、それぞれ自主的に創られた運動が、本当に全都道府県にあったという事実は、戦後の反戦運動の歴史において、やはり特筆に値すると思います。政党ではありませんから、東京に本部があって、各県に支部があるというのではありません。ベ平連は、勝手に自分で名乗ってよろしいということで、私も数人で一橋大ベ平連を名乗りました。

 最初に、高松ベ平連が声を上げたのは、何年くらいでしたか。

 

  いま考えてみましたら、私が55、56歳のときだったと思うのです。

 

井上 その前後に、なにか政治的な事件とかの記憶はございませんか。

 

  いいえ。強いて言えば、私の息子(後註参照)のことがありました。7歳で朝鮮から引き揚げてきたんです。38度線を歩いて、いっしょに帰ってきた息子が、その当時29歳になっていたのですが、大阪で仕事上の事故で亡くなったんです。あんなに一生懸命、いっしょに命を持って帰ってきたのに……。やはり戦争の後遺症みたいなもので亡くなったものですから、息子が死んでから、何もしたくなくなりました。小さい商売をしていたのですけれど、商売もイヤになってしまったんです。

 私があまりに打ちのめされているものですから、長女の孝子が、大阪から手伝いに来てくれていたのですが、「おかあさん、そんなんではいかんよ」と。死んだ息子の子ども、私にとっては孫ですが、それが1歳半ぐらいでした。「その子もいるのに」と言われて、気を取り直して、大阪へ行ったり、高松に帰ったりしていたんです。息子の連れ合いが勤めに出ていましたので、孫のお守りに、月の半分くらい大阪で過ごしていたんです。

 

  *註  稲長弘 次男。1937年、大阪に生まれる。46年、母とともに北朝鮮から引き揚げる。56年、高松商業高校卒。67年、労働災害により死去。(長弘氏の稲弘二という筆名の遺句集『句集 秋燕』〔2000年11月刊〕より)

 

 ちょっと気を取り直した頃、大阪の京橋で、雨の中、若い人たちが、『沖縄列島』(東プロダクション作品、1969年、末尾註参照)という映画のチケットを売っていたのに出会いました。私は、『沖縄列島』なら関心があるから、映画を見てみたいと思ったんです。探してもらったら、場末の汚い映画館で上映していました。それを見せてもらったんです。モノクロの映画でした。

 そのときから、そこのグループと仲よくなったのですが、彼らが『沖縄列島』を高松で上映してくれないかと言ったんです。私が、「高松は保守のところやのに、そんなのしたって、人が来(き)いへんよ」と言っていたら、「人が来なかったら、うちの方で面倒見ます。もし利潤が上がったら、そっちで使ってください」と。

 それで、「まず、どないしたらいいですか」と聞いたら、「香川大学の生徒さんに声をかけて、生徒さんに仲間を集めてもらって、それだったら、まあまあの数が集まります」と言われて、「そうします」と。

 学生さんに声をかけるのや、映画の上映で高松市民会館を借りるのに、会の名前を決めなくてはならなかったんです。その当時、ベ平連というのがあって、誰でも「私、ベ平連です」と言ったらなれると聞いていたので、これはいいなと便乗しました。

 香川大学の生徒さんに、「おばさん、なに?」と聞かれて、「ベ平連よ、手伝うて下さる」と言ったら、「手伝わしてもらいます」ということになって、映画の券をみんなで手分けして売ったんです。それが始まりです。

 それまでは、商売の方もあって、関心がなかったわけではないのですけれども、特別に何もしていなかったんです。

 映画が済んでも、若い子たちが自然に残っていました。いろいろ学校に対して不満を持っている子とか、親子の間で、思想とか、ものの考え方とかで行き違いがあるとか、そんな子らが、知らん間に家に寄って来てました。私も辛いときやから、若い子が来てくれたら、活き活きとした、蘇ったような気がして……。

 その子たちが、しまいに家の二階で寝泊まりするようになりました。そんな仲になって、「いっぺん、デモをしよう」ということになった。それで旗を作って、それも若い子が作ってくれた。デモのことは知らんから、「どないしたらええか」と聞くと、「おばちゃん、デモの届け出をせないかんのや」と。それで警察へ届けて、デモをしたんです。

 最初は、20人か、30人くらいしか寄らなかった。何回したか分からんくらいデモをしていたら、ものすごいたくさん人が寄ったときがあって、200人前後。それで、何のためか知らん、家の回りを警察が取り囲んでしまったことがあります。なんで警察にこんなにされるのかと思っていたら、ベ平連そのものが、警察にとっては思想的に問題があるようにとられて、私につきまとっているのです。

 「なんで私に、用心棒みたいに、あんたはついてくるん? まあ、用心はええけども」と言ったら、警察さんが家にも来るようになってね。

 『沖縄列島』の上映のときは、警察と大喧嘩したんです。大阪から手伝いに来ている人が、ひどい目に遭わされたので。官憲て、こわいですね。

 「責任者を出せ」と言うから、私が行った。「何の会だ」と聞くから、「ベ平連です」と。「だれが責任者か」と言うから、「ベ平連は、責任者もなにもないんです。みんな同じレベルの人だから」と言ったんです。そんないきさつもあって、警察が目をつけていたんです。

 家の回りを警察が取り囲んだのは、デモに200人前後集まったときでした。大通りの芝生の上から「フランス・デモ」とか、何かわからんデモをしてたら、そこにも警察が来て、「おばさん、すまんけど、この若い子をみんな、道路の方に上げて。こんな、真ん中を通られたら、自動車も通れなくて困ります」と言われました。「上げて、と言われても、こんな大きな子を、なんで私が上げられるの。上げないかんのやったら、あんたが上げてよ」と、そんなやりとりをしたら、「しゃあないな」と言っていました。そのときが、一番大きなデモでした(後註参照)。

 それから、デモを続けていくうちに、だんだん減っていって、最後は3人、5人となって……。私はいつも入っているけれども。学生自体が、沖縄へ行ったり、東京へ行ったり、大きな所の組織の中に行ってしまって、高松の私の家に泊まっている子が少なくなって、ということでした。デモを何年ぐらいしたかな。2年か、もっとだったと思うんです。その間、若い子たちが家に下宿や居候していました。

 

  *註 インタビューのあと思い出して下さったことを加えておく。このデモを申請したのは稲さんだった。警察官は、稲さんがデモの指揮をしていると考え、稲さんにフランスデモを止めるよう警告した。それに対し、上記のように対応したので、稲さんは高松北署に事情聴取のため連行されて、2時間弱「油を絞られた」という。

 

孝子  年代で言えば、70年安保の頃で、沖縄返還運動のなかで、『沖縄列島』の映画があったんです。稲たつ子さんと吉田孝子さん

 

【このインタビューのあと、稲さんは、『沖縄列島』の上映が、1969年9月20日であったことを思い出して下さった。高松での上映は、稲さんがベ平連の活動を始める前であったから、マスコミとのコンタクトはまったくなく、したがってマスコミで取り上げられることはなかった。稲さんは、若い人たちといっしょに、ビラを大学構内や街角に貼って宣伝したという。

  同時に、さらに次の事実も思い出して下さった。同じ69年、高松市長に脇信夫氏(故人)が初当選し(就任は同年5月)、「市長への要望をお聞きします」という企画を設け、市民に広報で呼びかけていたので、稲さんは、『沖縄列島』の上映会場である高松市民会館の使用料4万円は高すぎるので、引き下げてほしいことと、会館の売店は夜間閉鎖するが、若い人たちは昼間働いて夜駆けつけるのだから、開放してほしいことを、市長に求めた。その結果、要求は二つとも実現し、若い人たちから「おばちゃん、ホームランや!」と言われたという。】

 

井上  沖縄返還、いわゆる「復帰」が、1972年5月15日です。その前後のお話でしょうね。ベトナム戦争は、1965年から75年まで10年間続きました。ベ平連運動が始まったのは65年で、東京の神楽坂ベ平連が解散したのは74年です。73年の1月にパリでベトナム和平協定が調印され、米軍が南ベトナムから撤退します。アメリカがベトナムから完全に追い出されるのは、75年4月で、それで南北ベトナムの統一が成るわけです。

 香川大学の学生さんが『沖縄列島』の上映を手伝ったわけですね。

 

  そのとき、ナントカ派というセクトの人がいてね、「おばさん、一枚売ったら、なんぼの利益を出すのか、それによって動く」と言うんです。「ああ、本当。あんたら、学生さんと言ったら、もうちょっと社会に意識があるんかと思った。おばさんより低いな。映画の切符、ぜんぶ持ってきて、一枚も売ったらいかんで。全部戻して」と言いました。「もう売れてる」と言うので、「それも取り返してきて。そんな人に券売ってもらわんでも、おばさんはおばさんの力で、違う人に、違う方向に売るから」と言ったら、あくる日、背の高い、こわい男が5、6人やって来たので、これは、殴られるかもしれんと思ったんです。

 「ちょっと話があるから、二階に上がって下さい」と言うので、上がっていったら、その中のリーダー格の人が、「あばさん、悪いこと言いました。話を聞いたら、おばさんの言われるのはもっともです。無条件で売らせてもらいますから、今までどおり売らせて下さい。一つも見返りは求めません」と言うから、「それやったら、ええんや。あんたたちが売って手伝ってくれたら、なんぼかはかどるかわからんのに」と。

 私が売っても、家に来ている高校生や中学生にまで売ってもろても、知り合いが少ないから、思うように売れないけれども、私も意地になって、お金が足りなかったら、私が出すと言って、市民会館を借りたんです。

 それでも不思議に、利益がちょっと出たんです。そのかわり、みんな無料奉仕しましたから。私はそれを全部、それぞれのセクトに分けました。そのお金をもって沖縄に行く子もいたし、東京へ行く子もおったし、いろいろ、活動したい方面に散っていったんです。

 今でもときどき、土佐の子とか、大阪の子とか、東京の子とか来たら、「あのときに、おばさんは、お金を少しも取らんかった。置いとったら、ぎょうさん貯まっとるな」と言うから、「私はお金は、無いのが性にあっているので、お金があるのが性に合わんのや」と笑ったりしたけれどもね。そのときの子が、こないだも訪ねてきてくれたけれども、もう50歳やからね。年月は夢のように、ね。

 そんなんで、私がしたことと言ったら、本当にちょっとです。動機だって不純なもので、自分の子が亡くなったことです。38度線を命からがら帰ってきたのに、どうして、こんな事故で亡くなったのか、と思って。それから企業が、息子の連れ合いに、なかなか補償をしてくれない。子どもを連れて困るのに。娘(孝子)が、交渉して、やっと少しずつ出るようになってね。そのときは私も貧乏だったから、何もしてやれなんだけれども。そんなようなんで、このベ平連については、そこへ行くまでに思い出がいろいろあって……。

 

孝子 ちょうど、この家の二階が空いていて。この家が倉庫のような建て方で、ガランと広い感じで、そこに、学生さんが、友だちを連れてきて、4人とか、6人とか、いつも知らない人らが寝ていました。

 

井上 溜まり場になっていたわけですね。

 

孝子 食事もありあわせで、あるだけを早い者勝ちで食べさせたりして。布団なんかもボロボロでした。この間、弟が塾を開くので、家を建て替えたときに、ヘルメットがたくさん出てきたんです。これは、燃えるゴミかな、燃えないゴミかなとか言いながら捨てたんです。棒もあって、こんな棒は何に使ったんやろうかと言いながら、捨てたんです。

 

井上 木の棒ですか。「ゲバ棒」というやつでしょうね。

 

孝子  ヘルメットだけは、たくさん、山ほど。いろいろな色違いがあって。

 

稲  自分で色を塗って、好きなようにしてた。

 

孝子 「高松市」とか、「交通安全」とかいうのもあって、これは、盗(と)ってきたんやろか、と言いながら捨てたんです。

 

井上 ワハハハ、それはおもしろい。

 

稲  今、家で塾を開いている息子の暁(さとる、後註参照)は、その当時、神戸外大(外国語大学)に行っていたんです。ある日突然、逮捕されたと、大阪の嫁から電話がありました。私は、なんで逮捕されたんやろかと思って、来てくれ言うから、神戸に行ったんです。息子の女の子の友だちが、校内に貼り紙をしたらしいんです。その呼びかけが何であったか、それは知らんのですけれど、それを官憲に見つかって、逃げているところを、追わえられて、髪を引っぱられて引きずり回されているから、うちの子が可哀想に思って、手を払って、その子を逃がしたら、うちの子が、公務執行妨害で連れていかれたんです。うちの子は、まだ19歳でした。

 

  *註 暁さんは、「歴史は消せない!」みんなの会のメディア『きざむ』に政治批評と短歌を寄せている。現在、香川県歌人会の事務局長。ちなみに、吉田孝子さんは1993年に、また稲たつ子さんは99年に「香川歌人」に入会している。暁さんの歌を数首、紹介させていただく(香川県歌人会の『香川歌人』400号記念特集・2001年11月号より)。作品中、「滾る」の読み方は、たぎる、である。

 

        空想の海賊船に乗り込んで五月の風に帆を張ってゆく

       帆船をドアに描ける喫茶店60年代のポップスが鳴る

        沖縄を思いてこころ滾る夜の暑き雲より雨降り出でぬ

        首里高女瑞泉隊の惨劇を伝えて重き一冊を持つ

    かの夏のカルチェラタンを駆け抜けし幻の馬 詩(うた)のたてがみ

        われになお歌うべき明日あるごとし泉は若き声上げている

 

孝子 弟も、運動はしていたんですよ。

 

稲  それでも、そんな大掛かりなことはしてなかったんやけれども、えらい目をつけられて、鑑別所へ入れられました。話に来てくれと、鑑別所の先生から電話があったんです。私が行ったら、先生が息子を呼んでくれたので、私は息子に、「聞いたら、あんたも悪いことはしてないらしい。友だちが辛いから、助けただけや。でも、法律に触れるんだから、結局あんたが悪いんやで。日本の法律はそうなっているんだから、あんたは、それだけの刑罰を受けないかんのや。しっかり、ここの規則どおり長いこと置いてもらったら、家に帰ってご飯炊かなくてもいいし、楽やろう、ずっと置いてもらったらええわ」と言ったら、先生もビックリして、「ちょっと引っ込んでください」と。

 あとで、「お母さん、創価学会ですか」。「いいえ」と言ったら、「共産党ですか」。「いいえ、そんなんに見えますか。私はただの人間です。ただ女性であるだけです」と言ったんです。向こうの人が、なんか感動してくれて、「たいていの親は、鑑別所へ来たら、うちの子は悪くないけど、友だちに誘われてこうなったとか、官憲が間違えて逮捕したとか言って、泣いて出してくれと言うんだけれども、お母さんは、ずっとここにおれと言った」と。

 「本当やのに。息子は、それが法律に触れるのかは知らないけれども、友だちと仲よくせないかん、友だちを大事にせないかんと、私が、小さいときから言ってきたことだけを信じて行動した。それで刑罰を受けるんだから、いつまででも置いて下さい」と言ったら、明くる日、すぐ迎えに来いと。神戸の鑑別所はやさしかったです。

 

井上 こういう親なら大丈夫だと思ったのでしょう。

 

稲   そうでしょうか。恐ろしかったのか、いやだったんでしょうね、うっとうしい人やなと思って。それでもやはり、少年だけれども裁判がありまして、友だちや仲間が、私を車に乗せて連れて行ってくれました。裁判官が、こういうことをする子どもの親は、たいてい悪い思想を持った社会の反逆者やから、気をつけないかんと。「おかあさん、どんな思うて育てたんですか」と聞くから、私は、「小さいときから子どもに、友だちとは仲よくしなあかんよと、友だちが困ったときは助けおうてな、それが友だちやで、大事にせないかんよ、と言って育てたんです。私には、まだ孫がおるんですけれども、これから孫に、人がどんなに困っていても、知らん顔しておけ、人を助けたらいかんと教えてた方がいいんですか」と言ったら、裁判官は黙ってました。結局、無罪となりました。

 官憲というのは、こっちが引っ込んだら、向こうが出てくるな。私もいちばん最初は、映画のときに刑事に囲まれたときには、足がブルブル震えて……、初めてやから。

 

井上 囲まれたのは、お店の周辺ですか。

 

  映画を上映した市民会館です。そこでぐるっと7人の刑事に囲まれました。大阪の子を痛い目に遭わせているから、私が、どうしたんと、言って出ていったんです。

 

井上 上映の関係者ですね。

 

  警察官の写真を写したらいかん、という決まりがあるんですと。肖像権の問題とかあって。映画に来ていた大阪の女の子が写真を写していて、それが罪を犯していることになると言うから、「そうですか、私が見ていたら、おたくの方やて、映画に入る子を、相当写したでしょう。あれは、なに権言うんですか」と言ったんです。そしたら、「あれは、それに当たらんのや。そういう業務をしているときだけは。あんたは(公務)執行妨害しとる」。「ああ、そうですか、私はそんなん知りません。一回も聞いたこともないけれども、とにかく今日は、映画をしているんだから、帰って下さい」と言うたんや。「私は逃げも隠れもしないから、改めて家に来て下さい」と言ったら、それで、手を離してくれた。

  友だちや、若い子らが、「おばさん、ものすごいガイ(後註参照)やな」と言うんです。「なんで」。「警察来ても、おばさんと喧嘩したら、いんでしまいよった」。「ガイなことあるもんか、私は足がブルブル震えて、どないしようかと思った、初めてやからね。どない言うたらええんかいなと思って、わからんけれど、若い子を罪にしたらいかんと思うて、そりゃ必死やった。恐ろしかったわ」と言ったら、「ふうん」と。

 それから、こわいものなしになってね。警察も、ひとつもこわくなくなって。でもやはり、官憲というものは、恐ろしいですね。何にでも、理屈つけてね。

 

  *註 ガイ=「気が強い」とか「物事に動じない」という意味の讃岐弁。インタビューで触れられている矢代富子さんによる。矢代さんは、「おそらく、『我(が)の強い』がだんだん訛(なま)ってガイになったのでしょう」と言う。

 

井上 そう思いますよ。ある程度慣れてこないと、最初はみんな、おっしゃるようなことになります。だんだん、こっちも強くなりますが、ふつうは、そうでしょう。

 

  やはり、そうですか。初めは足がガタガタ震えて、7人の刑事に囲まれて、どない言うたらええのかと思って……。私が連れて行かれるのはいいけれども、若い子が連れて行かれたら、学生さんやのに、学校に知れたら、退学処分になったりしたらどうしようかしらと思ったら、なんか開き直ってね。「ああ、ええ、ですよ。あんたが肖像権云々言うのなら、私がなる(つかまる)からな。そのかわり、おたくが写した分も、私の方に返してくれて、おたくが責任を取ってくれないかんですよ。今日は、私が映画をしているのに、あんたが妨害したんやからな」と言ったら、向こうもややこしくなったようで。

 

井上 そのとき、観客は何人くらいだったんですか。

 

  9月の20日で、クーラーを入れるか入れないかでもめて、100人以上いましたね。大学生が売ってくれるから、私は商売関係の問屋や自分の知り合いのところへ行って、ここ20,ここ20と券を置いていったんです。「奥さん、こんなの買っても、行く人ないのに」。「ええんや、買(こ)うてさえくれたらええんや」と言って、そんな形で。学生は街頭で。

 

井上 観客には、若い人が多かったですか。

 

  若い人が多かったです。年寄りは、私がいちばんの年寄りで。

 

井上 その頃、稲さんは、55、56歳……。

 

  あの当時やったら、私も向こう気強いし、できたけれども、いまは口だけでね。若い人が、今でも「おばちゃん、元気やな」と言ってくれるけれども、自然に、死なんから生きてるだけのことで、もう値打ちもなくなって、老いぼれてしまって……。考えることはあるけれども、なにもできないままに死んでいくんやなと、それも仕方がないけれど。

 自分の一世一代としては、自分なりに北朝鮮(後註参照)から帰ってきたという、怨念言うんですか、恨みですか、そんなものの裏返しで、官憲に対しても、留置所に入れるのだったら、入れられてもなんともないと思って、恐いものなしになって、だからやってこれたんでしょう。

 若い子も、そうとう応援してくれて、うちで食べて居候する代わりに、夜中にビラ貼りに行って、捕まりそうになったり、その当時だから、バケツに糊を入れて行って……、苦労しました。

 ときたま、そのときの若い子たちが寄ってくれると、昔の話をしたりしてます。

  *註 稲さんは1944年11月に旧「満州」(中国東北部)に渡り、45年8月に朝鮮の平壌(ピョンヤン)に疎開で移り、そこで日本の敗戦を知った。

    そして大変な苦労の末、46年12月帰国した。(稲さんが体験された過酷な帰国行については、インタビューの末尾に記した稲さんの文章「戦争を知らない世代へ」を読んでほしい)。

      日本の敗戦により朝鮮は、45年8月、独立を回復したが、南半部は米軍の、北半部はソ連軍の軍政下に置かれた。とはいえ、稲さんが帰国した46年12月頃は、まだ大韓民国(48年7月樹立)も朝鮮民主主義人民共和国(48年9月樹立)も存在しないので、ここでの北朝鮮は朝鮮半島北部の意である。

 

井上 デモは、だいたい2年くらい続いたのですね。月に1回くらいですか。そういう決まりはなかった……。

 

  決まりはないんです。誰かがやろうと言ったら(やる)。

 

井上 なるほど。たとえば、そのときは稲さんのお名前で、警察に届けを出しますね。警察から見ると、稲さんがそう思っていなくても、高松ベ平連の代表ということになったんでしょうね。

 

  若い子らが捕(と)らえられて、私が警察に行って、引き渡しを頼んだり、差し入れをしたら、「どない言う人ですか」と聞かれて、「いや、名前は知らんのや。何日の日に捕まえられた男の子が4人と、女の子が1人と5人やけど」と言ったら、「名前を知らんのでは、物を差し入れても、あげられんわ」と言われたんですけれど。新聞を見たら「菊屋橋一号」とか、あのとき、そんなのありましたな。「あんなのがあるのに、なんで私のは受け付けてくれんの。名前を知らなくても、東京辺(あた)りでは、差し入れできると聞いていますよ」と。

 

井上 地名で何号と言っていましたね。

 

  そんなんで、ブラックリストに載ってしまって、あのおばさんは、しぶといと思われて。

 

井上 デモは、どの辺でおやりになったのですか。市の中心あたりですか。

 

   琴電(ことでん、琴平電鉄)瓦町駅の、元のそごう百貨店の前に、大きな噴水があって、(そこが)大きな広場だったんです。だいぶん人が集合できる。そこは、思い出の場所というんですか。若い子が2、3人寄って、「ベ平連に入ろう、入ろう」という歌を歌ったら、それに寄ってきて。

 

井上 フォークゲリラってありましたね。その噴水の周辺にみんな集まって。

 

  そこが、たむろする場所です。私の家は、そこに行くまでに集合する仮の場所で、それで、警察はここを囲んでいるんだけれども。あそこの広場で、それをしばらくしていたら、だいぶん寄ってきて、いちばんよかったときは、二百人前後……。高松で、初めてのことだと思うんです。

 

井上 噴水の回りに集まって、そこから通りに出ていくわけですか。

 

  そのときは、警察に、どの道を通ってデモをしますと届けていますから、大通りも通ったし、街中(まちなか)も通ったしね。

 

井上 二百人前後と言ったら、たいへんな数ですね。

 

稲  それは、私がいま考えても、高松としては、めったにないことと違うんじゃないですか。同じことに、みんなで一つに固まってデモするというのは、そんなのはおそらくないと思います。

 

井上 あの頃は、まだベトナム戦争が続いていました。沖縄の返還をめぐっても大きな動きがあった時期で、それがだぶったんですね、あの時期に。

 

孝子 その人脈が流れて、PKO法案反対のときのデモも同じメンバーで、その頃の人らが集まって、いっしょにデモをしました。

 

井上 時間が経って、稲さんは、もう70代半ばになっておられた……。

 

孝子 メンバーも替わっていますが、何人かは同じ人たちが中心になって。

 

井上 人脈がずっと続いていたわけですね。

 

  連綿とね。矢代(富子)さんたちに受け継がれて、おばちゃんだけではもうできないけれども、ようしてくれてます。私は、もう過去の人だから、あてにしてもいかんのよ、と。もう本当に、死んだも同じだから、ただ生きて口をきいているだけで。足が痛いし、歩くのも手押し車が無くては。今朝も、息子に車椅子に乗せてもらって、参議院選の投票をしてきたんですよ。「お母さんが選挙に行くのに、子が押していくのがなんで格好悪いのか」と言って、連れて行ってくれたんです。生きている間は、一票入れんとね。寝込んでしまったら仕方ないですけれども。

 

井上 私は40代の終わり、メキシコにおりましたとき、脳梗塞で倒れ、左片マヒとつきあうようになったんです。湾岸戦争の次の年のことです。幸い、なんとか生き残りました。歩くのが不自由ですが、今でもデモには参加します。

 

  すばらしいねえ。うれしい。私も誰かがやってくれたらと思うけれども、高松は、何と言っても、そういう人がいま安定していますから。あの頃の学生さんもみなそれぞれに生活があって、子どもさんを育てている最中だからね。

 

孝子 ことに高松というところは、大阪とかに比べると、暮らし方も安定しているし、考え方も穏健な人が多いから。ああいうデモをするときでも、セクトもだいたい顔見知りというのか、各セクトもここへ来たら仲よくみたいで。たまにビールとか飲んでも、みんな仲よくという感じで、喧嘩するとか、血を見るようなのとか、そんなのは全然なくて。

 

井上 稲さんが、高松ベ平連を名乗って動き出す前は、ベトナム戦争反対の動きは、高松ではなかったのですか。

 

  なかったように思うね。私が別に初めてしたのではないと思うのですけれども、なにかせないかんと思って、デモをしようと思ったら、なにか名前がなくてはいかん。ちょうど新聞で、小田実さんが「誰でも、『私、ベ平連です』と言ったら、その日から、その人はベ平連だから、届けも何も要りません」と言うてたのを読みました。それで「あ、これに乗ろう」と思って乗ったんです(後註参照)。

  *註 インタビューのあと、稲さんは電話で、「ベ平連はおそらく香川県で一つと、私は思っていますが、他にもあったかもしれませんね。誰でもどこでも名乗ってよかったんですから」と語った。

                                               

稲たつ子と井上澄夫井上 あの時代は、そういう話がけっこうありました。たしか山口県だと思うのですけれども、デモやりたいと警察に届けに行ったんですが、行った人自身は、デモをやりたいということだけがあったものだから、グループの名前を作ってなかった。こういう趣旨でやるんだと言ったら、警察が、「そういうのは、ベ平連と言うのだ」と言った。それで、ベ平連になったとか、そんなふうな話がありますね。それから岩手県の盛岡での話ですが、デモをやったけど、参加者が少ない。あんまり少ないので、途中でデモをやめようかと思ったら、警察が、「デモは最後までやるものだ」と言ったんで、最後までやった(笑い)。そういうことがいっぱいあった時代なんですね。

 全国的に似たような状況ですよ。おっしゃるように、勝手に名乗ったわけです。別に東京に連絡する必要はないわけで、香川県の稲さんたちの動きが、今まで東京の私たちに知られていなかったのも、そういう事情があるわけです。みんな勝手にやっていた。

 私は、あちこちの反戦市民運動から呼ばれて、話をすることが多いのですが、「実は私も……」という話がいっぱいあります。「そのとき、私も〇〇ベ平連をやっておりまして」とか、そういう話は多いのです。それぞれの地で「ベトナムに平和を!市民連合」を名乗った人びとが、その後、地域の住民運動、反公害とか反原発・脱原発運動に参加していった。そういう人たちがいっぱいいるんですね。以前、高松でお話をしたとき、交流会で「高松のフォークゲリラの女王でした」と名乗る人がいましたが、きっと、さっきのお話に出た広場の噴水の所で歌っていた人でしょうね。

 

孝子 ロックをやっている人もいましたし、トランペット吹いている人もいました。

 

井上 あの頃、ギターを抱え、髪を長髪にするというのが流行りまして、そういう人がいっぱいいました。それがある種の若者文化になっていました。

 

  おまけに、その中の一人が「おばさん、ボク騙(だま)されて入ったんで」と言うんです。「ハンセンせんかと言われたとき、ハンセンを船の帆船だと思ったん。帆船のことを教えてくれるんかと思って、おばさんの所へ来て、いっしょにやりだしたら、船のような話でないので、どうしたのかと思った」と。その人は、ギターや歌が上手で、連れが、「ハンセンせんか」と誘ったとき、てっきり帆船だと思って喜んだのに、全然違うんやと。「それは、あんたに問題あるんと違うん。よく聞かなかったのだから」。「そうやな、だけど、おばさんと会えてよかったわ」と言って、こっちにいてるときは、ずっと手伝ってくれて、中堅どころになって運動してました。

 また、「中学生」とみんなの中で言われている子がいました。本当に中学生で、三本松の方の子で、中学2年生だったと思うんです。突然、グループの子が知らん子を連れてきて、まあ、知らん子はしょっちゅう来るんやけど、幼い感じで、「この子どうしたん」と聞いたら、「拾(ひろ)てきたんや」と。その子が、旗を持って、一丁前にして来るから、「どうしたん」と聞いたら、「今日からおばさんところの炊事を手伝うから」と言うんです。「この子は中学生やで」とみんなが言うから、「そうやろ、そんなもんやろ」と思ったら、その子が居着いてしまったん。勉強もよくできる子だった。中学校を卒業して、高校に行ったけれども、卒業しないでやめてしまって、しまいには、フランスへ行ったんです。

 

孝子 高校をやめた子も、よく来ていたんですよ。学校からもいろいろ言われていましたけれども。

 

稲  いろいろなことがあって、いま考えたら、嘘みたいな、本当に私が、あんなことができたのかなと思うようなことが。今と違って、恐いものがないという。それとも、いったん38度線で死んだと思えば、何したって、たいしたことないと……、死ぬというのが、最高に悪いことやから。

 だから、あの体験というのは、飲まず食わず、官憲を逃れて毎日毎日歩いて、鴨緑江河口の竜岩浦という所から38度線までずっと歩いて、それも素直に歩けたのではなくて、ここは、官憲がいるから通れない、もとに戻れと、バックさせられたり、なんぼ歩いたかわからんくらい。38度線を行く間に、友だちもたくさん死にはったし。

 

井上 途中で騙されたりとか、いろんな辛いことがあったようですね。同じような経験の記録では、藤原てい著の『流れる星は生きている』(1949年10月発行)が有名です。しかし問題は、辛い体験から何を学ぶかということでしょう。それをその後、自分の生き方にどう活かすか。

 稲さんのように大変な経験をされ、日本に戻ってから、あの戦争について深く考えて、反戦運動を始めたという方は、少ないかもしれません。あまり聞きませんね。

 

  大阪の部隊として私たちは「満州」へ行ったのですけれども、その後は友だちは、方々に散り散りになっています。住所録などもらっていたんですけれども、ソ連兵には調べられるは、朝鮮の人には持ち物を取られるはしたら、なくなってしまって、あそこの県に一人いてはったとか、ここの県に二人とか、そんなんで、その後めぐり逢ったのは、今までで二人くらいです。途中で死にはった人は沢山いました。

 今でも、何が嫌いと言っても、戦争が(嫌い)。反戦というのが、自分のいちばんのスローガンです。戦争というのは二度とあったらいかんと、それだけは自分の信条として生きてきたんです。だけれども、社会は反対の方に向いていますね。小泉さんは、何を考えてはるのか知らないですけれども、危ないです。私ら、そういう体験をしてきた者にとっては、まさに戦前を繰り返していると思うんですね。だけども、みんなは、そんなこと全然知らんからね、あんなことは、もう済んだことやからという感じで、私くらいの年齢でも、戦争とか反戦の話とか、あまり話し合ったことはないですね。

 

井上 かえって戦時中を懐(なつか)かしがる人もいますね。それはこわいことです。ところで、ベ平連は高松中心の動きで、高松は、香川県全体の中で特別だったんでしょうか。

 

  そうですね、ここは保守の砦ですからね。社会党の成田知巳さん(なりた・ともみ、元・社会党委員長〔68〜77年〕)、あの当時までは良かったんです。もともと、保守的なところでしたけれども、成田さんがいなくなって、どどどどと崩れていって、保守的になって。あの教科書問題でも、絶対にいかんのにね、使うところもあるんでしょうね。

 

井上 今のところは、私立の中学校だけですけれども、東京都などは、石原都知事ですから、危ないですね。今まで問題になったところでは、みんなで頑張って採択させてないのですけれども。厳しい状況ではあります。

 お仕事は、呉服商ですか。

 

孝子 作業服専門です。

 

  そうでないと、残品がたくさん残ってね。ごく最近まで、商売をしていたんですが、いまはもうしてないんです。商売は向かんらしいです、性格的に。

 あのとき運動していた若い子たちが、いつまででも懐かしんでくれて、親戚のようなつきあいで、しょっちゅう、おばさん、どないしてるとか言ってね。

 あの頃は、仕事から戻ってきたら、知らん人がいて、「ええっ? こんなにぎょうさんおらんかったのに」と。お昼のご飯食べるときでも、コロッケ、ひとり三つと、私がお金に合わせて、10人いるから30個買って帰ってきたら、20人にもなっていて、「ほんなら一人一個ずつや」と。今考えたら、なんというあれやろか。商売、儲けないはずやわな。

 

孝子 今どうして、若い人たちが、おとなしくなってしまったんでしょう。

 

稲  それは、社会がええからやろ。金持ちになったからやわ。その当時の子は貧しかった。親も厳しいから、学生運動している子は、親から排斥された。それで、うちが拠り所になっていた。

 福善寺の釈氏政昭(きくち・まさあき、高松市御坊(ごぼう)町の真宗大谷派住職)さん、ご存じですか、当時から心易くなって、奥さんの祥子さんも、私がデモをするときに「南無阿弥陀仏」と書いた旗を作って、いっしょにデモをしてくれたこともあって、思い出の多い一家なんです。安西(賢誠、あんざい・けんじょう、愛媛県松山市一番町の真宗大谷派専念寺住職、最高裁大法廷で歴史的な勝利判決を得た愛媛玉串料訴訟の原告団長)さんとは喧嘩仲間で、若いから、私が言うと、すぐ反抗して……(笑い)。

 小泉首相の靖国参拝問題では、中国と朝鮮との問題は近隣やから解決しないと……、日本はその国の方たちから、ものすごい反感を受けるのではないかと思うんです。私も朝鮮で長いこと抑留され、中国の奉天にもいました。当時は、日本がしているとは、知らなかったけれども、今考えると、日本は、向こうの人たちを人間扱いしていない面がたくさんあって、こんなのでいいのかと思っていたんです。中国あたりも力をつけてきたら、日本打倒というのは、中国人のひとつの念願じゃないかと思うんです。

 

井上 これだけ批判されても、日本が少しも反省しないということになれば、ますます強い批判を受けることはまちがいないでしょう。侵略と植民地支配に対する責任を認め、謝罪して補償することをきちんとしないから、いつまでたってもこういうことになるんです。

 

孝子 敗戦の時点で、つけなければいけなかったケリを、いつまでもつけないから、だんだん先送りして、何かわけが分からんようになったのだと思うんです。私もすごく苦しいものがあって、私の場合は、父がシベリアで亡くなっていますので、それも含めて、割り切れないというか、無駄死にという思いがすごくあって……。それに対する天皇の責任、いちばん根元的なところに溯ると、天皇の責任はどうしたんだろうと。そういうのを私がいつまででも引きずっているのは、天皇のせいではないかと。あの時点で、申し訳なかったとか、内外に対して謝罪をするべきであったのではないかと思うんです。でももう死んでしまったから、いま言っても仕方がないのですけれども、ずっとそれを思ってきたんです。

 

井上 私の母もそうなんですよ。考え方は保守的な人なんですけれども、自分の上の兄が、兵隊に取られて死ぬわけです。戦病死なんです。長男が死んだわけですから、私の祖母は、たいへん苦労をするわけです。それを見ているから、ヒロヒト天皇に対しては、母は恨みが深くて、絶対に許さないと言うわけです。父親の方は、ノモンハン事件のあと、兵隊に行っているのですけれども、天皇が悪いのではなくて、まわりが悪かったという理屈を言う。ところが、母は、この点だけは譲らない。

 女性でそう思っている人は、意外に多いように思います。口に出さないまでも、恨みが消えない人は大勢いると思います。しかし、天皇の戦争責任を裁くことを、日本の民衆がきちんとしなかったことによって、ツケは膨らむばかりだったところに、とんでもない首相が登場して、「靖国に何が何でも行きます」となれば、アジアの人びとは怒りますよ。「やられた側」は、絶対に忘れませんからね。小泉首相は、「参拝してから後の処置を考える」と言う。とんでもない話ですね。

 

稲  参拝したらいかんのにね。近隣諸国もそれを注目している。当たり前ですわね。あんなにひどい目にあっているのだから。

 

井上 日本はアジア・太平洋諸国で2000万人を殺した「戦犯国家」です。戦争犯罪には時効がないのですから、責任をとらなくてはいけない。そこを誤魔化して、そういう過去がなかったかのようにしていくから、こういうことになるんですね。

 

  でも、悪いのは、国民だと思うんです。友だち同士でも、また親類の間でも、そんな話が出ると、「私はそんなのは聞いたことない」と言われますし、私が話しかけようとしても、全然耳に入っていない。私の孫も「小泉さ〜ん」と追っかけている、泣きたくなるような孫もいるから、大きなことは言えないのだけれど、どうなっているのか、今の若い子の頭の構造は。今の若い子は、日本人でなく、外国人みたい。痛みを知らん。繁栄の日本だけを見てきているから、ひどい目にあったほうがいいんです。私はそう思うな。自分も知らなくて、そんなんやったけどね。

 

井上 稲さんがデモを続けられた、あの当時の若者たちの経験が継承されないままで終わり、おっしゃるように、本当に豊かなのかどうかはともかく経済水準が上がって、「経済大国」になった。それで、確かにあまりしんどい目に遭っていないということもあって、世代間の経験の継承がなされていない。それは、日本の反戦市民運動全体の問題だと思うんです。それではまずい、かつての経験をきちんとつなげていって、若者たちが自力で頑張ってくれるようにする。それが私などの世代の責任だと思っているんです。

 しかしそれでも高松では、ベトナム戦争の頃の経験がPKO法反対に繋がり、矢代さんたちが今がんばっている。お出しになった歌集『わが戦争』を読んで、稲さんの思いを受け止めようとする人びともいるわけです。民衆の地下水脈と言いますか、細い流れなんですけれども、つながっているんですよね。だから完全に断絶しているわけではないのです。ですから、稲さんには発言を続けていただきたいと思うんです。

 

  矢代さんは、私なんかとても及ばん、ものすごい人材だと思ってます。考えも深いし、私の気持ちをよく汲んでくれて。何にもならんのはわかっていても。

 私も友だちに、「何もならんのに、いつまでそんなこと言っているの」と言われるから、「いや、これ私の趣味やから、私はこれが好きだから」と。たいてい死ぬまで、こんなの言うわな。もの言える間は、言うけれども。本当に、そのくらい思わなんだら、今の世の中、とても取り返すということは非常に難しい。もし、日本が変わるとすれば、何代か先です。それなら、おまえ黙っていたらいいかと言われれば、それがまた、趣味というか、性格というか、意固地なんやね。

 

井上 私も、ときどき、若い人に言われますよ。「いつも同じことを言っているじゃないか」と。私は、運動やる人間は、同じことを何度繰り返しても飽きないのでないとダメなんだと答えます。「エンドレステープであることに耐えなくてはいけない」と。私の言っていることが、みんなの常識になれば、別に言う必要はない。しかし残念ながら、依然少数派だから、分かってくれる人を一人でも増やすために、同じことを繰り返す。それでかまわない。

 おっしゃるように、趣味の世界かもしれませんがね。

 

  私も、友だちが、なんかかんか、あまり聞くから、「私は趣味でやっているのだから、生きている間は、わかってもわからなくても、こんなことを言おうと思っているんや」と、友だちに言うのです。変な趣味やなあと、軽蔑されてますけれども、そうとでも思わないと、やりきれないですね。だから、若い人が挫折しそうになったら、「趣味でしていると思ったらええんで」と。

 成ると思ってすれば、腹が立つ。成るなずないんです。今の政治の中で、砦に囲まれているんですから。それにうち勝つと言ったら、これより、もっともっと強い力を持たなければならんのだから、そんなのできるはずないんやから。だいたいこんなのしている人は、どっちかと言えば、気の弱い、優しすぎる、結局は、勝ち組にようつかんアカンタレばかりやから。自分の生きている間は、言いたいことを言っておこうという感じと違うんでしょうかな。

 

井上 稲さんが出された歌集は、ジワジワと影響を与えるわけです。

 

稲  あれも、恥ずかしくて、もう出さんとこと思ったのに、息子が、「今出しておかないと、お母さんが分からんようになってから出したのでは、いかんでしょう」と。ふうが悪いから、「私は目立つのは、すかんのや」と言ったら、娘も、「それはわかるけれども、生涯で一回しかないと思うから、チャンスと違うのか」と。

 

井上 駄目でもともと、無駄を承知で同じことを繰り返し言っていく。しょうがないと思います。趣味と思ってやってても、やればやるほど政治的に追い込まれていくということもあります。けれどもそれがイヤダというのなら、もともとそんなことはやっていないんですね。私も趣味だと思ってやっていこうと思います。

 

  趣味とでも思わんと、歯ぎしりするくらい口惜しい思いをするときがあったり、どうなるのかと案じるときがあったり……。それでも、趣味でやっていると思ったら、趣味はお金にもならんし、誰にも認められんときもあるんやから、こんなもんだなと思ってね。

 自分でも変わったらええやろなと思って……。警察もみんな当時の人とは入れ替わってるし、なんで自分は変われへんのかしらと思って……、しつこいのよね。

 私がいちばん悲しいことは、友だちが、「昔は、戦争で食べる物を食べられなかったし、いろいろ苦労したけれども、いまは幸せになっている」というのを聞くことです。その言葉がいちばん悲しいと思うんです。「今、よくなっていないのに」と思って。よくなっているのなら、世の中は、物の多い、やかましい世の中でなくて、もうちょっと落ち着いて、人間と人間がこんなふうに会話ができる。こんな余裕が少しもないですわな。大阪人やったら、「儲かりまっか」で、それ以上のことは何も考えていない。儲かったら、その人は、成功したと思っていて、「あんたは、ウロウロしているから儲からんのや」というふうに、見下げる。そういう考えでいるから、世の中は難しいですね。

 

井上 物の豊かさと言えば、確かに敗戦直後の状況から見れば話になりません。しかし、それが人間を豊かにしたかどうかは、別の問題だと思うんです。

 

孝子 私などは、疎開児でしたから、その当時、空腹でたまらないんですよ。ワカモト(ビール酵母が原料の胃薬、栄養剤)を食べ、歯磨き粉を食べ、口にはいる物を何でも食べてました。

 その後遺症からか、豊かになってからは、食べ過ぎて太っているのですが、あれはすさまじい原体験だったなと思います。

 空襲には遭うし、そのあとは浮浪児同然の暮らしで、よその畑から大根を盗って食べて、追いかけられて、逃げたり、防空壕で寝たり、母が引き揚げて帰ってくるまでの間は、学校も行かなかったんです。「不登校」という言葉があるけれども、私は小学校4年生から「不登校」で、空襲に遭ったあと、母が帰ってくるまでの間は、学校に行けるような暮らしができなかったですね。

 物がある、この暮らしが本当なのか、夢なのか現実なのか、なかなか分からないような感じがします。

 

井上 私の友だちの元看護婦が、中米のホンジュラスにいて、そこの孤児院でボランティアで働いているんです。そこを訪ねたことがあるのですが、孤児たちはいつも飢えている。たまたま外から来た人が噛み捨てたチューインガムの食べかすを、争って拾って、口に入れるような飢えの世界。それは、疎開児童や敗戦直後の焼け跡・闇市の状況そのものでしょう。この地上には、一方にそういう世界があるわけですよね。

 私たちが、「とりあえず豊かになった」とは、どういうことなのかという問題があるわけです。世界的に見ても、「昔はしんどかった、今はよくなった」というような考えでは、片づかないですね。

 

  私は、「終戦」という言葉が、いちばん嫌いなんです。自分の中では、ぜったいに終わったと思っていないのですから。相当の知識階級の人でも、「終戦」と、よくおっしゃっているけれども、「終戦」じゃないんです。終わってないのよ、自分の中では、全然。負けたのやから、まさしく「敗戦」。率直に「敗戦」と教科書にも載せないかんし、みんなも肝に銘じないかんと思うんです。

 

井上 勝手に戦後を終わらせるというのも、いけないですね。自分の中に戦争を抱えている人は、日本だけでなくて、中国や韓国などアジア・太平洋諸国にいっぱいいるわけです。傷跡は残っていて、癒されていない。「日本の戦後はもう終わった」というのは、勝手な開き直りです。

 今日は、どうもありがとうございました。初めてお目にかかり、ああ、こういう方だったかと感じ入りました。お会いできて嬉しく思います。ありがとうございました。

 

  あなたには、生きているうちに、一度お目にかかりたいと思っていました。

生きていてよかった。遠いところをおいでいただき、本当にありがとうございました。 

 

註 映画『沖縄列島』(出典は、映画製作・配給会社シグロ〔SIGLO〕のホームページ。一部を略して引用)

 

 ■ 戦後23年の沖縄の現実

 映画は再生ガラス工場でガラスびんの打ちくだかれるシーンからはじまる。打ちくだかれるのはアメリカ資本の沖縄産コーラの空きびんだ。飛び散るガラスの破片、溶解炉の炎。声がかぶさる。「日本の政府とね、日本の国民はね、私たちをアメリカに売りはらった…それは娘を売りはらった親父と同じ…恥ずかしくないのか」

 戦後23年の沖縄の現実が、さまざまな断片から浮き彫りにされる。見終えてみて冒頭のシーンの象徴性が迫ってくる。 

  ■ さまざまな現実

 東京・晴海埠頭の渡航制限撤廃闘争で焼き捨てられるパスポート。米軍基地にはりめぐらされている有刺鉄線。床屋になりたい少女の夢。米軍兵士に相手にされない女性の泣き顔。基地をなくすと生活ができなくなると演説する一人の男。集団脱走の絶えない少年院。復帰協会長のインタビュー。ひめゆりの塔で死ぬのを免れた女性。嘉手納空軍基地から飛び立つB52。原子力潜水艦の冷却水で放射能汚染された海に潜るダイバー。主席選挙の攻防。石油貯蔵基地に揺れる平安座島、宮城島。サトウキビ農業合理化に反対した宮古島の農民。生産コストにもいたらない、パイナップルをもぐ石垣島の農夫たち。パイナップル工場では沖縄の労働者より低賃金で台湾の女工さんたちが働く。混血の少女もまじるコザ高校の運動会。伊江島の土地を米軍から取り戻そうと闘争をつづける老人一一多くの風景、人々の貌、声がスクリーンにちりばめられる。ストーリーがあるのは演劇集団の舞台の上だけだ。

 ■ 新しい記録映画の出現

 しかし、このさまざまな現実の断片が寄せ集められてみると、沖縄列島全体が世界に不協和音を発していることに気づくだろう。この見事な手腕は、とくにカメラワークの絶妙さに新しい記録映画の世界の出現を思わせる。

 

 東プロダクション作品  1969年 35ミリ/白黒/90分 

 製作  高木隆太郎 監督・脚本  東陽一

 

註 以下の文章は、1988年8月6日に、市民運動グループ「円形劇場」主催の「8・6しゅうかい」に、稲たつ子さんが語り部として招かれたとき、その案内チラシに寄せたものである。その後この文章は、2000年9月に発行された稲さんの歌集『わが戦争』に収められた。同歌集の「はじめに」で稲暁さんは、「母の書いたほとんど唯一の文章」と記している。稲たつ子さんのご快諾を得て、インタビューの資料とさせていただいた。

 なお、文章中、「こども」を「子ども」という表記に統一した。〔 〕内は井上が挿入した部分である。(井上澄夫)

 

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    戦争を知らない世代へ

           稲 たつ子

 

 最近、若い仲間のNさんから「戦時中、軍国の妻であり、母であった稲さんの意識を、反戦平和へと方向転換させたものは何だったのですか?」と、きかれました。他にも、「戦時中、どうして戦争反対の声をあげなかったの?」と、きかれたこともあります。当時の私は、弾圧が恐ろしいから黙っていたわけではありません。むしろ、日本はアジアを守るために正義の戦いを遂行しているのだと信じ、夫を二度も三度も戦場へ送り、「欲しがりません、勝つまでは」と、子どもたちと一緒に頑張っていたのです。

 昭和19年〔1944年〕に入った頃から、私の住んでいた大阪では、食糧、日用品の配給が大幅に減り、主食はメリケン粉、麦、芋類、ついには馬の飼料にする大豆の絞り糟にまでなってしまいました。日常生活では、空襲に備えて長女を高松の実家へ疎開させなければならなくなりました。そんな折、戦地から帰ってきたばかりの夫の許へ「軍属として満州へ行かないか?」という話が持ち込まれました。軍属として勤務すれば、召集は免除されるし、食糧なども日本内地にくらべてずっと豊富だし、第一空襲の心配は皆無だという、まるで夢のような話でした。その頃の私は全くの世間知らずで、渡満するという夫の選択に素直に従ったのですが、自分の心の中にも打算がなかったとは言えません。夫を戦場に、子どもを疎開地に送り出す、そんな家族がばらばらの暮らしはもう嫌だという思いがあったのです。

 満州のような寒いところへ行くのはどうもと、尻込みする夫の両親と、体の弱かった長女を内地に残して、家族5人でひとまず渡満しました。昭和19年の11月のことでした。春になれば、夫の両親も疎開地に残してきた長女も引き取るつもりでした。その数か月後に、日本内地と満州との自由往来が禁止されるとは、想像もつかなかったのです。

 新天地の奉天は、凍りつくような寒さと猛吹雪で私たちを迎えてくれました。同行した一年生の長男が、疎開地の姉(長女)に「マンシュウノフユハ寒クナイノデス。イタイノデス」との手紙を書いたようですが、痛いほどの寒さというのは、本当にぴったりした表現でした。それでも、やがて満州に遅い春が来る頃には、私も少し環境に慣れ、束の間の家族だんらんの日々を過ごすことができました。戦況はじりじり悪化していたのですが、私の関心は疎開地で空襲に遭ったと聞いた夫の両親や長女のことで占められ、自分たちが一体どこへ向かっているのか、把握していませんでした。

 昭和20年〔1945年〕7月末、夫に三度目の召集令〔状〕が来ました。「話が違うやないの」私は思わず口走りました。満州に来たのは、召集が免除されると聞いたからです。けれども、いくら腹を立てても国家発行の赤紙には勝てません。夫は○○方面とかへ出征して行ったまま、戦後シベリアで抑留死しました。

 翌月、8月13日の朝、突然、老人、女、子どもに疎開命令が出ました。取るものもとりあえず、三人の子どもを連れて汽車に乗り込みました。私たちの班が乗り込むと同時に発車した汽車は、どんどん南へ向かって走りつづけました。鴨緑江を渡る頃、「このまま日本まで連れて帰ってくれるのかな」などと、冗談とも本気ともつかぬ話し声を聞いたのを今もはっきり覚えています。やがて夜遅く、汽車は平壌(現在のピョンヤン)に着きました。

 その二日後の8月15日、重大放送があるということで、私たちはラジオの前に集まりました。ラジオのすぐ近くにいる人が、「日本は負けたぞ。しかも無条件降伏だ!」と、まず叫び声をあげました。神国日本が負ける筈はない、嘘だ、デマだと泣き叫ぶ声が広がってゆきました。「ああ、よかった。これで夫は帰ってくる。内地の夫の両親や長女とも会える。日本へ帰れる」と、胸をなでおろしたのは、私ひとりのようでした。私も人並みの愛国者だと自負していただけに、本音の部分では自分本位の非国民だったのかと、情けない思いでした。しかし、思えばこの日から本当の難民生活が始まったのでした。

 戦時中、実にうかうかと生きてきた私は、敗戦と同時に三人の子どもとともに、言葉の分からぬ異国に無一物で放り出されたのです。そして9月下旬、平壌にソ連軍が進駐して来ました。沿道には4、5メートル間隔でソ連の国旗がひるがえり、町は異様な雰囲気に包まれました。各避難所に、ソ連兵による略奪、婦女暴行などの事件が多発し、一時は無法地帯のような有り様でした。

 ソ連の司令部が置かれた頃から治安は回復しましたが、劣悪な環境の避難民生活の中で、発疹チフスなどの疫病が蔓延し、体力のない老人や子どもたちが次々と亡くなってゆきました。私も、その間に実父と乳飲み子の次男を喪〔うしな〕いました。

 確か、翌年の4月頃だったと思います。ソ連司令部の命令により、私たち避難民は平壌よりずっと北、鴨緑江河口の竜岩浦という町の農業倉庫に収容されました。百人ほどの、女、子どもを中心とした避難民の集団でしたが、その中の働ける者が周辺の農家の下働きなどをしながら、わずかな収入を得て共同生活をつづけました。雑穀混じりの粥を分かち合い、夜はおたがいの体で暖を取り合う暮らしに誰もが疲れ果てていました。

 昭和21年〔1946年〕の秋になると、もう避難民の誰にもこの厳寒地の農業倉庫で越冬する体力は残っていませんでした。ソ連の司令部には無断で、私たちは早朝の竜岩浦を脱出、38度線へと歩き始めました。それぞれ全財産ともいうべき毛布とわずかばかりの食糧を背負い、山道や川原に野宿をしながらひたすらに歩き続ける、文字どおり避難行の日々でした。苦労を共にした、満州の官舎暮らし以来の友が、力尽きて私の傍らで息を引きとりました。私自身も、マラリアの高熱に冒され、子どもを道連れに死のうと思ったこともありました。私たちは、通行許可証を持っていなかったため官憲に行く手を阻まれ、何度も迂回した末、2か月余り歩き続けてようやく38度線を越えました。野宿の夢に度々出てきた38度線の境界が、辿り着いてみれば鉄道の遮断機に似た一本の横棒にすぎなくて、ひどくがっかりしたのを覚えています。

 結局、私は一年数か月の難民生活の中で、幼い次男と実父を病死させてしまいました。さらに、命からがら引き揚げてきた日本で、かつぎ屋をしながら母子寮に暮らしていた私の許に、夫のシベリアでの抑留死の広〔公〕報が届きました。

 もし、あの避難民暮らしの一年数か月がなかったならば、もし、家族三人を戦争で喪わなかったならば、今頃、私はたぶん、地域の老人会などに入って、ゲートボールだ、温泉旅行だと、それなりに楽しい老後を送っているだろうと思います。それを許さないのは、私自身です。あの侵略戦争を聖戦と信じ、国家に協力してきた末に、その国家に裏切られ、見棄てられた自分の愚かさへの憤りなのです。

 

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