ベ平連紹介のDVDナレーション原稿決定版
【殺すな! 日本の市民はアメリカのベトナム侵略とどう闘ったか】
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混乱と緊張がつづいていた。
1960年代はじめ――ベトナム。
当時の南ベトナム政府は、自由選挙を通じた国家統一を謳ったジュネーブ協定を無視し、抑圧的な独裁体制を築いた。
政権は腐敗し、軍事クーデターが続いた。
アメリカ政府は、クーデターを陰で操り、成立したクーデター政権を支持し続けた。
ベトナムの独立と解放を求める人々の願いが踏みにじられていった。
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このころ、世界は東西に二分され、対立していた。
西側、資本主義陣営を率いるアメリカ政府は「反共政権であれば、腐敗していようが軍事政権だろうが支持する」という政策を採り続けた。
東側のソ連も、アメリカに対抗しながら、影響力の拡大を押し進めていた。
ベトナムは、ベトナムの人々の好むと好まざるとに関わらず、両陣営が火花を散らす対立の現場となった。
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南ベトナムの首都サイゴンでは、政府とアメリカを批判して、学生や市民やリベラルな知識人がデモや集会を行なった。
何人もの仏教徒が抗議の意志を込め、焼身自殺した。
全世界が、緊迫するベトナム情勢に注目した。
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1964年8月、アメリカ政府は「北ベトナムの哨戒艇がトンキン湾でアメリカ軍の駆逐艦を攻撃した」と発表した。
のちの1970年、この「トンキン湾事件」は現地アメリカ軍による偽りの報告だったことが判明する。
だが、1965年2月7日、ジョンソン大統領は、北ベトナムに対する大規模な空爆――北爆を指示した。
「これは共産主義に対する戦争だ」とジョンソン大統領は叫んだ。
戦争が本格的にはじまった。
南の解放民族戦線と北のベトナム軍はジャングルにこもり、都市にもぐって反撃を開始した。
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日本政府は「アメリカの戦争政策と北爆を支持する」と言明した。
このとき、日本とアメリカは特殊な関係で結ばれていた。
この20年前、日本はベトナムや中国をふくむ広大なアジア地域を侵略した第2次世界大戦に敗北した。
国土は荒廃し、ほとんどの都市が焼け野原となった。
敗戦後、多くの日本人は「どんな戦争も、もういやだ」と思った。
戦後の新しい日本国憲法は戦争放棄と軍隊を保持しないことを謳った。
しかし、戦後世界が東西の対立を深めるなか、アメリカは日本を西側陣営の要のひとつに位置づけ、強い影響力を行使しはじめていた。
敗戦からつづいた占領が解かれるのと引き替えに、日米安全保障条約が発効し、日本各地にアメリカ軍基地が残された。
その上、アメリカは日本の最南端の島、沖縄の完全な統治権を握ってアメリカ本国以外では最大の軍事拠点を建設していた。
沖縄の米軍基地に核兵器が配備されていることは、公然の秘密だった。
ベトナム戦争の激化とともに、各地の米軍基地にはアメリカ兵があふれ、首都圏に近い横須賀や、九州の佐世保にはアメリカ海軍の空母や原子力潜水艦が頻繁に出入りしはじめた。
沖縄から飛び立った爆撃機はベトナムの村々を焼き、北爆をくり返した。
ベトナム戦争は日本の市民にとっても、他人事ではなかった。
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ベトナム戦争は「テレビが茶の間に中継した最初の戦争」だった。
空爆される村々、燃え上がる家々、逃げまどう人々、村人やゲリラ兵のおびただしい死体、残酷なリンチの場面、処刑シーン……。
多くの日本人にとって、戦争はまだ生々しい記憶だった。
世論調査は、日本人の80%が「アメリカは戦争をするべきではない」と考えていることを明らかにした。
日本の市民の次の課題は、「どうすればこの戦争をやめさせることができるのか」だった。
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北爆の始まった年、1965年の4月24日――東京。
日本の作家や知識人らが呼びかけたベ平連、「ベトナムに平和を!市民連合」の最初のデモがアメリカ大使館と首相官邸に向かった。
参加したのは会社員、主婦、学生、子どもなど1500人。
主張は3つ。
「ベトナムに平和を!」
「ベトナムはベトナム人の手に!」
「日本政府はベトナム戦争に協力するな!」
デモの先頭には、この運動の代表となった作家の小田実、開高健をはじめ、哲学者、大学教授、音楽家などもいた。
ベトナム反戦をテーマに、社会的責任を果たそうとする知識人とさまざまな市民が集まり、行動しはじめていた。
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だが、1966年、67年、68年と戦火は拡大した。
アメリカ軍の兵力は10万、20万……さらに40万、50万人と増強され、ナパーム弾、ボール爆弾、枯葉剤、電子装置で誘導するスマート爆弾など、最新鋭の、あらゆる残虐な兵器が使われるようになった。
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ベ平連は発足以来、毎月第1土曜日の午後を「定例デモの日」とし、アメリカ大使館や日本の首相官邸へのデモをつづけた。
定例デモは数千人のこともあれば、10数人のこともあった。
晴れた日も雨の日も雪の日も、デモはつづけられた。
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日本の野党、日本社会党と日本共産党、労働運動のナショナルセンター、日本労働組合総評議会――総評もベトナム反戦を訴え、日米両政府を批判した。
原水爆禁止を世界に訴えてきた被爆者たちの運動をはじめ、各地の平和運動団体もカンパを集め、数次にわたってベトナムに医薬品を送った。
総評は1966年10月21日、ベトナム戦争の即時全面停止を訴える集会と、全国的なストライキを行なった。
鉄道も工場もオフィスも止まった。
労働運動の連合体がベトナム反戦を主張してストライキ闘争を展開したのは、これが世界ではじめてのことだった。
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ベ平連は政党ではなかった。
ベ平連は労働運動ともちがった。
では、ベ平連とは何だったのか?
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ベ平連は運動だった。
規約や会員資格を定めた組織ではなかった。
ベトナム戦争に反対し、アメリカや日本の政府の戦争政策をまちがっていると考える個人であれば、誰でも参加できた。
自分のできることを、自分の意思で、自由にやり、自分で責任をとること。
それだけがルールだった。
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それまでの日本の社会運動は政党か、政党とつながる労働組合や各種の組織によって行なわれてきた。
それらに属さない個人が社会運動に参加する機会はほとんどなかった。
労働組合に属す人々がそれとは別に、自分の意思で参加できる運動もなかった。
日本の社会は、一人ひとりの個人が自分の考えを表現し、行動する場と方法を必要としていた。
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知恵ある者は、知恵を。
カネある者は、カネを。
力のある者は、力を。
ベ平連はそう呼びかけた。
ホー・チミンが語ったというこの言葉が、日本の市民運動の原則ともなった。
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各地にベ平連が生まれた。
一人で始めたベ平連があった。
ひとつの家族が始めたベ平連があった。
高校生や学生たちが始めたベ平連があった。
会社員や主婦が始めたベ平連があった。
詩人や歌人が始めたベ平連があった。
仏教徒やキリスト教徒が始めたベ平連があった。
大学の教授たちがはじめたベ平連があった。
47に分けられる日本の行政地域の全部に、ベ平連や、ベ平連と同様の反戦市民運動ができた。
その数はわかっているだけで、381グループにのぼった。
ベ平連は、日本で最初の大規模な市民運動となった。
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ベ平連は次々と新しい運動スタイルを編み出した。
1965年8月――反戦のための徹夜ティーチイン。
ここでは親米的な与党政治家もアメリカのベトナム政策を批判した。
しかし、アメリカ政府に忠実な日本政府はアメリカ政府の戦争政策と腐敗した南ベトナム政府を支持しつづける。
戦争に反対する市民と、戦争に協力し続ける日本政府。
これが戦争終結まで、変わらない構図だった。
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日本の市民の意見は、日本政府のそれと同じではない。
その声をじかにアメリカ市民に届けたい。
ベ平連は1966年から68年にかけて、アメリカの「ニューヨークタイムズ」「ワシントンポスト」に「意見広告」を出した。
日本列島の北、北海道でも、まんなかの東京でも、南の果て、沖縄でも、作家や詩人や作詞家、大学教授や画家が、そしてたくさんの市民が街頭に立ち、募金を訴えた。
意見広告に踊る「殺すな」の文字。
日本の市民の意見を直接、アメリカのニュースメディアに載せたのは、この一連の活動が最初だった。
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ベトナム反戦は国際世論となった。
政治的紛争を残虐な軍事力で解決しようとすること、民族自決の意志をミサイルやナパーム弾で破壊すること、腐敗した権力を批判する人々を拷問や処刑で沈
黙させること、こうした戦争行為を許してはならない――という声はフランスやイギリスや、当時の西ドイツや、さらにアメリカ本国でも拡がっていた。
これらの国々はこのころの「自由主義陣営」に属している。
自由の品位が問われていた。
自由主義の欺瞞が問われていた。
自由の価値に隠れた権力意志の汚さが問われていた。
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1966年、ベ平連はフランスの行動的哲学者サルトルとボーヴォワールを招き、東京で反戦集会を開いた。
1967年、アメリカ本国で反戦歌を歌っていたジョーン・バエズのコンサートを開催した。
1971年、アメリカの女優ジェーン・フォンダの率いる演劇集団が来日し、米軍基地周辺の町と、京都や東京で反戦を訴える公演をしたときにも、各地で協力した。
国際的な議論、国境を越えた連携が必要であることを、参加しただれもが感じていた。
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「反戦バッヂ」がある。
「殺すな」。
何千、何万という反戦バッヂが人々の胸で主張した。
政治活動を禁止されていた高校生たちにとっては、バッジを付けて登校することが闘いとなった。
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「平和の船」のプロジェクトがあった。
何万人もの市民が1カ月のサラリーの1日分を寄付し、戦争で傷ついたベトナムの人々のための医薬品を積み込んだ船を送り出した。
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「フォークゲリラ」の運動があった。
1969年の春から夏にかけての毎週土曜日、東京最大のターミナル駅、新宿駅の地下広場はギターを抱えた10数人の若者と何千人もの市民で埋めつくされた。
歌は4カ月後、警察機動隊がギターを抱えた若者たちを次々と逮捕し、市民に代わって地下広場を占拠するまで鳴り響いた。
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なぜ?
なぜ人々は主張し、カンパし、歌ったのか。
戦争がいやだから。
だれも殺されたくないし、死にたくないから。
平和に暮らすことが大事だから。
しかし、それだけだったろうか?
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1966年、ベ平連代表の作家、小田実は書いた。
「ふり返ってみよう。われわれは戦争の被害者であった。と同時に、加害者でもあった」
第2次世界大戦で、日本の多くの都市や町は米軍の空爆にさらされ、広島と長崎では原子爆弾が炸裂し、一瞬のうちに30万人が殺された。
この戦争で300万の日本人が命を落とした。
兵士だけではなく、たくさんの普通の人々、一般の男や女や子どもたちも死んだ。
しかし、その普通の人々が支えた国の軍隊が、アジア全域で2000万という人間を殺した。
そこには大戦中に餓死させられた200万人とも言われるベトナム人がふくまれている。
被害者であることが、そのまま加害者でもあるということだった。
同じことが、いまも起きている。
日米安全保障条約は、日本がアメリカ軍に広大な軍事基地と物資と便宜を提供することを義務づけている。
われわれはベトナムに対して加害者である。
加害者であることを強いられている。
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このとき、思想が――ベトナムの平和を願い、行動する市民のあいだで、戦争に加担する政府と、この社会で暮らすことの意味をどう考えるのかという思想が、変わろうとしていた。
ここで変わっていく思想は、行動も変えていく。
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1967年10月。
日本の総理大臣は南ベトナムを訪問し、南ベトナム政府を支持し、経済援助をつづけると演説した。
首相専用機が離陸する羽田空港を、大量に動員された警察官が警戒した。
首相の南ベトナム訪問を阻止しようとする学生たちがデモをした。
そのなかで、1人の学生が殺された。
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同じ10月のことだった。
横須賀に入港したアメリカ海軍空母イントレピッド号から4人の水兵が脱走した。
4人は東京の雑踏にまぎれ込み、知り合った日本人らを通じて、ベ平連に連絡した。
彼らは言った。「私たちはアメリカ政府が遂行しているベトナム戦争はまちがっていると思う。この戦争で戦いたくない。戦争放棄の憲法を持つ日本に亡命し、平和に暮らしたい」
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そのとき4人に会ったベ平連の1人は、3つのことを伝えなければならなかった。
第1に、日本政府はベトナム戦争に関して中立ではなく、明確にアメリカ政府を支持し、日米安保条約を根拠にアメリカ軍に協力している。
したがって、アメリカ軍からあなたたちの逮捕要請があれば、日本の警察はあなたたちを探し出し、逮捕し、引き渡すだろう。
亡命は不可能だった。
第2は、日本が四方を海に囲まれた島国であり、安全な外国に逃げ延びるのは容易ではないこと。
そして、第3に、とはいえベ平連はあなたたちの行為を支持し、その意志が貫けるよう全力を尽くす覚悟があること。
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4人は、目立たない、普通の家々にかくまわれた。
観光客を装って、各地を移動した。
秘密の、アメリカ軍にも日本の警察にも気づかれてはならない活動が始まった。
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この当時、西側諸国にあって、アメリカ政府の戦争政策に反対し、徴兵忌避したアメリカの青年や脱走兵たちを公的に受け入れていた国がひとつだけあった。
スウェーデンである。
ベ平連は4人をスウェーデンに送ることを考えた。
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数週間後の11月、総理大臣はアメリカに向かった。
日米両国政府は戦争遂行のために、いっそう緊密な関係を結ぼうとしていた。
総理大臣が出発する前日、由比忠之進という老エスペランティストが首相官邸前で焼身自殺した。
遺書には「アメリカの北爆と、北爆を支持する日本政府に抗議する」とあった。
そして、ワシントンで日米首脳会談が始まろうとした、そのとき――
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ベ平連は東京で記者会見を開いた。
――アメリカ海軍の空母イントレピッド号から4人の水兵が脱走した。
――ベ平連は彼らの行動を支援する。
――これからもわれわれは脱走兵支援の活動をつづけるだろう。
ニュースは世界中に飛んだ。
暗くなった会見場で、短い映画が上映された。
そのなかで4人の脱走兵が、なぜ自分たちは脱走を決意したのかを語っていた。
「……」
「……」
「……」
「……」
映画はこんな言葉で結ばれている。
「これは終わりではなく、始まりである」
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間もなく、4人の脱走兵はモスクワに現われた。
彼らは東京に近い横浜港で観光客にまぎれ、ソ連政府の援助によってソ連客船に乗り込み、ソ連領土に到着してからモスクワに飛んだ。
その経路を聞いたとき、「ソ連は赤い悪魔の帝国」と教えられてきた脱走兵たちは、顔をしかめた。
ベ平連も、彼らが国際政治の荒波に飲み込まれ、「政治的宣伝」の道具に使われるかもしれないことを懸念した。
彼らの意図、彼らのほんとうの気持ちを、彼ら自身に語ってもらうこと。
その様子をベ平連が映画にし、公開したのは、彼らの存在をできるだけ「政治的宣伝」の場から遠ざけたい、と考えたからだった。
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ベ平連の事務所には支持の電話や手紙、カンパや協力の申し出が殺到した。
一方、反共を唱える右翼はベ平連の事務所を襲い、破壊した。
警察は、ベ平連の中心的な活動家を執拗に尾行しはじめた。
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アメリカ政府はベトナム戦争を「共産主義との戦い」というイデオロギー対立の枠内に押し込めようとしていた。
イデオロギーの対立であれば、どんな爆撃も、どんな残虐行為も許されると言わんばかりだった。
戦後世界を二分したイデオロギー対立は、一人ひとりの人間を粗末にする、シニカルで残酷な考え方を生みだし、浸透させていた。
そこに、なんとかして人間の声を響かせたい。
そこに響き渡る人間の声を、なんとかして聞き取りたい。
理不尽に殺される人間の悲しみと怒りの声、殺せと命令された人間のおびえと寂しさの声。
市民運動はこれらにまっすぐに向きあおうとした。
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ベ平連は、また日本の反戦市民運動は、大きく変わろうとしていた。
その行動はより直接に、在日米軍基地とその施設に向かいはじめていた。
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首都圏の一角に、アメリカ軍の野戦病院があった。
ベトナムの戦場で負傷した米兵を治療し、再び戦場に送り込む病院だった。
基地の近くに住む市民が作った大泉市民の集いは、金網越しにアメリカ兵たちに語りかけ、「ベトナムで戦うな」と呼びかける反戦放送を開始した。
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1968年春、アメリカ軍当局は東京にもうひとつの野戦病院を開設する、と発表した。
病院開設に反対するデモが、連日のようにくり返された。
警察がデモに襲いかかり、そのなかで、1人の市民が命を落とした。
病院は開設された。
傷病兵が次々と送り込まれてきた。
それは、東京が戦場の一部に組み込まれたことを示す光景だった。
デモはつづき、日増しに大きくなった。
アメリカ軍は1年半で野戦病院の閉鎖に追い込まれた。
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横須賀には、アメリカ海軍の基地があった。
ここを母港とする空母や原子力潜水艦は、北爆と、南ベトナムの解放地域に対する攻撃に重要な任務を担っていた。
横須賀の反戦市民グループはデモをくり返し、上陸したアメリカ兵にチラシを配って「戦争をやめろ」と訴えつづけた。
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アメリカの空母や原子力潜水艦は、修理や爆薬の積み込みのために、九州の米軍佐世保基地にも頻繁に出入りした。
ベ平連は佐世保市の労働組合や学生運動、市民グループと共同し、空母入港反対のデモを海と陸の両方で行なった。
市民たちはアメリカ兵が上陸するたびに、反戦を訴えた。
「われわれはあなたたちを歓迎しない」
いつのまにかそこに、もうひとつの呼びかけが加わっていた。
「われわれはあなたたちを歓迎する――戦争機械から脱走するなら」
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アメリカ軍兵士の脱走が始まった。
ベ平連は秘密のグループ――JATECを組織した。
「脱走米兵援助日本技術委員会」(Japan Technical Committee To Aid American Deserters)。
ジャテックは日本から国外に脱出するあらたな秘密ルートを開拓した。
韓国系アメリカ人が脱走した。
彼は朝鮮戦争で孤児となり、アメリカで養子として育てられた若者だった。
大統領から勲章をうけた黒人のアメリカ兵が脱走した。
彼は「おれの戦争はベトナムではない。おれの戦争は、アメリカ国内の、人種差別の現実と戦うことだ」と言った。
3人で脱走してきた兵士もいた。
彼らは「上官はベトナム人を殺せ、と命令する。だが、おれたちには戦いの意味がわからない。殺したくないし、殺されたくもない」とつぶやいた。
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米軍基地周辺の繁華街で働き、遊んでいた若い女性が脱走兵を手引きした。
日本語をしゃべれない脱走兵を、英語のできないタクシーの運転手が連れてきた。
アメリカ兵から「脱走したい」と相談された新聞記者が、付き添ってきた。
小説家や編集者や大学教授やテレビディレクターが自宅の一室に脱走兵をかくまった。
病院経営者が使われなくなった結核患者の病棟を、ラブホテルのオーナーがどぎつい照明の客室を、難病患者のコミュニティーがゲストハウスを、ヒッピーの
コミューンがテントの一張りを、過疎地の老夫婦が空き家を、避暑地の別荘の持ち主が山小屋を、脱走兵たちのために提供した。
脱走兵たちは数週間、数カ月を日本で暮らした。
そして、ある日、夜陰にまぎれ、日本の北の小さな漁港から、脱走兵を乗せた小さな漁船が海に出ていった。
都市という森、町という林、市民という海が、脱走兵たちを隠し、手渡しし、スウェーデンへと送り出していった。
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1968年はじめ、東京最大の繁華街で、タンクローリー車と貨物列車の衝突事故が起きた。
タンクローリー車が爆発し、炎上した。
この事故をきっかけに、アメリカ軍が東京の中心部を通過する鉄道を使って、ベトナムを攻撃する爆撃機のジェット燃料を運搬していることが発覚した。
何両も連なった長く、黒々としたタンクローリー車が、港湾と内陸の米軍基地のあいだを往復していた。
市民や学生たちがデモをくり返し、線路に入り込んでタンクローリー車を停めようとした。
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同じころ、北九州では、市民や学生たちがアメリカ軍基地から市街地へとつづく線路に座り込んだ。
基地から出てきた貨物列車は立ち往生した。
日本の警察機動隊が襲いかかり、何十人ものけが人と逮捕者が出た。
何十両もつづく貨物列車には、ベトナムに送られる大量の弾薬が積み込まれていた。
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同じ年の6月、九州最大の都市、福岡市にある九州大学構内にアメリカ空軍のファントム・ジェット戦闘機が墜落した。
教職員と学生たちと福岡ベ平連は機体の引き渡しを拒否した。
彼らは、アメリカ領事館と米軍基地当局に対して「ベトナム戦争の即時停止」を要求した。
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日本の反戦市民運動に、アメリカからやってきた留学生たち、学者や研究者が加わってきた。
東京のベ平連事務所の一角は、彼らの活動拠点となった。
彼らはアメリカ本国で高まっていた反戦運動と連絡を取り合い、在日米軍の兵士たちに不服従の権利と方法を教えた。
英文の反戦パンフレットが作られ、基地のなかで配布された。
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各地のアメリカ空軍基地の周辺では、市民たちが爆撃機や輸送機の離発着を妨害しようとタコを揚げはじめた。
ありふれた子どものオモチャが、何度も爆撃機を止めた。
基地ゲート近くに喫茶店を開いた学生たちは、やってくる兵士たちに「戦争に行くな」「戦うな」と訴えた。
三沢、横須賀、横田、岩国、沖縄――おもなアメリカ軍基地のどこにも反戦米兵の組織ができた。
各地の基地内で、何度も反乱が起こった。
なかでも岩国基地では数十人の海兵隊員が加わり、10数カ月間におよぶ抵抗運動がつづいた。
リーダーや活動家は逮捕され、軍事裁判にかけられた。
日本の弁護士たちが彼らを弁護した。
こうした基地の内と外にまたがって行なわれた反戦・反軍の闘争は、このころの在外アメリカ軍に対する活動のなかではもっとも大きく、長期におよぶ闘いとなった。
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アメリカ軍から脱走したひとりはベ平連といっしょに東京の繁華街をデモし、アメリカの戦争政策に「ノー」を叫びながら、逮捕されていった。
いったん脱走したあとで、再び基地にもどった兵士たちは軍隊内抵抗の運動に合流した。
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この時期、アメリカ上院の軍事小委員会は報告書をまとめた。
報告は「世界の7カ国に、脱走兵を支援する機関が23ある」と認め、「とりわけ日本の支援機関が『精力的、かつ効果的な活動をしている』」と注意を喚起した。
日本の脱走兵支援の活動は、軍隊内の反乱や抵抗運動とつながっていた。
「精力的、かつ効果的」という表現に、アメリカ政府とアメリカ軍の強い危機感が込められていた。
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東京近郊、相模原市にはアメリカ軍の補給廠があった。
ここから戦車、装甲車などが武器弾薬とともに南ベトナムに送られていた。
首都圏のいくつものベ平連、反戦市民運動、野党、労働組合などは基地ゲートを数千人のデモで取り囲み、戦車の搬出を阻止した。
相模原の市民団体はテントを張り、徹夜で戦車搬出を監視した。
そのテントに、「私はもう汚い戦争を戦わない」とアメリカ海軍空母から脱走した水兵も合流した。
むりやり搬出されようとした戦車には、ベ平連の若者がその下にもぐり込んで抵抗した。
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日本にはベトナム人留学生もいた。
1969年、ベトナムの平和と統一を訴えた彼らは、在日南ベトナム大使館に入り込み、自国政府の抑圧と腐敗を批判した。
南ベトナム政府はただちに彼らに帰国命令を発した。
本国からの送金も奨学金も止められ、欠席裁判で、懲役刑が宣告された。
日本政府は彼らを強制送還しようとした。
じっと耐えるベトナム人留学生たちを、日本の市民が支援し、見守った。
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アメリカが施政権を握った沖縄は、戦場とじかにつながっていた。
連日、何十機という爆撃機が北ベトナムと南の解放地域に向けて飛び立ち、巨大な輸送機が離発着していた。
米軍基地で働く沖縄の労働者は労働組合を結成し、「ベトナム戦争反対」の意志を示すストライキをくり返した。
アメリカ軍はそのたびにリーダーたちを解雇した。
沖縄の高校生たちはベトナム戦争を考える全校集会を開いた。
大きなうねりとなった反戦の声は、沖縄の施政権をアメリカから取りもどす本土復帰運動へとつながっていった。
日米両国政府はやがて、この要求を無視できなくなった。
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アメリカ政府の戦争政策も、それを支持する日本政府も間違っている。
それが日本の世論だった。
しかし、にもかかわらず、戦争はつづいている。
それが現実だった。
日本とアメリカの関係のなかに、日本の現実のなかに、この戦争をつづけさせる根拠がある。
ベ平連と反戦市民運動の参加者はその根拠――日米安全保障条約へと目を向けはじめた。
人々はこの軍事的関係と、それを支える日米関係、日本社会のあり方へと視野を広げていった。
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1968年夏、ベ平連は京都で、「反戦と変革に関する国際会議」を開催した。
1969年春、ベ平連は全国的な市民運動メディア「週刊アンポ」を発行しはじめた。
戦争は軍事的な理由だけで引き起こされるのではない。
そこに関わる世界観、イデオロギー、国際的駆け引きから、国内の経済的事情や政治的思惑、人間の権力的野心や社会的不満まで、さまざまな要素が絡み合っている。
「殺すな」
このひとことから始まった日本の反戦市民運動は、究極的に「殺す」ことを前提に組み立てられた現代世界と日本の仕組みを明らかにし、その現実を変えていくことをめざしはじめていた。
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同じ時期、アメリカ国内の反戦運動も拡がっていた。
戦争政策に対する批判は、音楽、映画、文学やライフスタイル全体を変える対抗文化の運動を巻き起こした。
公民権を求める黒人たちの運動も全国に拡大した。
社会は分裂し、経済が低迷した。
ベトナムの戦場でも敗北がつづいた。
徴兵拒否、脱走、軍隊内抵抗は軍隊そのものを内側から突き崩す力となった。
あらたに就任したニクソン大統領は戦争の「ベトナム化」政策を打ち出し、ベトナム駐留のアメリカ軍兵力を削減せざるをえなくなった。
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アメリカの軍事戦略の変更は、日米関係や在日米軍の配置にも影響した。
1972年、沖縄の施政権が日本に返還された。
日本のあちこちに散在していたアメリカ軍基地が整理統合され、いくつかの施設は日本の軍隊、自衛隊に引き継がれ、いくつかの機能は、引き続いてアメリカ軍が使用することになった沖縄の米軍基地に集中した。
日本政府は在日米軍が必要とする経費の大半を支払うことを決めた。
ベトナム戦争後のアジア戦略をにらんだ日米関係の再編が進んでいた。
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日本の北、北海道にあった札幌ベ平連は先住民アイヌの文化を学びながら、抑圧的な社会構造を変えていく運動を模索しはじめた。
首都圏の埼玉ベ平連は、代表を地方議会に送りだし、保守的な地域社会を変えていくための運動と、急速に整備されていく自衛隊に反対する運動を開始した。
その自衛隊からは、治安出動訓練を拒否する反戦自衛官がたてつづけに現われ、「われわれは市民に銃口を向けない」と宣言した。
東京のベ平連は、アジア諸国の軍事政権のもとで民主化運動をつづけている人々との連携を深めていった。
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まだJATECがかくまっていたアメリカ軍脱走兵がいた。
ジャテックの1人はパリに飛び、かつての対独レジスタンス運動や、フランスのアルジェリア戦争政策に抵抗した闘士たちからパスポート偽造の手法を学んだ。
何人かの脱走兵たちは、非合法の手段で日本を脱出した。
ベ平連とジャテックが国外に脱出させた脱走兵は、合計すると20人になった。
日本の市民運動は非暴力主義を貫いてきた。
非暴力ではあるが、ほんとうに必要な場合には非合法の手段を使うこともある。
ヨーロッパでもアジアでも歴史的に形成されてきた市民的不服従の思想と行動を、日本の市民運動はベトナム反戦運動の経験のなかで獲得していた。
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1973年1月、パリ――
ベトナム民主共和国、南ベトナム臨時革命政府、ベトナム共和国、アメリカ政府のあいだで戦争終結と平和回復のための合意が成立した。
アメリカ軍の撤退がつづくなかで、ベトナム問題はベトナム人自身による解決にゆだねられた。
1975年4月30日――
北ベトナム軍と南ベトナム解放勢力は首都サイゴンを陥落させた。
戦争が終わった。
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この戦争中、ベトナム全土には第2次世界大戦をはるかに上回る爆弾が落とされた。
200万人のベトナム人が死亡し、5万8000人のアメリカ人が死んだ。
300万人のベトナム人と、15万人のアメリカ人が負傷した。
数えきれないほどの家族が破壊され、子どもたちが孤児となり、生物化学兵器は癒されない傷を未来に残した。
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全国各地のベ平連――ベトナムに平和を!市民連合は、この間に次々と解散した。
東京のベ平連の解散集会のタイトルは「危機のなかでの出直し」。
戦争中に経済大国への道をひた走った日本は、韓国やタイやインドネシアの軍事政権を支持しながら、政治的にも経済的にも存在感を高めていた。
各国の民主化運動は「反日」を叫んでいた。
その声を聞きながら、ベ平連で行動した人々はそれぞれに、生きる場をさだめ、市民社会における市民一人ひとりの思想と行動と、ちがう社会、ちがう歴史的背景のもとで生きる人々との共生の原理を考えはじめていた。
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21世紀――
冷戦は過去のものとなった。
しかし、新しい世紀の現実はまたしても、「殺すな」と主張する市民の登場をうながしている。
殺すな――どんなときも、どんなところでも。
その声が日本でも響いている。
日本のさまざまな場所、あちこちの分野に、かつてのベトナム反戦市民運動の参加者たちがいる。
その精神が息づいている。
彼ら、彼女たちは平和や民主主義や平等を求める運動のなかにいる。
環境保護やエコロジー運動のなかにいる。
学問や教育、ジャーナリズムや文学、映画や音楽や芝居のなかにいる。
あなたの隣にいる。
そして、あなたのなかにいる。