82 脱走は大罪なのか――ジェンキンス問題を考える (川崎・
本野義雄) (2004.07.30掲載)
拉致被害者曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんの処遇について、政府は司法取引による寛大な措置をアメリカ政府に求める方針だという。結果として曽我さん一家が幸せに一緒に暮らせる道がそれしかないなら、あるいはやむを得ないのかも知れない。しかし、この間の論議で「脱走は大罪だ」という国家の論理だけが前面に出て、脱走した兵士個人の側からの視点がほとんど顧みられていないことには、いささか違和感をおぼえる。 37年前の1967年、脱走米兵が大きなニュースになったことがあった。空母「イントレビッド」乗員4人がベトナム戦争の不正に抗議して脱走、日本の市民運動べ平連の手でスウェーデンに亡命した事件である。「先進工業国が貧しい農業国を組織的に爆撃し民間人を無用に虐殺するのは犯罪」「われわれは、いかなる政党とも無関係な真のアメリカ人としてこの戦争に反対する」と述べた4人の声明は大きな反響を呼び、べ平連には1週間で2千人もの支持の手紙がカンパと共に送られてきた。
これをきっかけに脱走米兵支援運動ジャテックが発足、以後5年間にさらに15人の米兵を国外に送り出した。ジャテックは一部マスコミに「べ平連の地下組織」などと書かれたが、実態は普通の家庭の主婦、サラリーマン、学生らヴォランティアのネットワークに過ぎなかった。今日とは比べものにならない劣悪な住環境の中で、次から次へとやって来る脱走兵に一室を与え、食事や身のまわりの世話をするのは並大抵のことではなかった。普通は1週間から10日で次の場所に移動させるので、常に新しい移動先と支持グループを開拓する必要があった。こうして脱走兵たちは、日本各地を巡り歩くことになった。彼らを安全に運び、長期間にわたって養ったのは何千という無名市民の無償の行為だった。密告によつて脱走兵が摘まった例は1件もなかった。このことを私は、平和憲法を持つ国の一員として誇りにしていいと思う。
私は運動の初期から関わっていたので、多くの脱走兵に接する機会があった。短期間で帰隊した者を含め、50人以上にはなるだろう。当然ながら実に様々なタイプの兵士がいた。戦場で心身共に深い傷を負った男がいた。恐怖から逃れるため麻薬中毒になった少年兵もいた。酒と女が手に入るのが当然と思っている若者もいた。例外なく教育程度が低く、エリートにはほど遠い青年たちだったが、政府や軍指導者の言葉を決して信じないという共通点があった。「自由と民主主義のために殺されるのも、殺すのもまっぴらだ」これが彼らの信条だった。
報道によれば、ジェンキンスさんが脱走した動機もまたベトナムに送られるのを恐れたためだったという。もしそれが事実なら、彼の立場はカナダやヨ一ロッパに亡命した多くの米兵たち(その多くは特赦によって帰国した)に近いことになる。いわゆる「利敵行為」について言えば、それが北朝鮮で生きぬく唯一の手段だったかも知れない点を別にしても、60年代末から70年代にかけて各基地の米兵が公然と軍を批判し抗命を呼びかける反戦新聞を発行したり、われわれ日本人の反戦集会やデモに参加していた事実と比べてどうなのか、ということになろう。
アメリカ政府や軍の高官がジェンキンズさん訴追の姿勢を変えない最大の理由は、言うまでもなく現在進行中のイラク戦争である。「イラクに派遣された兵士への士気に悪影響がある」ということは、イラク戦争もベトナム戦争に劣らず大義名分のない戦争であり、兵士たちは何のためか分からずに死んでいるということではないか。「殺されたくない、殺したくない」との思いは米兵だけでなく、サマワに派遣された自衛隊員も含め、むろんイラクの一般民衆も含めて共通のものであろう。そこから生まれる脱走という行為は、不道徳な国家の命令を拒否する勇気ある個人の行動である。ベトナム戦争時イントレビッドの4人を支持し、多くの脱走兵を保護した私たち日本国民は、この際はっきりと「ジェンキンスさんに罪はない」と主張しよう。と同時に小泉首相に対しては、イラクの自衛隊を、彼らが殺されたり殺したりしないうちに、そして彼らの中から新しい脱走兵が出ないうちに撤退させるよう要求しなければならない。