64 ベ平連が警察と仲良し? (おかのじゅんじ) (2003.05.31掲載)
チャンスの小林一朗という人が「ベ平連は警察を仲良くやってきた。警察に花束を届けた。わたしたちは左翼より、ベ平連に近い。」といっていますがどういうことなのでしょうか おかのじゅんじ (送信日時: 2003年 5月 28日(水曜) 14:44:31)
【お答え、吉川勇一】 この投書にある質問は、最近、イラク反戦運動の連合体「World Peace
Now」で中心的活動をしていた「チャンス」のグループの何人かが、昨年末と今年に入ってから、警察官などと飲食をともにし、話をした、ということが問題になっていますが、それとの関連で出てきた話です。
この件については、「FreeML」の「CHANCE ! Forum」でやりとりがなされています。
その中で、「チャンス」の小林一朗さんは、内山隆さんの質問に対する返事のメールの中で、次のように言っています。
「小林一朗です。年末に食事をした時にしゃべったのはボクです。……(中略)……。かつてベ平連の方々は、デモの際、花一輪を持ち寄って、警護に来た警察に渡そうとしたそうですね。受け取らなかったそうですが。ボクの考え方も、内山さんの考え方も、ヒロセくんの考え方も、ベ平連には近いですね。……(後略)」(2003/04/28発のメール、全文は、以下に。
http://www.freeml.com/message/chance-forum@freeml.com/0012890 )
警察との飲食問題については、いろいろ意見がありえますが、ここではとりあえず、ベ平連のデモと花束の関係や、警察との関係などの事実問題だけにしぼってお答えしておきます。しかし、これは重要な問題ですので、お答えはかなり長くなります。
まず、ベ平連が、小林一朗さんの言われる「デモの際、花一輪を持ち寄って、警護に来た警察に渡そうとした」ということは、私の知る限り、まったくありません
でした。ベ平連は「花束デモ」はよくやりました。それがどんなものであったかを、例を挙げてご説明します。
花束を持ったデモということを最初に言い出したのは、私だったかもしれません。1968年4月号の『思想の科学』に、私は「市民運動’68の認識」という文を載せましたが、AとBの対話形式をとったその文章には、次のような箇所があります。少し長い引用になりますが、今のデモにも多少ご参考になるかもしれないと思います。お急ぎの方は、この引用部分は飛ばして、先へお進みください。
(カッコ内は修正した部分)
(前略)…… 十月二十一日(1967年)の市民・文化団体実行委には三十以上のさまざまなグループが参加したが、ここに結集したグループは、それ以後、羽田や、東京でのエンプラ反対運動のデモなどでさまざまなトライ
(アル)・アンド・エラーを繰返しながらも、思想や立場が違う勢力の、形式的ではない立体的な行動の統一の方向を模索してきている。この勢力(努力)は、七〇年の安保闘争のための統一の形式をつくりだす上でも、非常に貴重なものだと思うよ。
花束を投げよう?
A どんな方向かね?
B まだはっきりまとまっているわけではないが、この実行委の各グループの間では討議は続けられている。まあ、僕なりに空想をまじえて展開してみょうか?
A ウン。
B 多数のさまざまな立場の勢力によるベトナム反戦の統一行動をまず想定してみよう。一定の行動旬間とか週間がきめられるんだな。目的は最小公倍数にしぼられるんだ。たとえ
ば「アメリカのベトナム戦争即時全面中止」というようなスローガン一本だけだ。北ベトナムと解放民族戦線支持とか、佐藤戦犯内閣糾弾とか沖縄、核武装、安保など、課題の追加や視点の違いはまったく各参加グループ、あるいは個人の自由にまかされるんだ。それらはそれぞれが独自に用意するプラカード、のぼり、ビラなどで自由に表明される。
A なるほど。それから?
B 最小公倍数を内容とする共同アピールが事前に出されるわけだが、各グループは、それぞれ独自にその見解をのべ、意味付与と解釈と主張とを加えた独自のアピールを続々と一斉に出すんだ。とにかく、その旬間なり週間のよびかけは、多彩な内容のものが無数に氾濫するわけだね。その間、各グループの間での討論や相互批判は積極的に組織される。もちろん意見の相違はいくらでも出てくる。しかし、そのグループの存在自体を敵とみなして排除するようなことはしないんだね。
A なるほど、なるほど。
B 事前の十分な独自な活動の積み重ねののちに、ある特定の一日の行動にクライマックスがおかれるんだ。その日の行動形態としては三つないしそれ以上が、あらかじめ一般の参加者に提示される。参加各グループや個人は、それを自由に選択する。それ以外の新たな形態の提案も歓迎される。しかし、それらの選択や提案は、完全にそのグループあるいはその個人自身の責任で行なわれなければならない。その中には危険が予想されるものもある。それを選択する場合には、その結果自分に生ずる不利益は自分で負うという決意が必要だ。これはあらかじめの約束だね。それについて他のグループからの即時的な支援を自分の側からは要求しないし、期待しないという約束だ。もちろんその場合、他の行動形態を選択したグループを、その意志に反して別の部隊が意図的にまきこむようなこと、妨害するようなことをしないというルールも絶対に必要だ。
A そうした複数の行動形態というのはたとえばどんなことなんだ?
B そうね。たとえば、あるグループは日比谷の交叉点でも国会前でもいい、そこに大量に坐り込む。このグループは全員逮捕されることを覚悟する。非暴力抵抗を戦術とすべきだと思うが。機動隊から暴力を加えられることも予想しなけりゃならないだろう。第二のグループほそうした行動を見守るデモ。証人としての役割をもつグループを構成する。このデモは、混乱した事態が起こると若干まきこまれる危険があるかもしれない。しかしこうした部隊の存在と環視が、混乱をおさえる役割をするに違いない。さらに第三のデモは、あらゆる不測の事態を回避し、あらかじめ許可されたコースのみを、ジグザグもせず予定通り歩き、その代り、老若男女、広範な人びとの参加を保証する、といった組みあわせだな。
A アメリカ方式だね。
B こうした基本形態を中心にして、さまざまなバリエーションの行動がつけ加えられる。演劇グループは街頭で反戦寸劇を上演する。詩人が反戦詩を朗読する。バンドがトラックで乗りつけてベトナムの行進曲を演奏する。何でもいいんだ。とにかく数万の人びとによってこうした多層な行動が展開され、全体としてはベトナム反戦で連帯してるというような行動だ。
A 面白いな。坐り込んでる連中はどうなるんだ?
B ゴボウ抜きされるだろうな。場合によると警棒でなぐられるかもしれない。
A 石は投げないのか?
B 投げないほうがいい。投げるんなら、機動隊が来た時、花束か、キャンデーか、パイでも投げるんだな。
A パイや花束をもってデモしてから坐り込むのか?
B その近くに用意しといて、坐り込んでから配ってもいいだろう、三派全学連の角材配給みたいに。
A 花束準備集合罪か、ますます面白いぞ。俺はパイを投げたいね。石だと警官のヘルメットの前の顔おおいにはねかえるだけだが、クリームのいっばいついたパイだと、べチャッとついてとれないし、こりや面白い。ちょっともったいないがね。機動隊の広報車のスピーカーはなんて怒鳴るかな? 「デモ隊の諸君、花束を投げるのはやめなさい! パイを捨てよ!」とかね。いわせてみてえな。
B 面白がってばかりいるなよ。つかまるんだぞ。場合によると道路交通法違反で一人三万円の罰金だ。
A へエッ、俺が払うのか?
B そうさ。
A フーム。考え直そう。
B ダラシないな。
A それにしても、その辺一帯は野次馬もでるし、交通は途絶だな。
B ウン。だから事前の予告は十分にすべきだろうね。混乱が予想される行動の中心地点では、たとえば数日前からお急ぎの用の方は通るなとかなんとかビラや掲示で注意が出されなきゃいけないな。マスコミを通じての予告や宣伝も十分に考えるべきだろう。それを通じて参加するよう計画されるべきだ。
A なるほど。しかし、そのデモはやってみたいね。行かれないやつは口惜しいだろうな。
B いや、このデモの中心部分だけでなくそれ以外の場所でも、さらに広範な人びとが意思表示を出来るような形態も考案されるべきだろう。たとえば直径十センチぐらいのでっかいバッジとか、プレートなどで、主要な行動が展開される時間に合わせて全国で一斉に、たとえば三十分だけでもいい、着用するんだな。僅かな時間にせよ。教室でも、街頭でも、職場でも、電車の中でも、一斉に何万、何十万という人びとがその行動で参加するんだよ、バッジの売上げで、このカンパニアの費用の大半はまかなわれる。
A 財政プランまで出来てるのか。
B いささか空想がすぎたかな。だが、とにかくわが国ではこの種の大規模な大衆行動は一度も行なわれたことがない。しかし、昨年以来の市民運動の発展
はこの種の行動を可能にさせる条件を次第に成熟させて来てると思うね。パイを投げるのほともかくとして、これぐらいの規模の行動は情勢によって要請されていると思う。……(後略)
(『資料・「ベ平連」運動』上巻 343〜344ページ) |
つまり、デモでの花束とは、こういう文脈で考えられていたのです。では、実際はどうだったのか。三つの例を挙げてみましょう。引用は長いですが、その当時のデモがどんな雰囲気であったかをまずご理解いただけないと、その中での花束の意味もはっきりしませんので、お読みください。
花束の部分は太字にしてあります。
新宿米タンク・ローリー車抗議
市民団体三千のデモと一万の集会 (『べ平連ニュース』 1968年11月号より)
十月反戦行動の中心日である10・21を翌日に控えた二十日の日曜日、東京ではべ平連、国民文化会議、七〇年安保に反対する市民の会、わだつみ会、キリスト者平和委員会など、市民・文化団体約四十の共催による集金とデモが行なわれました。
「すぐやめよ、アメリカはベトナム侵略を、佐藤政府は侵略加担を! 安保体制を打ち破り、沖縄を解放しよう……」を相言葉に、明治公園の広場に集まった人びとは約三千名、宣伝カーの屋根を舞台に集会を開き、翌日の大集会への労働者参加者に向けた別掲の上うな「訴え」(略)を採択、午后三時半、新宿へ向けてのデモ行進を開始しました。
新宿――若者の街とも、庶民の街ともいわれています。デパートは「新宿は楽しいお買物の散歩道」というキャッチフレーズで購買欲をそそっています。フーテンの街でもあり、脱走米兵の街でもあります。しかし、新宿が「ベイタンの通り道」だということは、あまり知られていません。ベイタン――米軍用ジェット燃料の鉄道輸送用タンク貨車のことです。毎日、この新宿を通って、日に四本の米タン列車が極東最大の空軍基地、横田・立川にジェット燃料を運んでいます。新宿経由以外のものも含めると一日に七本、百二十輌のタンク貨車が百三十万ガロンの「危険物」を運んでいるのです。ベトナムへ飛び立ってゆく爆撃機や戦闘機、輸送機の燃料が、庶民の街、若者の街、楽しい買物の街のド真中を毎日、定期的に通りすぎていく――アベックが通り、学生が通り、紳士と淑女が通るその脇を、戦争が毎日通っている――新宿は戦争加担の街、基地の街でもあるのです。日常性の中にある戦争。新宿は、まさに日本全体の象徴のような街ではないでしょうか。
その町の通りを、市民・学生のデモは戦争反対、安保粉砕、米タン阻止を叫びながら力強く行進します。先頭には可愛らしい男の子、女の子の手を引いた夫婦、日本山妙法寺の僧侶、花束をかかえた娘さんなどと共に、東大の日高六郎教授、ルポライターの石田郁夫さん、小田実さんの顔も見えます。‥‥ところが、この平和的なデモを突然、機動隊が両側からはさみこみ、後の方では学生べ
平連のグループの隊列の中から九人を逮捕しました。小田さんが宣伝カーに飛乗り、マイクをつかんで話します。「皆さん、この機動隊の行為をみて下さい。私たちは平和を求める平和的なデモです。私たちは今から花を配ります!」 デモ隊のかかえていた花束が歩道をゆく人びとに手渡され、拍手が沸きます。機動隊の併連規制――いわゆるサンドイッチ・デモも、青いヘルメットをかぶった顔の前を菊や.バラやカーネーションでくすぐられて、とてもヤりにくそうです。
駅南口の大通りを進んでいる時、小田さんは叫びつづけます。「報道陣の皆さん、素人カメラマンの皆さん、機動隊の写真をとって下さい……顔をよくとって下さい!」 バラ.バラとカメラをかついだ人びとが駆けよります。すると機動隊の隊長が慌てて命令をします。「タテを外側へ出せ……行進から二米離れよ!」
「皆さん! 後の学生部隊との間に機動隊が入って切られました。つながるまで待ちましよう! いや、少しづつ戻りましょぅ! 後へ歩いて下さい!」 大きなスピーカーから流れる小田さんのデモ指揮は、とてもユニークで、これまで聞いたこともない指揮がとび出してきます。
解散地付近の西口大通りを道いっばいに行進する頃には、ネオンがきれいに光っていました。
このあと、直ちに新宿駅東口の大広場でべ平連主催の「街頭時局講演会」が開かれました。広場の中央に陣どった宣伝カーを囲んで、集まった市民は約一万人。吉川勇一さんの開会のあと、石田郁夫さんを司会者に、小田さんの演説で街頭訴演会がはじまりました。日高さん、鶴見良行さん、小中陽太郎さん、武藤一羊さんをはじめ、労働者の北添さん、王子の大塚さんなど、沢山の人がマイクを握り、大群衆にベトナム反戦、米タン輸送反対を訴えます。六時四十五分を駅前の電光時針の針が指した時、吉川さんから発表がありました。「皆さん、本当なら、この時間、私たちの眼の前の線路にタンク車が入ってきているはずです。ところが、国鉄当局は昨十九日から二十二日まで、この輸送を全面的に中止したそうです。これは十月反戦行動に示された力によるものです。」 東口の広場を拍手が埋めました。
宣伝カーにはいろいろな人が上って話しました。丁度新宿の道を駆け足デモをしてきた社学同ML派の学生部隊が広場につくと、マイクから人びとに訴え、また駆け足で走りぬけていきました。そのつぎには、ギターをかついだ青年がユーモラスで皮肉たっぷりな反戦ソングを披露しました。米タンの駅前広場は、この時、充実した真の民衆の広場になっていました。デモを規制していた機動隊もこの街頭講演会の周辺には姿を見せず、交通整理の警官数人が、自動車と人びとの流れをさばいているだけでした。
機動隊が先に手を出さぬ限り、デモがあっても、集会があっても、新宿は民衆の平和な街なのです。そして、米タンが通らず、基地でなくなるなら、新宿は、真に楽しい庶民の街になるでしょう。 (『ベ平連ニュース 縮刷版』176ページ)) |
新宿と花ともみじと ――12・28花束デモより (『べ平連ニュース』 1969年2月号より)
「絶対にジグザグデモをせず、交通を妨害せず、商店に迷惑をかけず、二列になり、花束を持ってベトナム戦争反対・米タンク車通過反対を訴えるデモ」という、史上もっとも長い名前をもったデモ行進が、暮の新宿の街で行なわれました。
この日午後二時、コマ劇場裏の大久保公園に集まったのほ、約百五十人。
事前のP・Rが徹底していたのか、どの人も手に手に花を持参しています。生花もあれば、リボンとモールで作ったもの、紙できれいに作ったものなど様々。何かしら付近の空気もさざめいていて、デモ″というイメージからは程遠い集団です。
各自の花に、事務局で用意したスローガン入りの短冊をはりつけ、三時頃行進は出発しました。先頭は、完成したばかりの、きれいなピンクの「ヤングべ平連」の旗。関西からやってきた北摂べ平連の三人の若者が、フォークソングを道いっばいに響かせます。こんな解放感は何ヵ月振りでしょうか、みんな、楽しくて楽しくて仕方がないといった表情。誰かが「『べ平連もとうとう気が狂ったか』と思われるぞ」などと言っていましたが、はんとうにこんなデモは初めてです。
隊列はコマ劇場の前をグルッと回り、新宿駅東口の広場を横切りました。日野べ平連の人の作った、かわいい切り紙細工や、京都の反戟もみじ連合″から送られてきた、もみじの葉をはりつけたビラが一緒に配られます。駐車中の車の窓に、荷台に、ビルの窓から眺める人に、次々と「ベトナム戦争反対」の花が渡っていきます。「もっとくれよ」という人、「一人一本ずつにしてください。なるべく沢山の人にあげたいから」という注意も聞かれました。沿道の人の中で、差し出された花やビラを拒否する人は一人もなく、「こういう平和なデモならいいね」と話していました。表面的な形の違いだけで、単純にデモの良し悪しは決められないと思うのですが……。
解散地点でひとしきり配ろうと、事務局で用意した花も、またたく間に奪い去られ(?)午後四時頃、デモは終りました。そのあと数人の人が、新宿南口の陸橋の上から、米タンのとおる線路に花を落としに行き、また大田べ平連を中心とする人々は、フォークソングを歌いながら西口地下広場で脱走兵援助のカンパをしました。時ならぬ歌声に人々も足をとめ、カンパは七時頃までに約七千円が集まりました。
デモといえば機動隊、そして弾圧と、殺気立った雰囲気が当り前になってしまった昨今、こんなデモもあるのだ、ということを、私たちは実際に行動で示すことができました。形はどんなに違っても、その底に流れる反戦の意志は決して消えるものではありません。私たちは、これからもっともっと様々な色合いの、様々な形のデモを開拓していかねばならないと思います。 (『ベ平連ニュース 縮刷版』205ページ))
花束デモとジグザグデモ
古山洋三
このデモの話はべ平連ニュース十一月号の小田実の呼びかけからはじまった。そこでも「べ平連の定例デモで、若い諸君がジグザグデモをやったり、あるいは逮捕者が出たりして、いろいろ議論がでています」とふれているように、昨年夏ごろから、定例デモのあり方についてニュースの紙上、あるいほデモ出発前の集会で論議がかわされていた。私自身
は、定例デモは、誰でも入れるデモ″という性格を守り、それにふさわしい形をとるべきだという――具体的には「静かな」デモで――考えを今でもかえていないが、かならずしも若い人たちのなかには納得がいかないらしい。むしろ、日共系の「整然たるデモ」に対する反発からか、やや感情的に「統一をみだすというんでしょう」と喰ってかかられた経験もある。誰でも参加出来る″ということと一人一人が自分のよいと思う方法で″ということとには、たしかに矛盾がある。べ平連運動は今まで参加者一人一人の創意と自発性によってすすめられてきたので、「これがべ平連運動だ」という形を決めたことは一度もない。デモに加わる人は、自分の一番よいと思うデモのやり方をすればいい、ということ
はその限りでは正しいといえる。しかし、べ平連運動の一つのメリットは、誰でも、気軽に、日常性からの飛躍を必要とせずに参加しうる行動の形態をたえず創り出して来たということ、そしてその行動を通じて、日常性に対する反省、批判の契機を個人の内部に作り出して来たということを忘れてはならない。べ平連運動
はこうして、たえず開かれていなければならないといえる。はじめてデモを見た時、はじめてデモに加わった時、私たち一人一人がどんな感情の動きを経験したかを思いかえしてみるのも無駄ではないだろう。私は小田実の考えに積極的に賛成した時、こんなふうに考えていた。
二十八日の花たばデモ≠ェ道行く人々の好意と共感につつまれ、参加者のなかにのびのびとした一種の楽しさが流れていたことは間違いない。そして、新宿の目抜き通りをはじめて公安委員会の許可をとって堂々とデモをしたことの意義はいうまでもないことである。 (『ベ平連ニュース 縮刷版』205ページ)】
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ベ平連は花で武装する (『べ平連ニュース』 1971年12月号より)
ベ平連は以前よく花束デモをやったが、久しぶりに十九日のデモは花をもった。べ平連と安保拒否百人委がそれぞれ一万円づつ出して三千本近い生花を仕入れ、一輪一輪にゆわえつけた短冊や荷札に、みんを思い思いのスローガンをかきつけた。翌二十日は、同じくこの花束を銀座の数寄屋公園で
道行く人に配ったが「沖縄返還のための市民の会」は、厚手の色紙にデモの日どりをきれいに刷り、花にゆわえて配っていた。その紙片にはこうあった。「土地をうばい、琉球政府予算の二倍以上の金を使って、仙台で旅客機を落し、北富士で治安訓練をしてきた自衛隊が沖縄へ行く。だまって許し、そうして助けてはいけない。沈黙は共犯者なのだ。自衛隊を沖縄ヘやるな! いまそう叫ぷべきだ。」 (『ベ平連ニュース 縮刷版』474ページ) |
これらでおわかりのように、ベ平連のデモが花や花束をもって行進することはあっても、それは警護の警官に贈るためなどではありませんでした。
最初の吉川の文で、「アメリカ方式だね」とあるのは、1967年10月21日、米国防省包囲デモの組み方を指しています。このデモの際、出動した米連邦軍の兵士たちに対し、デモ隊が花を持って対峙し、デモ隊に向けられた銃口の先の穴に花を差し入れていった、非常に有名になった行動
がありました。ここでの花は、ベトナムで無辜の民衆に向けられ、時には国内でのデモ隊にも向けられる軍隊の銃に対置される非暴力の象徴的存在だったのです。(ただし、念のために言っておきますが、「非暴力」とは決して「無抵抗」などということではありません。この日の国防省デモでは、非合法の座り込みなどによって、デモ指導者のD・デリンジャーをはじめ、作家のノーマン・メーラーなど1,000人以上が逮捕されています。詳しくはD・デリンジャー『「アメリカ」が知らないアメリカ
』(藤原書店)、ノーマン・メーラー『夜の軍隊』(早川書房)などを。) 【右上のイラストは『ベ平連ニュース』1969年7月号より】
また、具体例の最初の例では、花は、機動隊によるベ平連のデモへの弾圧、規制への抵抗の道具となっています。
第二の例の新宿・花束デモについては、すこし解説がいるでしょう。1968年秋には、新宿駅周辺の学生や新左翼党派などのデモに対して騒乱罪が適用され、大量の逮捕者が出ましたし、翌98年1月には、東京・神田での「カルチェ・ラタン闘争」や有名な東大の安田講堂封鎖解除の激突など、各地で火炎瓶が飛び交うような激しいデモがおこなわれました。したがって、ベ平連がこの新宿・花たばデモをやった68年暮れの状況は、まず、新宿ではデモなど届けを出しても絶対に許可されず、新宿駅近辺は四六時中、警官によって厳重な警備がおこなわれ、まるで戒厳令下のような空気さえありました。ベ平連の定例デモも、古山洋三さんの文にあるように、全共闘などの影響もあって激しいジグザグ・デモを行なう参加者もあり、いわゆる普通の市民や家族連れなどの参加できるような雰囲気がなくなりつつありました。こういう状況を打ち破って、新宿でデモの権利を奪い返すこと、また、普通の市民が「逮捕覚悟の上」などではなく参加できるようなデモを行なうこと、という目的で計画されたものでした。そこでも、花は反戦と非暴力の象徴でした。しかし、警官に渡されるのではなく、道行く人びとに配られるものであり、また、ベトナム戦争のための米軍用機の燃料を運ぶいわゆる「米タン」に対して投げられるものだったのです。
警官の死んだ現場に花束
もうひとつ、あるいは「チャンス」の小林さんが誤って記憶されていたか、不正確に他の人から聞いたかもしれない実際の出来事がありますので、それも記しておきます。
1968年は、日本大学当局の約20億円にのぼる脱税が摘発されたことを契機に、日大全共闘による大学の責任追及の闘争――学生による大学占拠、大学側の機動隊導入による封鎖解除、全学ストなど、いわゆる「日大闘争」が激しく展開された年でした。その年の9月4日、6月以来占拠されていた大学の建物から学生を排除するため、
大学の仮処分申請に基づく裁判所の要請で、警察機動隊が出動、132人の学生が不法占拠などで逮捕されたのですが、この排除に当たった第5機動隊の巡査部長(34歳)が、頭に投石を受け、9月29日に死亡するという事件が起こりました。
その直後の10月5日にあったベ平連の第37回定例デモは、清水谷公園を出発し、神保町から日大の横を通り、水道橋で解散というコースでしたが、その際、日大の横を通過するときに、デモの参加者の一部が、日大の脇で、死亡警官に対する「献花・黙祷」をしました。日大全共闘の学生からは、われわれの側にも、多数の負傷者、逮捕者が出ているのだ
と、この行為に対する抗議の表明があり、デモの中でも、それへ賛否両論がありました。
しかし、この行動に対して、ベ平連として、それがよかった、悪かったという結論は出していませんし、出そうともしませんでした。デモ参加者それぞれの判断に任せるということだったと思います。
小林さんの話は、あるいは、このことを不正確に理解したものかもしれません。いずれにせよ、ベ平連が警護の警官に花を渡そうとしたという小林さんの話は、事実ではありません。
以上の報告に対し、当時のベ平連参加者の方の中で、あるいは違う情報や、別の情報をお持ちの方もおられるかと思います。その際は、
(7) このホームページへの感想、意見、希望を送る。をご利用になって、ぜひお知らせくださればありがたいと思います。(吉川勇一)
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