39. 香川県にもベ平連はありました。(井上澄夫さんより)(2001.06.16掲載)
前略
愛媛県の若い友人が、インターネットで「べ平連」のホームページを覗いたとかで、「愛媛には確かにべ平連運動があったのですが、香川県については、ホームページに記述がありません。でも、あったらしいですよ」と言って、同封のFAXをくれました。
FAXでは、歌集『わが戦争』を刊行された稲たつ子さんが、高松べ平連の動きの中心であったようですので、稲さんに電話でうかがいましたところ、次のようなお話をして下さいました。
「東京には届けないで、勝手に高松べ平連と名乗っていました。香川大学の学生さんなど若い人たちが、私のうちに集まってきて、2階で寝泊まりしていたんです。
一番多いときは、200人のデモをやりました。香川大学の学生たちや高校生たちも参加したんです。逮捕者も出ました。私も逮捕されましたが、歳をとっていましたから、勘弁してくれました。あるとき、警察にうちの回りを囲まれ、買い物にもついてくるので、『なにも悪いことをしていないんやから、用事があるなら、いつでもうちに来なさい』と言ったら、ときどき警察が『おばさん、おばさん』と言って来るようになりました。
あの頃の若い人たちは、どこへ行ったのでしょうか。今は社会の中堅になっているのでしょうが、小泉のように好戦的な人が出てきているんやから、みんなでなんとかせんといけんと思うのですが、私はもう85(歳)で、思うように動けません。しかしあきらめないで、と思っています。
あの歌集は、恥ずかしいものです。歌になっていないから、出すのに反対したんですが、娘と息子が、大事なことは伝えないといかんと言うので、出しました。
いろいろ反響がありましたが、どれほどの力になるのやら。これからの時代が心配です。」
同封の文章を書いた矢代富子さんは、自動・車イスで活躍している古書店の店主で、出典の『つなぐ』は、香川県議会でただ一人の女性県議・渡辺さと子さんを支える会のメディアです。私は、矢代さんが中心になって発行している隔月刊のミニコミ『きざむ』に、毎号、反戦のエッセイを寄せています。
状況の厳しさは言うまでもないのですが、高松べ平連の中心であった稲さんが、状況を憂慮しながら志を捨てず、その思いを受け継ぐ矢代さんら高松の女性たちが、粘り強く反戦の活動を維持し、私にも連絡をくれるという事実に、私は、わずかながら希望を見いだしています。
近く稲さんにお目にかかるつもりですが、そのとき、高松べ平連のことを、もつと詳しく聞いてみようと思っています。そう言えば以前、高松でのシンポジウムに参加したとき、「(香川の)フォークゲリラの女王」であったと、自ら名乗る女性に会ったことを思い出しました。
とりあえず、こういうこともあるとお伝えしたくて筆をとりました。
2001年5月23日
井上 澄夫
この手紙に同封されていたFAXにあった『つなぐ』の矢代富子さんの文も以下に転載します。なお、稲たつ子さんの歌集『わが戦争』(上に表紙の写真掲載、2000年9月、「稲 暁」発行 頒価1,500円) お申し込みは高松市塩上町12-10 稲たつ子さん宛か、井上澄夫さん(電話:03-3923-8555)宛にどうぞ。
なお、この件については、その後、元高松ベ平連のT.T.さんからもメールで情報が寄せられ、本「談話室」の62に掲載されています。
その髪の白き先まで怒り込め
私の最年長の友人は、今年85歳の稲たつ子さんである。「友人」などというのはいかにもおこがましいが、きつと許してくれるだろう。
初めて稲さんとお会いしたのは、四半世紀も前のことになる。持病のリューマチの悪化のためlこ、働いていた大阪の児童福祉施設を退職し、深い挫折感と虚無感すら抱いて高松に帰郷して間もない頃だった。知人のTさんが、「高松にもおもしろいおばちゃんがおるんよ」と連れられていったのが、琴電の踏み切り脇の稲さん宅であった。その頃、ヒッピー族が一世を風靡していたが、紛れもなくそんな風貌の若者3〜4人が先客として来ていた。その時、どんな議論をしていたのかは忘れてしまったが、若者たちに交じって堂々と論陣を張っている稲さんの姿に、少なからず驚いたものだ。いま、思い返してみるに、その頃の稲さんは60歳前後ではなかったか……後に、高松でのぺ平連の活動拠点となっていたのが稲さん宅であり、常に何人かの若者が2階で起居していたことを聞くに及んでまたまた驚いたものだった。そんな出会いのあと、たまさかに稲さんを訪ねると、必ず政治への不満、とりわけ平和に対する危機感や反戦への熱い語りかけは戦争を知らない世代の私の胸にストンと落ちるものがあった。そして、10年ほど前からは、反戦・平和への思いを短歌に読み、世に問うようになった。当時の朝日新聞香川版の投稿歌壇こ掲載された短歌の数々からは、稲さんの魂の叫びが聞こえるようである。中途半端な日々を生きている私のぐにゃっとした姿勢が、稲さんの短歌を読むことで正される思いだった。その後、体調を崩されて、最近は短歌から遠ざかっているようにみえたが、昨年9月、歌集「わが戦争」を上梓された。私にとっても望外の喜びであり、至宝ともいえるものである。
稲さんの髪は透き通るような総白髪である。その髪を見るたび「怒髪」というコトバを思う。戦争によって愛する家族を失い、自らも生死をさまよった引き上げ体験、他国への侵略に加担したという怒りや憤り、無念さがその髪に結晶したのではと思える美しい白髪である。
反戦を語る若きこ出会いたり今少し生きていたしと思う(「わが戦争」より)力不足ながら、反戦・平和活動に関わる私にとって、稲さんの存在は、とても心強い支えである。「今少し」などと言わず、生きて生き抜いて、私たちを叱咤してデンと構えていてほしいと願うことしきりである。 (矢代富子)
(「女性を議会に!みんなと政治をつなぐ会」ニュース『つなぐ』2001年4月 No.34 より)