615.寺井美奈子さん逝去のお知らせ。2011/11/25掲載)
     
 ベ平連の初期、及び中期に、世話人(いわゆる「内閣」メンバー)で、財政・会計の全責任を担って 活発に活動されていた寺井美奈子さんが、2011年9月9日、肺ガンで逝去されたという訃報が、季刊雑誌『活字以前』aD47(11月15日発行)の「編集後記」に載せられていました。 ここ数年、健康がよくないというお話はうかがっていましたが、9月に亡くなっておられたとは驚いております。実に残念です。深く哀悼の意を表明いたします。
 左は1966年4月30日〜5月1日、熱海のホテル万代で、ベ平連の第一回「内閣」の合宿に行った時の寺井さん、右は1966年4月23日のベ平連第8回定例デモに参加した寺井さん(先頭、清水谷公園を出たところ)です。(どちらも撮影:吉川勇一)

 寺井さんは、1937年東京に生まれ、日本女子大学英文科卒業。著書に、『ひとつの日本文化論』(講談社学術文庫)、『根の国を求めて』『戦争のとき子どもだった』(以上は左の写真)、『最後の江戸暦問屋』(ともに、筑摩書房刊)があります。また、思想の科学研究会所属でした。    

  

 以下は、『ベ平連ニュース』10号(1966年6月20日号)の「ベ平連事務局の横顔 その一」に載っていた寺井美奈子さんへの紹介です。

  寺井美奈子さん
 イキな人である。三味線を弾き長唄を謡う。冬になると着物すがたで事務局へあらわれ男性の眼をたのしませてくれる。だが、デモに行く段になると皮ジャンバーにスラックスという出で立ちに早変り。テレヴイの番組は時代物しか見ない。いつだったか夜、自宅へ電話をかけたら「いま、ちょつと具合が悪いの、十分後にかけなおしてちょうだい」と言われ、こちらは風呂にでもはいっているのかと、想像をたくましくしたのだが、なんのことはない「半七捕物砧、やってたのよ」 芝居の脚本を書き、思想の科学研究会のメンバーでもある。現在は、ある映画の独立プロダクションで、事務を担当しているが、過日、見込まれて重要な配役を振り当てられ北陸へロケーションに行くはずであったのに日米市民会議の準備で忙がしく、あっさり役を降りてしまい、プロデューサーをひどく残念がらせた。
  べ平連とは発足当初からの付き合いで、昨年の徹夜討論会から今年の日米市民会議まで、経理を全て受け持ち、まさに、べ平連の大蔵大臣である。
  あの細い体で、よく続くと思うほど、よく働く。
  だれか彼女に、寿司をごちそうしてあげてください。三代続いた江戸ツ子て独身デス。
                                                                      (A)

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