593.坪井隆良さん、10月19日に死去。(2010/12/15掲載)
aD588で、川村正則さん、金原ふみさんの訃報を載せましたが、もうお一人、ベ平連のごく初期のことから
運動に参加されていた坪井隆良さんの残念なお知らせをいたします。夫人の坪井みよ子さんからの年末の喪中挨拶のはがきで、今年10月に永眠されたとのお知らせでした。
逝去は10月19日、64歳でした。
坪井さんについては、「吉川勇一個人サイト」の「「いい人」情報」のaD66(2008年10月23日掲載)で、ガンの病状についてお知らせをしていました。そこで、隆良さんご本人からの手紙で、「……
岡山の実家に帰って二か月。下咽頭がんと診断され、しかも食道がんの重複発症の疑い、両肺への転移があるとされました。現在、下咽頭がんを放射線と抗がん剤で治療中です。副作用に悩まされながら、たまたま吉川さんのホームページを見て、御無沙汰をお詫びしつつ、メールしました。「いい人」というのが、少し元気づけられるような気がします。……」という紹介を載せていました。その後も何度か、病状の情報を頂いたり、お見舞いの手紙を出していたのですが、残念ながら、この秋に死去されたのですね。
坪井さんは、1966年の秋、フジTVがベ平連運動で活動中の4人の青年の記録をテーマにした『ドキュメンタリー劇場・ある青春の模索』を制作したのですが、放映予定の10月7日に、突然放映を中止しました。この事件については、このドキュメンタリーに登場していた主要メンバーだったベ平連事務局の中の青年4人が、抗議の声明を出すとともに、この運動についてのパンフレットを発行しました。この経緯は、『資料・「ベ平連」運動』上巻155〜159ページに出ています。この4人は、大越輝雄、笠井聖志、坪井隆良、森井雅枝さんでした。以後、この青年たちは、ベ平連事務局の中心で活動したのでした。その後、坪井さんはTVコマーシャルの作成などの仕事をしていましたが、「市民の意見30の会・東京」では、井上澄夫さんと一緒に、沖縄問題のビデオ『いま語る沖縄の思い』を作成・頒布するなどで活動されていたのでした。まだ64歳でした。追悼の念を表明します。
坪井さんのお知り合いで、ご夫人に連絡をしたいという方は、本サイトに通信してくだされば、転送するか、坪井さんのアドレスをお知らせします。
以下は、『市民の意見30の会・東京ニュース」の第36号(1996年5月31日号)に掲載された坪井さんの文章と、そのビデオの紹介です。ビデオはまだ販売中です。
「屈しない人たち」との出会い
――ビデオ制作を終えて――
坪井隆良
沖縄での撮影から帰って既に二ヵ月以上がたっているのにもかかわらず、私は東京での日常生活に「復帰Jできないでいます。街の雑踏、行きかう人々、仕事での打合せなど、私を取り巻く様々なことに妙な違和感を日々感じ、何か薄いペールのようなもの越しに関わっているような気がしてなりません。
これは、十日程の沖縄でのロケが私に突き付けた問題が厳しく、大きなもので、それらに対応できるものが未だに私に十分そなわっていないためでしょう。
沖縄戦、敗戦後のアメリカによる支配、日本復帰後のことなど沖縄について一応知っているつもりでした。しかし、それは表面上の知識にしか過ぎなく、そこで日々厳しい生活を強いられている人々の思いや心に対する想像力が全く欠如していたのだということをしたたかに思い知らされました。
今回のビデオ制作のキッカケは今年二月九日の事務局会議での井上澄夫(フリージャーナリスト)さんの「来週末から沖縄に取材に行く」という発言でしたが、その時はただそうかと受け止めていただけでした。家に帰って風呂に入ってポゥーとしている時、「そうだ、井上さんに『同行取材』という形でビデオ撮影できないだろうか?」と思いついたのです。
ただこの取材を実行するのにあたっては、井上さんの同意を得ることはいうまでもなく、当面の費用の調達、撮影機械、カメラマン、沖縄での道案内をしてくれるドライバー、等々様々な問題があり、一週間程の時間で準備できるのか? また私自身沖縄について多少知識は持っていても、撮影となるとより具体的なことを分っていなければならないし、撮影対象の絞り込み、全体の構成の検討なども事前に行なわなければなりません。
で結局こうしたことはほとんど何もできないまま、二月十八日、雪の日私はビデオカメラ二台(経済的なことからプロ用のではなく、ホームビデオより多少機能の高いカメラ)、スチールカメラ、三脚二本を両肩両手に持ってその重さにヨタヨタしながら沖純行きの飛行機に乗ってしまったのです。不安なことは、私は映画やビデオ制作に二十五年かかわってきましたが、それは演出という立場で、自分でカメラを一度もまわしたことがなく、果して画や音がキチンと取れるか? ということです。一番肝心なことじゃないかと誰でも思うことですが、十日間プロのカメラマン
を拘束するだけのお金がなく、オート機能でやれば何とかなるだろうと決心してのことだったのですが……
何故、そんなムチヤなことをあえてしたのか? 九五年秋以降の沖縄の反基地、反安保の大きな運動に私がどう関われるのか、そのためにはマスコミ情報だけでなく沖縄の人の生の声を聞きたいと漠然と考えており、このチャンスを逃がしたくないという気持ちを押えることができなかったからです。沖縄の人は、井上さんが長年にわたって培ってきた沖縄の人たちとの関係をペースに取材できるということは、非常にイージーな方法ではあるけれど願ってもない機会だと思ったのです。
しかし、こうした私のイージーな姿勢は当然のことながら常に問い直されることになり、こんな自分が沖縄についてのビデオを制作する資格があるのか、と何回も中断を考えることもありました。そうした弱気になる自分を叱責したのは、取材した沖龍の人たちが共に持っていると私が感じた「屈しない心」でした。状況の移り変り、運動の高揚、低迷など外的条件の変化にもかかわらず、自ら思うところを追い求める心のあり様。そんな「屈しない心」をどれだけ伝えられるものとなっているのか心もとないのですが、このビデオが沖縄の問題を自分のこととして捉え返すための一助となり、反安保、非武装、不戦の運働の活性化に少しでも役立てば幸いです。
(つぼい たかよし・ビデオ作家) |
