553. ハワード・ジンさん、1月27日に逝去。87歳。(2010/01/30掲載)
アメリカの反戦運動の活動家の歴史家、ハワード・ジン(Howard
Zinn, August 24, 1922 〜 January 27, 2010)さんが、2010年1月27日、米カリフォルニア州サンタモニカで水泳中、心臓発作で逝去されました。87歳でした。(左は昨年12月の写真)
ハワード・ジンさんは、あまりにも述べることが多すぎます。ベ平連の運動と思想に与えたアメリカ人としては、故デイヴ・デリンジャーさんとともに、最大の影響を持った人物でした。1966年6月の、北海道から沖縄までの連続縦断講演旅行や、66年夏の東京での「ベトナムに平和を!日米市民会議」、そして1990年5月、彼自身の作品の劇『エマ』(民芸公演、米倉斉加年演出)に立ち会うなど、日本には何度も来られています。ジンさん、ありがとうございました。
ジンさんに関連しては、多数のサイトがあります。 ジンの本人公的サイト(英文)は、http://howardzinn.org/ です。著書は、邦訳も多数あります。アメリカでの大ベストセラーは、『民衆のアメリカ史――1492年から現代まで(上・下)』(原題:A
People's History of the United States, 富田虎男・平野孝・油井大三郎訳 明石書店,
2005年)ですが、ここでは、ジンさんの自伝的な記録、『アメリカ同時代史』(原題:You Can't Be
Neutral on a Moving Train: a Personal History of Our Times, Beacon Press,
1994 田中和恵・斎藤南子訳 明石書店, 1997年) と、もう一つ、『甦れ独立宣言――アメリカ理想主義の検証』(原書:Declarations
of Independence: Cross-examining American Ideology, Harper Collins,
1990 飯野正子・高村宏子訳 人文書院, 1993年) をお勧めします。
ただし、『アメリカ同時代史』は、タイトルとしては原題の「動く列車の上で中立はいられない」のほうがずっと素晴らしく、また、日本語への翻訳もあまりよくないのが残念ですが、でも、ジンさんの人物と軌跡を明らかにするには一番いい本だと思います。
著書以外に、DVDや動画、スピーチの録音なども多種あり、上述のサイトなどから探すと多数を見ることができるでしょう。
以下には、1966年に、日本を訪問した全国講演旅行についての感想文の全文を紹介しておます。
その時、鶴見良行さん、武藤一羊さんと一緒の写真で、クリックすれば大きくなります(1966年6月6日、撮影=吉川勇一)。
魚と漁師
――日米反戦講演旅行について――
ハワード・ジン
「漁師」という十分ほどの薄気味悪い映画がある。その中では、一人の幸福そうなアメリカの漁師が、のっぺりした、ふとった、勢いのいい魚を海の中からつぎからつぎへと引き上げ、それを、弁当箱からキャンディを取り出して食べながら、海岸にうず高く積み上げる。とうとう食べ物がなくなる。イライラして不機嫌になった漁師は、側にあったサンドイッチの入った紙袋を見つけて、サンドイッチにかぶりつく。すると、針に引っかかってしまう。彼は、気違いのように砂浜に足をふんばるが、引きずり込まれ、身をよじり、もがきながら糸に引かれて海の中に姿を隠してしまう。この映画が観客に与える効果は、構図の突然の逆転である。それは恐ろしくもあるし、健全でもある。つまり、その中では初めて漁師は自分自身を魚の観点から見るようになるからである。
日本に来てみて、アメリカのベトナム政策について日本人と話す時に起こることは、何かこれに似たようなものである。われれが遂行している戦争の残虐さは、時おりわれわれがそれをどんなにはっきりと感じることがあろうとも、なおテレビのスクリーンや新聞に現われる、一種のフィクションとしての性格を持っている。村々の爆撃や、非戦闘員の死亡率や仏教徒反対派の粉砕などを「説明」してくれるのは、いつもはじめは「自由主義者」(バンフリーやゴールドバーク)であったり、「現実主義的な」専門家たち(ロストウ)であったり、政府の頭のいいスポークスマン(ラスクやマクナマラ)であったりする。われわれは、一度も爆撃を受けたことのない国民で、そして爆撃手であった経験しか持たない国民の持つ一種の倦怠感を持って聞き入るのだ。われわれの抗議が燃え上がることがあっても、それは何となく弱々しく迫力がない。
日本人は、加害者及び被害者として死に対するもっと強い連想を持っている。われわれアメリカ人は、本物の戦争でない戦争のロマンスに、いまだにしがみついていて、それは、テリーと海賊だとか、自由世界の擁護だとか、グリーン・ベレーをかぶったリンドン・ジョンソンだとかの話であるが、本当の戦争ではないのだ。日本人にとっては、神風特攻隊員としての自分自身の思い出や、広島や長崎での出来事は、すべての輝きを失っているのだ。日本人は、彼らの経験から必死になってわれわれに語りかけようとしているのだ。
東京である。外には、どしゃぶりの雨が降っていて、明治大学の講堂は満員だった。有名な作家の開高健は、ベトナム前線での四ヵ月の取材旅行について話していた。その大部分を、彼はアメリカの兵士たちと過ごしたのである。三十六歳の開高は、黄褐色の開襟シャツを着て、黄褐色のスエードの靴をはいていた。「ベトナムでは、男に生まれることは不幸のもとと言われています。なぜなら男は、徴兵され殺されるから……。女のほうがいいんです。けれども、いまの南ベトナムでは、女は両側に子供をかかえ、三人目をおなかの中にかかえて、アメリカの爆弾から逃げまわらなければならないのです」。彼のことばでは、彼は実際にそれを目撃した。アメリカ人は、飛行機からはベトコンを見分けることはできない。アメリカの政府が何と言おうともそれは不可能″だから、彼らは目標地帯にいる人間は誰でもあっさり殺すことにしている。
もし、こうした話が、アメリカで行なわれれば、どんな学生集会でも一人か二人は、必ずこの辺で立ち上がって、開高の非難を反駁しようとするに違いない。開高の言った事実を否定するか、あるいはなぜ爆撃が必要かなどを説明しようとして……。日本では、アメリカの政策を擁護するものを見つけようとするのは困難なのだ。
非常に政治的な人物とは言えない開高は、昨年(六五年)、『ニューヨーク・タイムズ』に、アメリカ人への訴えの全ページ広告を出すために、日本中から資金を集めた。その訴えは、次のように言っている。「日本人は、中国本土での十五年間の戦争から苦しい教訓を学んだ。武器だけでは、国民の心と忠誠をつかむには何の役にも立たない……。ベトナムにおけるアメリカの戦争行為は、日本人の共感を失いつつある」。このアピールの最後の部分は、日本の指導的な保守的新聞で長いこと働いてきた、あるジャーナリストによっても確認された。彼は次のように言う。「世論調査だと、日本人の八〇パーセントがアメリカのベトナム政策に反対しています。感情の面では、反対はほとんど一〇〇パーセントに近いと思います」。
このことは、また、北海道から沖縄まで千五百マイルの講演旅行をして、十四大学で日本の学生や教授たちと話し合う中で、ますます確認されていった。京都では、聴衆の中から一人の小児科医が立ち上がった(われわれの通訳である、詩人で、かつてフルブライト留学生としてアメリカに学んだことのある学者は、この発言者の経歴を説明して言った。「松田博士の育児に関する本は、何百万と売れました。彼は、日本のペニジャミン・スポックとして知られています」)。松田氏は言った。「アメリカが理解していないことは、共産主義は低開発国が組織されるための有効な方法の一つであるということである。世界中に起こっているこの現象に対するアメリカの反応は、神経症的だと言わなければならない」。精力的な五十代の人物である松田は付け加えた。「おそらく、アメリカが必要なのは……」。ここで、わが通訳はちょっとためらい、それから松田氏のことばの終りを訳した。「……下剤なのでしょう」。それから訂正して言った。「…‥いや、鎮静剤でしょう」。
山にかこまれた寺院の町、京都で開かれたこの集会には、千人以上の学生、教授、市民がベトナム戦争を討論するために集まっていた。この聖都のある寺院の僧正である九十二歳の人物は次のように言った。「アメリカの言う自由は、自決の原則を踏みにじっています。それは、アメリカの国家目的だけを表現する一種のリベラリズムにほかなりません」。頭をまるめた一人の禅僧は、黒い衣と白いスカーフを巻いていたが、彼は次のように述べた。「仏教には、不殺生という大原則があります。大量殺人はしてはならないのです。そして、この簡単なスローガンが、日本の仏教徒と南北ベトナムの仏教徒とを結びつけています。そして、この原則はアメリカにも持ち込まれなければならないでしょう」。
また、ある若い天文学の教授が、感情こめて言ったのも京都のことであった。「子供のころ、私はアメリカの戦闘機の機銃掃射を受けました。そのとき、引き金を引いているのも人間なのだということを考えて、ショックを受けたことがあります。そのとき、その男にこう言ってやりたかった。『引き金を引かないでくれ』と。いま世界で引き金を引いている人びとすべてに、私はもう一度それを言わなければならないと思う。お願いだから、引き金を引くなと……」。
日本の大学には、一九三〇年代の日本の侵略に反対して、長く獄中にいた人びとをたくさん見つけることができる。だだっ広い、煙のたちこめた、日本のデトロイトである名古屋で、われわれは新村教授に会った。彼は一九三六年から三七年に、『世界文化』という人文主義的な雑誌を出版して、警察に逮捕された。口数の少ない、白髪の、前こごみになった新村教授はフランス文学の専門家である。釈放されてから彼は、ロマン・ロランやディドロの著作を匿名で翻訳して暮していた。私は、彼の学部にアメリカのベトナム政策を支持する者がどのくらいいるかを尋ねた。学部には、大学院生を含めて六百人いるが、そのうちでアメリカの政策を支持する者は一人もいないだろうと彼は答えた。
われわれが会った日本人にとっては、アメリカの政策は明らかに誤りであり、ジョンソンとジョンソン政府の政策を信ずる者が一人でもいるなどということは、彼らにとっては理解しがたいものに見えるのである。「どんな国も、アメリカのように他国に反革命を輸出することは、許されるべきでない」と、東京の法政大学のある文学の教授は言った。
東北地方の静かな都市、仙台の東北大学で行なわれた四時間の討論の後で、五十人ほどの学生が、討論を続けたいと熱心に希望してわれわれを待っていた。われわれは、ぞろぞろと公園に出かけた。仙台の涼しい暗闇の中で、私は、なぜ日本の五十人の若者たちが真夜中を過ぎてもベトナム戦争を討論するためにじっと残っているのか、それも日本が、アメリカの行動にとっては共犯者の地位を占めているだけなのに、どうしてこのようなことが起こるのかと、私は自問してみた。アメリカが、アルジェリアの反乱軍に対するフランスの弾圧を援助していた時に、アメリカの学生グループが、いったいこのことを考えるために真夜中に公園に集まったことがあるだろうか。それに抗議するために、千人でも集会を開いたことがあるだろうか。旅行の終るまでに、私は解答を見つけたと思う。それは、日本人民が、彼ら自身の最近の歴史について鋭い意識を持っているからなのだ。何度も何度も、いやすべての集会でといってよいが、日本の過去とアメリカの現在に向けられた次のような非難が聞かれた。「君たちは、いまアジアで、かつてわれわれがふるまったようにふるまっている」。
一九三一年の満州侵略からパール・ハーバーに至るまでの日本自身の犯罪について、広範ではっきりした確認が行なわれている。日本の学者たちは、その期間の歴史について多くの研究をかさね、その結果、ベトナムにおけるアメリカの行動は、三〇年代に日本が示したのと同じ特徴を持っていることを見て取っている。ナチスの場合とは違って、日本は議会民主主義を突如として、権威主義的独裁に置きかえたのではなかった。むしろ、外見は議会的制度と見えたものの中に、軍閥の勢力がほとんど目に見えない速度で成長していく過程があったのである。一九三一年に、日本が満州を占領し、三七年に中国本土を攻撃し、一九四〇年に東南アジアに進出した時、日本人はヒットラーのようにあからさまに世界侵略を言いたてたのではなくて、「大東亜共栄圏」を万人の利益のためにアジアに建設するのだと語っていたのである。
私は、この類比について、日本で最も有名な学者たちに尋ねてみた。たとえば、政治学者で、きわめて多才な学究である東京大学の丸山教授である。被は、客員教授としてハーバードにいたことがある。
「相違はいろいろあります」と丸山氏は言った。
「しかし、一つの重要な点がまったく同じだと言えます。つまり、日米両国政府とも、基本的には強国が弱小国の内部に権力の基礎を築こうとする試みが、さまざまの弁護論や、正当化によっておおわれているという事実です。日本とアメリカは共に、さまざまな国難に直面していましたし、いろいろな言い訳けをしました。アメリカは、ベトナム戦争に勝てない理由を中国と北ベトナムのせいにしています。日本は、その失敗を中国人民の頑強な
抵抗に求めないで、イギリスとアメリカの援助に求めました。日本は、東南アジアの人民を解放し、彼らに経済的発展をもたらすことが目的だと宣言しました。ちょうど同じように、アメリカはいま、本質的には軍事行動をベトナムで展開しながら、経済的、社会的改革について語っています」。アメリカの評論家たちは、わが国の外交政策に対する日本人の批判を共産主義者のしわざだとか、あるいはもっと漠然と「左翼」のしわざだとして無視する習慣を持っている。これは、一見気持ちがよいかもしれないが、だがひとたび、世界の圧倒的多数の世論、われわれに同盟している部分での世論でさえも、われわれの左にあるという事実を認めるならば、余りなぐさめにはならない。われわれは、ヨーロッパの王侯たちが、われわれが革命の競技をいたる所に持ち込むのではないかと危惧し始めた時以来、保守的国民になってしまった。われわれの「自由主義者」たちでさえ、世界的水準からすれば保守主義者なのである。丸山教授は言った。「私は自由主義者で、ラディカルではありません。だからこそ、私はアメリカの自由主義者がしていることに懸念を持つのです。私はひどく失望しています」。日本におけるわれわれの仲間や通訳は、若い知識人であった。ジャーナリストが二人、小説家が三人、映画プロデューサーが一人、詩人が一人、哲学者が一人いた。彼らは、昨年、日本の急進的な諸政党の限界を踏み越えて、べ平連と呼ばれる、ベトナム戦争反対グループを結成した人びとである。彼らの代表である小田実は、三十四歳の容貌怪異な小説家で公式の席でもネクタイをすることを拒否している人物である。小田は、北海道大学の学生集会で次のように論じ始めた。「ぼくが、この良心の旅という企画を思いついたのは便所の中でした(笑い)。これは不思議ではないんですね。平和運動はそんな具合に始まるんではないかと思う。人間の一番普通の行動から、最も基本的なものから始まるんだと思います」。
小田は、大部分の日本の知識人たちと同じように、中国についてほ批判的であるが、日本やアメリカに対し批判的であるほど熱心にそうであるわけではない。彼は、中国を新しい社会と見ており、ほかの新興国民が持っている長所も短所も持っている国だと考えているが、アジアの他の国ぐにに対する脅威だとは思っていない。中国は東南アジアを飲み込むことを求めているようには思われないし、長い国境線で接しているビルマとは平和的関係を維持している。カンポジアとの間もそうである。そして、アメリカと比べれば、中国は国境外に一兵たりとても置いていない。日本の知識人は、中国の行動を考えるならば、アメリカの行動はヒステリックであり、ベトナム人民はそのアメリカの行動のために不必要に殺されているのだと考える。
アメリカ合州国は、たえず、自由な繁栄したアジアがその目的だと言っているが、ベトナム人民を含めたアジア人自身は、この戦争に熱心などころではなく、アメリカの戦争に実質的な援助を与えている唯一の国(朝鮮とタイ)は、アメリカの占領下にあってアメリカに経済的に依存しており、その国の人民の願いを無視するエリートたちによって支配されている。ところがまた、日本は(大きな反感を呼び起こした一九六〇年の安保条約のもとで)、アメリカ軍隊の基地として役立っており、日本の領土である沖縄はアメリカに奪われ、世界最強の軍事基地にかえられてしまった。(「アメリカの友達に知らせていただきたい」と東京大学の社会学の学生は言った。「日本人の大多数が、アメリカの軍事基地は日本の安全を守っているのではなく、むしろ日本人はそのおかげで危険にさらされていると信じていることを……」)。それにもかかわらず佐藤首相の政府は、アメリカ国務省にたえず相づちを打ち、頭を下げながら日本人民に不安の眼差しを送っている。なぜなら、佐藤氏は人民の感情を知っているからである。
われわれの日本大使であるエドウィン・ライシャワーは、大使になる前は鋭い感覚を持ったアジア問題の学者であった。彼はいま、大使館の中に自分でこしらえた大きな泡のようなものの中にここちよく住んでおり、アメリカの行動に対する日本人の非難を静かに無視している。私は、東京での最後の時間を、ライシャワーとの機関銃のようなやりとりの中で過ごした。私がこの泡を何とかつきやぶろうとしたからである。しかし、ライシャワーの個人的な魅力を別とすれば、それはちょうどリンドン・ジョンソン大統領の記者会見や、マクナマラの状況説明を聞くようなものであった。
一九五四年には、ライシャワーは違った考えを持っていた。そのとき、彼はハーバードの日本問題専門家として次のように書いたものだ。「新しいアジア政策募集中」と。この論文の中で彼は、アメリカに援助されたフランスのべトミン弾圧を「現状を維持しようとする政策の弱点を示す警告的な一例」と呼んだのである。彼は、共産主義者がなぜ力を得ているかということの主要の理由を「思想の分野」に見出し、共産主義者が勢力を増しているのは、「彼らが農民のためにきわめて必要な土地改革を行なっているからである」と考えていた。彼はアメリカが「戦後の初期にフランスを説得して、インドシナにおける彼らの維持しがたい立場を放棄するようにさせる先見の明と勇気を持つべきであった」と語ったのである。そして、彼はまた共産主義をくい止めることに、大きく息をしている政策は「われわれのアジア問題の危険な単純化である」と論じた。彼の著書の中でライシャワーはアメリカの政策決定者が「気違いじみた主情主義」と「危険な硬直性」に陥っていると非難した。しかし、いまや彼が大使なのである。
日本はいまや悩みの種である。なぜならば日本は戦争直後のアメリカの庇護のもとで、一九四七年の憲法に次のような宣言を書き込んだからである。「……日本国民は……政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し……」。そして憲法第九条は、アメリカがベトナムでやっている行為に対する暗黙の非難を含んでいる。「……日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。それは、殺すなかれという聖書のお教えによって教育された子供が、父親が煙をはく銃を持って殺人現場から帰って来るのを目撃するという、昔からの物語りの現代版である。
日本人は、われわれに話しかけたく思っている。しかし、われわれは聞こうとしない。彼らは、同時に魚であり、漁師である立場に置かれたことがある。われわれアメリカ人は釣り針に引っかかってもがき、負けたことが一度もない。われわれは、広島を持たないし、盲人と不具者の年寄りも持たないし、長く監獄につながれたために、いまでも頻のこけている教授をも持たない。そして、多くの機会にわれわれが漁師であったのに対して、われわれは日本人のように一度も、自分自身の行為を認め、頭をたれ謝罪し、平和な生活を約束したという経験がないのだ。ことばを換えて言えば、われわれは一度も悪事をとがめられたことがないのである。
(米『ランパーツ』誌66年12月号、翻訳は吉川勇一、「世界平和運動資料」67年7月号に掲載。)
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