523. 小中陽太郎さんの新著『市民たちの青春――小田実と歩いた世界』出版 
   (付)この本の中の事実の誤りについての正誤表)
 (2008/12/09掲載 ) 

 小中陽太郎さんの新著が出版されました。『市民たちの青春――小田実と歩いた世界』(講談社、1,500円+税)です。内容は以下のとおりです。

プロローグ
  生まれ

第1章 出会い
   夜明けの名古屋駅
   流木の茶毘
   秘密結婚
   『しょうちゅうとゴム』のオーラ

第2章 前夜
   『夢であいましょう』から『鎖国』
   日仏合作ドラマ
   旅と失業
   赤坂
   結婚

第3章 べ平連:
   べ平連人脈
   べ平連誕生
   ティーチイン
   吉川登場
   「ニューヨークタイムス」の意見広告
   フォークゲリラ
   ベ平連群像

第4章 脱走兵
   イントレビッドの4人 脱走兵発端
   JATEC かくまうことと出すことと
   脱走兵援助でもっとも辣腕だったのは、
       山口健二だった
   スパイJ
   麻布少年団
   ラストタンゴ・イン・パリ
   小田の手紙
   海坊主
   日本赤軍
   「イマジン」に出会う旅もある

第5章 ベトナム
   闇夜の飛行場の出現
   平和委員会
   ハロー・ホンコン

第6章 人間小田・
   小田の家、桃谷と鶴橋
   夕顔
   ヨット・ウーマン
   小田好みの女 君の名は
   小田の悲劇
   代ゼミの教え子
   小田と全共闘
   加害者の自覚
   小田の英語
   海外に出ること
   小田の金言
   小田とワイン

第7章 冷え物
   『冷え物』論争
   和平仮調印

第8 章韓国へ
   金大中
   金芝河
   ハンスト
   アンゴラ
   玄順恵

第9章 別れ
   都知事選をめぐる決闘と別れ

第10章 震災と死
   震災
   最後の旅
   最後の晩餐
   葬儀と市民運動の今後
   小田の死生観
   文学の彼方に

エピローグ

 小田実さんが亡くなられて1年半、出るべくして出た本ではありますが、残念ながら、ベ平連に関する記述の内容に事実の誤認、誤記、時間的な前後関係の混乱による誤記など、事実の誤りが多数あります。このまま引用などされるとまずいと思いますので、本サイトの管理人、吉川勇一が これまでに気づいた点のみを以下に一覧にしておきますので、ご注意ください。誤りとは言えないが、不明の記述部分も含んでいます し、また、一部ですが、事実問題というよりは評価や判断に多少関わることも含んでいます。)
 なお、この一覧についての誤りに気づかれた方や、そこにない誤りなどに気づかれた方はご一報ください。 筆者も、例えば小田さんの女性関係について、小中さんほどよく知っているわけではないので、仮にその部分の叙述に誤りがあったとしても指摘はできません。以下は、当然のことながら、知っている範囲内に限った訂正です。

小中さんの新著の「正誤表」    (文責:吉川勇一)  掲載は12月10日ですが、その後、これを読んだ何人かの方から、まだ追加があるというお知らせや、正確にはこうだというご注意もあり、追加や補正したところがあります。そこには赤字で(追加) あるいは(補正)と入れてあります。

ページ 誤 り 訂 正 コ メ ン ト

6

15〜16

1965年3月、アメリカ軍がベトナムのダナンに上陸したことに抗議して

1965年2月、アメリカ軍が北ベトナム爆撃を開始したことに抗議して

 米海兵隊のダナン上陸に抗議もしましたが、それよりも2月7日に開始された北ベトナムに対する爆撃開始への抗議がもっと強い動機だったはずです。

8

9

多数の参加者と警察の黙認と

「警察の黙認」削除

ベ平連のフランスデモは必ずしも警察が黙認したためではなく、阻止したくても、あまりにも参加者が多かったため、事実上できなかったと言うほうが正しいと思います。

8

13

デモ隊は、赤坂見附の坂本公園からアメリカ大使館の前を通り

デモ隊は、赤坂見附の清水谷公園からアメリカ大使館の前を通り

「坂本町公園 」は、赤坂見附ではなく日本橋にあります。そこを出発点としたデモもいくつかやりましたが、それは「清水谷公園」が使えなくなったベ平連運動の後期になってからのことで、大部分の出発点は 「清水谷公園」でした。それに、「坂本町公園」からアメリカ大使館を通って新橋へ行くというデモコースは 距離が長すぎて、普通は通りません。ただ1回だけ、ベ平連の最後の定例デモ(1973年10月6日)は、「阪本町公園」→銀座→米大使館→「日比谷公園」というコースをとりましたが。
   また、渋谷の「宮下公園」を出発地として使うことも、後期には何度もありました。
   なお、この記述は前ページからの青山通りでのフランスデモの叙述に続いて書かれており、その「ヤマ場」のようにも読めるのですが、ここは別のデモ(定例デモ)の話に変わっています。

9

11

小田が出てくる前の、いや、ベ平連が市民権を得る前のぼくたちの議論の大半は、

 この時期が不分明です。ベ平連が市民権を得る前の、しかしベ平連での議論だとすれば、当てはまらないでしょう。それ以前とすれば、ベ平連での議論ではなく、「ぼくたち」が、どの集団を指すのか、また、どこでの議論かがはっきりしません。

12

5

あるときは東大教授をやめたばかりの政治思想史の丸山眞男も来て立った。

削除

 丸山眞男さんが、「中年ベ平連」の新聞売り行動に参加したことはありません。一度だけ、数寄屋橋公園でカンパ募金に立たれたことはありましたが、それは「中年ベ平連」の行動ではなく、ベトナムに医薬品を送るための「平和の船」派遣のためのベ平連としてのカンパ活動のとき(1967年10月15日)でした。 このときは、小田実さん、久野収さん、鶴見良行さん、そして武藤一羊さん一家、小中陽太郎さん一家も街頭募金に参加しています。(出典:『ベ平連ニュース』11月1日号)

13

14

第6回全国協議会(六全協)で、宮本顕治たち国際派が登場、

宮本顕治たち国際派が主流を占め、

 国際派が形成され、登場するのはもっと早い1950年の時期であり、六全協では、それが主流となったのでした。

14

1

安保闘争前後に離党したり除名されたりした。

1960年代半ばに離党したり、除名されたりした。

 安保闘争は1960年であって、武藤一羊さんも吉川も、その時期には離党していませんし、除名もされていません。されるのは1965年以降のことです。

15

3

それに赤線が入ると革マル派。

それに赤線と「Z」の文字が入ると革マル派。(2009/02/16 訂正)

 革マル派のヘルメットは、白に赤線1本 と「Z」の文字が入っていました。 (参考 → http://marukyo.cosm.co.jp/MET/index.html  )

15

9

そして「安保条約の改定に反対する六〇年安保」が来る。

それより前のことだが、「安保条約の改定に反対する六〇年安保」があった。

 「そして」で結ばれていて、それまでの記述のベ平連や新左翼の行動に続く時期のように受け取れますが、六〇年安保当時は、ベ平連も反戦青年委員会もまだ誕生しておらず、時間的にはそれ以前の話です。

16

12

吉本隆明の『自立の思想的拠点』は多くの学生の教科書となった。

吉本隆明の『擬制の終焉』は……

 『自立の思想的拠点』も読まれましたが、「教科書」のようにされたと挙げるのなら、『擬制の終焉』(1962年)のほうが適当でしょう。(補正)

17

12

敗戦の直前45年3月、小学校6年のときに受けた大阪空襲の体験であった。

敗戦の直前45年8月14日、中学校1年のときに受けた……

 3月13〜14日にも、初めての大規模な大阪空襲があり、多数の死者を出してい ますが、小田さんがこだわり、よく指摘しており、『難死の思想』で言及しているのは、敗戦前日の8月14日に行なわれた150機のB29による大空襲(犠牲者700〜800名ほど)のことです。とすると、小田さんは同年春、国民学校(現在の小学校)を卒業しており、8月の敗戦当時は中学1年生でした。

18

13

そこに起こるのが、ベトナムへのアメリカ地上軍の直接介入である。

そこに起こるのが、北ベトナムに対するアメリカ空軍の爆撃である。

 6ページのところに書いたとおり、北爆への抗議のほうが、動機としては強かったと思います。

19

2

そしてアメリカでは徴兵制がしかれて、

当時、アメリカは徴兵制をとっており、学生たちも徴兵カードを持たされていた。

 アメリカの選抜徴兵法はすでに1948年に成立しているものであって、18歳 〜26歳の男性に連邦選抜徴兵登録庁への徴兵登録を要求し、19歳〜26歳の男性の被徴兵者に21ヵ月の兵役と5年間の予備役を義務付けていました。また、1951年の「一般的軍事訓練徴兵法」により、18歳 〜26歳の男性に連邦選抜徴兵登録庁への徴兵登録が要求され、18歳6月〜26歳の男性の被徴兵者に24ヵ月の兵役が義務付けられ、5年間の予備役を義務付けられていました。

19

6

おりしもパリでは「五月革命」(1968年)などの若者の氾濫が……

 

 年などは誤りではないのですが、「おりしも」とか「そして」で結ばれているので、時間的前後関係が誤解される恐れがありあます。このページの記述はかなり長期にわたる時期を前後して書かれているのです。

63

3

鶴見の「思想の科学」から、いいだもも、武藤一羊ら共産党をやめた平和運動家が加わった。

「武藤一羊」を削除。

 いいだももさんは「思想の科学」のメンバーでしたが、武藤一羊さんはそうではありませんでした。

64

1

法学者の高畠通敏

政治学者の高畠通敏

 高畠さんは立教大学法学部の教授ではありましたが、法学者ではなく、政治学者。

65

7

戦時中はジャカルタで暗号の解読に当たる。

戦時中は海軍嘱託としてジャカルタ在勤武官府に勤め、米軍放送の聴取などの仕事をさせられ 、一部暗号の解読などもあった。

 鶴見俊輔さんは、ジャカルタで米軍の英語の放送を聴取し、それを翻訳、現地の海軍当局に提出する仕事をさせられましたが、 その一部には、放送の中に含まれる暗号の解読のような仕事もあったとのことです。(出典:鶴見俊輔『戦争がくれた字引き』1976年版『著作集 』第5巻 469ページ以降、など)

65

12〜13

反戦喫茶に鶴見が送り込んだ中川文男や京都市議鈴木正穂がいて、鶴見のよきアシスタントをつとめている。

「鈴木正穂」を削除。

 鈴木正穂さんは、岩国の反戦喫茶「ほびっと」の設立、その後の支援に深くかかわり、岩国にも何度も行っていますが、中川さんのように岩国常駐 者としては派遣されませんでした。もっぱら、京都での支援活動です。また、評価にかかわることになりますが、「鶴見のよきアシスタントをつとめている」という 現在形の叙述はあたらないと思います。

70

4

「吾等青年、平和と幸せもとめ」

「われら青年、平和と幸(さち)求め」

 

70

6

「南部青年行動隊」という軍歌みたいな歌

「民族独立行動隊」という……

 この歌の歌詞の中に「決起せよ南部(祖国)の労働者」という表現はありますが、歌のタイトルは「民族独立行動隊」。【作詞】山岸一章、【作曲】岡田和夫。

70

13

一番大きな対立が徳田球一らの所感派で、……

 「一番大きな対立」とは、どことどことの対立なのか、また次行の「新しいのは」という記述も不分明。「ベ平連に入ってきた共産党除名組といってもいろいろあって、元所感派に属していたものではいいだもも、武藤たち、神山派だったものでは栗原幸夫……」などというほうが正確でしょう。

74

10

オグルビーという劇作家が

カール・オグルズビーという劇作家が

 

74

11

宮澤が顔を真っ赤にして「君は何ですか。これは排外主義ですか」といきりたった。

……「まことに失礼ですが、どういうわけでこの特定の一人だけ意見をお言わせになるのですか。それはこの会の、私どもの聞かされた趣旨と異なっています。たいへん無礼ですけれども、異なっていますから申し上げます。一種の拝外癖ですか、これは。外人崇拝ですか。」

 少なくとも「排外主義」は「拝外主義」に直さないと宮澤喜一さんの発言趣旨は違ったものになってしまいます。(出典:『文芸』1965年9月増刊号「ヴェトナム問題緊急特集」87ページ)

76

8

その後失踪した久保圭之介の後を襲って

その後、映画製作にかかるため辞任を希望した久保圭之介の後を継いで、

 ベ平連の初代事務局長の久保圭之介さんは、失踪はしていません。本業の映画プロデューサーの仕事を放り出して、それまでの『NYタイムズ』紙への反戦意見広告運動に開高健さんとともに集中したため、生活が困難となり、新たな映画製作にかかわらざるを得なくな って、事務局長の辞退を強く要望し、他の人びとも、それを認めたのでした。

76

10〜11

朝鮮戦争下、全学連に加わり、

朝鮮戦争下、学生運動に加わり、

 「全学連」は、学生自治会の連合体であって、個人単位で加わるものではありませんでした。形式的にいえば、東大の学生は、全員が入学とともに、自動的に全学連に加盟していたことになります。

76

11

ポポロ事件(ポポロ座公演に私服警官が入り、……

ぽポロ事件(劇団ポポロの公演に私服警官が……

 この事件の舞台となった学生の演劇サークルの名称は「劇団ポポロ」が正確。

76

13

その頃逮捕。小田はよく「牢屋で一羊はロシア語をマスターし、吉川は禿げた」と冷やかした。

その頃初めて逮捕。武藤や吉川は、その後、1953年にも別の事件で逮捕され、小菅に80日ほど拘禁されるが、そのときのことを、小田はよく「牢屋で……

 吉川が初めて逮捕されるのは、ポポロ事件(1952年2月)のあと、1952年の4月末のことですが、そのときは3日ほどで釈放され、禿げ始めてはいません。禿げだすのは、別の「全学連スパイ拘禁事件」で逮捕、起訴される1953年3月〜5月のときのこと。小中さんはこれを混同しています。

77

2

中国育ちで北京放送のアナウンサーだった裕子と愛し合うが、

中国育ちで、戦後、日本人として一番最初に北京大学に入学し、結核を患って帰国した祐子と愛し合うが

 祐子(「裕子 」ではない)は、北京放送のアナウンサーはしていません。北京大学在学中に肺結核が悪化し、中国では治療が不可能なため、大学を中退して帰国、仙台の療養所で治療、その後好転して上京、畑中政春さんや阿部行蔵さんらが代表する「日本平和連絡会」の事務局に勤めていました。

77

4

吉川は家を改造しエレベーターをつけ、

吉川は家の階段に電動昇降機をつけ、

 エレベーターなど、高価でつけられませんでしたし、面積的にも不可能でした。多くの元ベ平連の仲間たちのカンパを得て、階段にレールをつけ、電動昇降機(椅子がレールに沿ってそれまでのままの階段を上下する)を付けることができました。

79

9〜11

小田が、アメリカではやっている反戦バッジを作ろうと言い出し、ぼくは和田誠にたのんでしゃれたバッジを作ってもらった。

 鶴見俊輔・吉岡忍共著『脱走の話』(京都・SURE刊)のなかでは、吉岡忍さんが、この「殺すなバッジ」をつくることを思いついたのは自分であって、和田誠さんの 銀座の事務所へ一人で頼みに行ったと、具体的に話しています。(同書22〜23ページ) どちらが正しいのかは不明ですが。

82

4

大木聖子

大木晴子

 

83

7

「キリスト教新聞」の創立者で、

「キリスト新聞」の創立者で、

 武藤富男さんが1946年4月に創刊するのは「キリスト新聞」。

83

10〜11

現在アメリカの大学で平和運動を講じつつ、国内でも民衆の学習機関「パルク」で教育と運動を続けている。

数年前には、アメリカのニューヨーク州立大学で講座を持っていたが、現在では、国内で、研究・教育機関「ピープルズ・プラン研究所」を主宰して活動を続け、また海外の民衆運動との連帯・提携に努力している。

 武藤さんは、毎年春、短期集中講座をもっていたアメリカでの講義は数年前にやめています。また、「パルク」は、鶴見良行さんや北沢洋子さんらとともに創立に際しての中心にいたのですが、その後中心からは外れており、現在は「ピープルズ・プラン研究所」がもっぱら活動の舞台となっています。

85

15

石崎昭哲は、陸軍士官学校出、

東京以外では、九州の石崎昭哲は、海軍兵学校出、(敗戦後)九大中退、パチンコのプロ。九大のファントム墜落のあとは、福岡の箱崎で町の印刷屋を続けながら福岡べ平連を支え、……

 石崎さんは1928年、山口生まれで、陸士卒ではなく、海軍兵学校出。(出典 :『週刊アンポ』第1号65ページ。左欄の訂正文は黒田光太郎さんとご相談しました。)

85

15

九六のファントム墜落のあと敗戦後は……

九大(九州大学)のファントム墜落事件のあと……このあとは意味不明で、訂正不能。

 ここには、かなりの脱落があると思われます。1968年6月2日、九州大学電算センターに米軍ジェット機ファントムが墜落、大きな抗議行動が起こりましたが、そのことについての記述が落ちたものと思われ、意味不明の文章になっています。

86

3

社会学者の奥野真志は祇園に詳しい。

社会学者の奥野卓司は……

 関西学院大学社会学部教授は、奥野卓司さん。「奥野真志 」は、行司、木村 要之助の本名で別人です。

88

13

ウラジオストックに運行していた定期旅客船「バイカル」

ナホトカに運行していた定期旅客船「バイカル」

 

93

1
(追加)

リチャードは海軍大佐の長男で

リチャードの父親は海軍中佐で

出典:『となりに脱走兵がいた時代』24ページ下段

93

8

停泊中の「ナホトカ号」に行き、

停泊中の「バイカル号」に行き、

88ページにあるように、「バイカル号」が正しい。

94

1

のちエリツィン大統領が「脱走兵はKGBがやった」と得意そうに語ったが、

 エリツィン大統領がそう語ったという「事実」の根拠、出典不明。『産経新聞』1993年1月18日号には、KGB議長アンドロポフ署名入りの秘密文書を入手したが、それには、ベ平連の吉川勇一が、ソ連大使館でKGBと接触し、脱走兵の援助を依頼、などという 記述がある、という記事が載っています。
   ただし、テリー・ホイイットモア著・吉川勇一訳の『兄弟よ俺はもう帰らない』
(第三書館、1993年)の巻末「補遺へのもう一度の追加」(吉川勇一筆)には、「ソ連の国境警備隊、沿岸警備隊は、ソ連政府の入国管理部門でも、ソ連軍でもなくKGBの管轄であって、パスポートなしにソ連領へ脱走兵が入るとすれば、KGBがまずそれを担当するということは至極当たり前のことの筈だ。」という記述があります。

96

5

1968年には、「イントレピッドの四人の会」を結成、

1967年12月には「イントレピッド四人の会」を結成。

 「イントレピッド四人の会」は、1967年12月2日のベ平連第27回定例デモ(清水谷→三宅坂、600名)の後、社会文化会館で「講演と映画の会」が行なわれた際に結成されました。映画『イントレピッドの4人』が上映され、小田実さんと小中陽太郎さんが講演しました。なお、大久保健治さんは当初はおらず、あとから代表格に加わりました。

97

12

非合法時代の共産党細胞となる。

占領下、共産党幹部らが追放され、『赤旗』が発禁になるなどの時期に、共産党に入党する。

 この文章の主語は「社会科学研究会」ではなく、栗原幸夫さんでしょう。とすれば、「共産党細胞になる」という表現はおかしいことになります。
 また、日本共産党は、朝鮮戦争の直前、ひどい弾圧は受けましたが、戦後、非合法化されたことはありません。

98

11

栗原は、JATECを非合法運動にすることには、終始一貫、強く反対した。

 この「非合法運動」の定義が不明なので、誤りとは言えないのですが、米軍や日本警察の目からは完全に秘匿した運動としなければ、脱走兵を匿うことは不可能でした。2行あとの引用のように、普通の市民には広く開かれ、多くが参加できるようなものにしようと努力したという意味ならば、運動の意図としてはその通りだったでしょう。

100

8
(追加)

1967年の暮れごろ、アメリカの脱走兵が日本のキューバ大使館に

1967年4月4日、アメリカの脱走兵が日本のキューバ大使館に

出典:『となりに脱走兵がいた時代』40ページ下段、および同書606ページの年表。

100

12〜14
(追加)

脱走兵はあわせて7人になった。……7人は無事ソ連に着いたが、一人がモスクワのアメリカ大使館に出頭した。

脱走兵はあわせて6人になった。……
(これ以降は、削除、もしくは前面的書き直しが必要。)

出典:『となりに脱走兵がいた時代』63〜64ページ。73〜74ページ。
 ここはかなり混乱しています。
 『となりに脱走兵がいた時代』の73ページには「七人の脱出、そしてひとりが脱落」という見出しがあり、その中の一人がモスクワの米大使館に出頭したことも述べられています。それで小中さんは7人とされ、一人が大使館に出頭と書かれたのではないかと推察しますが、それは、ここでのべられている金鎮洙を含む6人のことではなく、同年6月に日本を脱出するヨーツァイ、サンシヴィエロ、コーツの3人の脱走兵と、同年9月に脱出するフォリス、リプトン、スミス、パラの4人の脱走兵を合わせて書かれれているので計7人となり、モスクワの米大使館に出頭するのは、このうちのコーツだったのです。

101

7

同行したマイヤースは、

同行したジェラルド・メイヤーズは、

 氏名の単純な誤記。

102

1

小田や鶴見の歌う「インターナショナル」を

 これは誤りとは言えないのですが、小田さんや鶴見さんは「インターナショナル」を歌うことは あまりなかったのではと思います。鶴見さんは、この歌は好みではないが、他の人に和して歌ったことはあったと言われています。
 小田さんの『「ベ平連」・回顧録でない回顧』(第三書館、1995年)の340ページには、1968年夏の京都での「反戦と変革の国際会議」の終了時に、予定にはなかった「インターナショナル」の合唱が起こった際、「鶴見氏自身がどうしていたか記憶にないが、ガンコに、そしてブゼンとして坐ったままでいたのはいたのは、吉川勇一氏と私だった」というエピソードが書かれています。
(補正)

102

3

なおこのとき、メイヤーとスパイと思われるジョンソンとは、

なおこのとき、メイヤーズとスパイと思われるジョンソンとは

 前ページに出てくる「マイヤース」と同一人で、正しくは「メイヤーズ」です。

102

 

8
(追加)

 

4人の19歳の少年兵が脱走

4人の若い兵士(うち2人は19歳、2人は20歳)が脱走

 イントレピッドの4人のうち、バリラとアンダーソンは20歳でした。(出典:『ベ平連ニュース』1967年12月号、縮刷合本 94〜95ページ)

103

13

関谷滋は坂元良江と聞き書きをとり、『となりに脱走兵がいた時代』をまとめた。

関谷滋は聞き書きをとり、坂元良江とともに『となりに脱走兵がいた時代』をまとめた。

 この本は、関谷さんと坂元さんが編集した大作ですが、聞き書きの作業に当たったのは関谷さんでした。

104

1〜2

しかしテック本部は厳然と存在し続けたこと、彼らはいまもじっと身をひそめていることも言っておきたい。

削除

 「厳然と存在し続けた」というのは「今も」というのであれば、事実ではありません。今は存在していません。また、「いまもじっと身をひそめている」というのも、全員が表立って、自分がそうだったなどと名乗ってはいない、という意味ならば、「身をひそめて」と言えるかもしれませんが、そのグループは存在していません。『となりに脱走兵がいた時代』編集当時は、何度か集まる機会はあったようですが。

104

5

ロウ(来栖)は、フランスで医学をまなび、医師となり、

ロウ(来栖)は、その後メキシコで医学を学び、日高六郎もパリ郊外の私邸に招くなどして、医学の勉強を応援した。(補正)

  『となりに脱走兵がいた時代』に載っている永川玲二「広い場所へ」には、永川さんが来栖にメキシコで出会い、そこで医学(の教養課程)を勉強しているという話が出ています。(同書308ページ)(補正)

106

8

ベトナム・ソンミ村では、米兵による大虐殺が発生し、

わかったのはずっと後のことだが、この頃、ベトナム・ソンミ村では、米兵による大虐殺が発生しており、

 ソンミ事件が起こったのは1968年3月18日のこと でしたが、それが暴露され、一般に知られるようになるのは1969年11月のことであり、当時はわかっていませんでした。

106

14

以来消息はない。

昨年11月17日に、東京で開かれた集会「市民と国境・『イントレピッドの4人』から40年」には、スウェーデンに今もいるりチャード・ベイリーとマイケル・ リンドナーからの熱いメッセージが送られてきている。

 昨07年の秋、イントレピッドの4人の脱走以後40年を記念して東京で集会が開かれまし たが、それには、今もスウェーデンにいるリチャード・ベイリーとマイケル・リンドナーからからのメッセージが寄せられており、消息はわかっています。この二つのメッセージは「市民の意見30の会・東京」が発行している『市民の意見』のaB106(2008年2月号)に、集会の報告とともに全文が掲載されています。

108

10〜11

高橋はそのあいまいな手紙を真に受け、立教大学に辞表を出してイタリアに旅立った。

高橋は、小田の帰国を待って、改めて小田に詳しい説明を求め、脱走兵の国外脱出のための道を新たに開くには行く必要があると決意し、立教大学に辞表を出してイタリアに旅立った。

 ここの記述およびそれに続く文章には、かなり小中さんの記憶違い、あるいは誤解があるようです。
  「手紙」は正確に言えば、エアログラムでした。
  高橋さんは小田さんの「あいまいな手紙を真に受け」てすぐ旅立ったのではありませんでした。小田さんの帰国後、小田さんを含めて相談したうえで、イタリア行きを決めたのが事実です。この相談には、吉川も同席していましたし、109ページ12行にある「ベ平連 Vice President」という名刺を作ったのは、その席での小田さんの思い付きでした。 そのことは、高橋さんの著書『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた……』
(作品社)の33〜38ページに具体的に書かれています。小田さんは、高橋さんがヨーロッパに行くことについては、事前に承知し、相談に乗っているのです。

110

6〜8

ついで偽造パスポート職人にたどりつく。/そういう人種は存在するだろう。それはいい。

 第二次大戦中の対独レジスタンス闘争のなかでパスポートの偽造などの技術を行使していた活動家にたどりつく。

 「偽造パスポート職人」あるいは「そういう人種」などと表現すると、それを職業として生きている裏世界の技術屋のように受け取れますが、そうではありませんでした。

111 10
(追加)
かくまったキャリコット かくまったキャリコート  単純な氏名の誤記。

111

13

小田もそんなことは決して容認しなかったと思う。

削除。

 小田さんは、このパスポート偽造作戦を事前に知っていました。積極的に賛同したかどうかははっきりしませんが、少なくとも反対はしていなかったと思います。

111

14

前述の看護兵フィリップ・ロウ(来栖)

前述の看護兵フィリップ・ロウ(ペンネーム。本名は公表されていない。 ジャテックでの呼び名は来栖)。

 日本名「来栖」と次に出てくる「神田」とは、どちらも本名が公表されていません。

112

4

実際小田ほど合法にこだわった男はいない。決して法を犯さなかった。座り込みさえしない。

小田は、あまり非暴力直接行動には参加しなかった。デモで座り込みには参加しなかったが、 しかし、フランス・デモなどは歓迎し、彼も手をつないで歩いた。

 フランス・デモも警察当局は禁止しており、デモの許可条件にもそれをしてはならないと明記されています。やれば、 座り込みと同様、都条例違反、道路交通法違反になる形式ではありましたが、小田さんはそれに反対はせず、歓迎していました。

112

6〜7

それは、武藤一羊が発見したのだが、日米安保条約の日米地位協定において、……

あとになって、ベ平連の弁護士、角南俊輔が調べてわかったのだが、日米安保条約の……

 最初、イントレピッドの4人の脱走兵を受け入れたとき、ベ平連のメンバーは、この行動が、犯人隠匿、あるいは蜜出国幇助などの違法行為に当たり、逮捕などの危険性もあるのではないか、と予想しました。この点は、91ページで、小中さん自身が「援助する日本人も逮捕されるのではなかろうか」と書いておられるとおりです。しかし、仮に違法であっても脱走兵は匿うべきだと覚悟したのでした。
  でも、このあと、小中さんが説明している通り、脱走米兵の日本脱出は、出入国管理令などの適用の埒外であって、違法ではないことが判明します。
 小中さんは、そのことを調べてきたのは、武藤一羊さんだと書かれていますが、それは新しい説です。これまでのところでは、二つの説があり、一つは、弁護士の角南俊輔さん とするものでした。
(出典:鶴見俊輔・吉岡忍『脱走の話』15〜16ページ 、『となりに脱走兵がいた時代』25ページ)
  もう一つは石田雄『一身にして二生、一人にして両身』(岩波書店 2006年)の「脱走兵支援組織」という項(166〜168ページ)に、著者のきわめて明確な記憶が次のように語
 られています。
  ……六七年一〇月二八日午後おそく、鶴見良行から私の研究室に電話があって、いま脱走兵が来て保護しているところだから相談にのって ほしいという話だった。私はまず法的問題を検討した上で、彼が脱走兵と共にいるアパートを訪ねる約束をした。早速信頼できる友人の共産党系法学者の意見 をきいた。その意見では、日本の現行法上、脱走兵をかくまうことには全く違法性がないとのことであった。 ただその法学者は脱走兵がスパイかもしれないから気を付けた方がよいと注意してくれた。組織防衛に敏感な共産党らしい考え方だと私は感じた。この情報をもって 私は東大のすぐ近くのアパートに鶴見と脱走兵がいるところに訪ねていって、その後どうするかを話し合った。たまたま私の家は、家族構成からも、家の構造から しても脱走兵を預かることは不可能だったので、その後どのような経緯で国外に脱出することに成功したかを知ることはなかった。……(以下略)
(補正)〈再度補正)

112

9〜10

米兵は罪を犯しても日本の警察は逮捕できない。

米兵が罪を犯し、日本の警察が逮捕しても、身柄は米軍に引き渡さねばならず、米兵が「公務中」であった場合は、日本側に裁判権もない。

 日本の警察は、犯罪を犯す米兵を逮捕することはできます。現行犯の場合などはもちろんです。ただし、逮捕しても、要請があれば米軍に身柄を引き渡さねばならず、また、米兵が軍の「公務中」であれば、日本側に裁判権もありません。
  脱走兵の場合、米軍は、日本の警察に脱走兵の捜索、身柄の確保(つまり逮捕)と、身柄の米軍への引渡しを要請できます。その場合、逮捕は日本警察側の義務になります。ですから、現に、ベ平連に匿われていた最中に、日本の警察に逮捕された米兵は、多数いました。すでに出てきたジェラルド・メイヤーズの場合もそれに当たります。

112

12
(追加)

(AWOL,without official leave 無許可離隊)

(AWOL,Absence Without Leave 無許可離隊)

出典:『となりに脱走兵がいた時代』163ページ下段、および333ページ下段、『脱走兵通信.9 6〜7ページ 縮刷合本 726ページ

113

1

そんなことを当時のベ平連が承認するわけはない。すくなくとも小田とぼくは承認しない。

そんなことを、すくなくともぼくは承認しない。

 当時のベ平連が、全体としてこの問題を広く討議し、態度を決めたことはありませんでした。しかし、その中心部分にいたメンバーやJATECの中には、この計画を知っていたものが何人かおり、反対は出ませんでした。また、小田さんが承認しなかった、ということもありませんでした。小中さんが反対であること、承認しないことは、今度の著書で明瞭にされましたが。

113

4

しかも当時は大学闘争の渦中だから、

削除

 小中さん自身がこの話を引用された高橋さんの本によると、平井啓之さんが、高橋さんの遅刻を叱ったのは、わだつみ「会の活動のに多くの時間をさいていたころの話」とありますから、「大学闘争の渦中」の頃ではありませんでした。(参照:高橋武智「私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた」94ページの注)

113〜115

p.115の2〜3行

本人はそれでいい。彼はそういう人生を選んだのだから、しかしそれをベ平連公認の活動としてはいただきたくない。

 この部分の小中さんの記述は、時間的なズレが無視されています。
  この「日本赤軍」の項で書かれている、フランスの日高邸問題や、日高さんのヴィザ拒否問題は、ベ平連が1974年に解散して以後の出来事であって、その時期の高橋さんの行動について批判を持っている人は少なくありませんが、しかし、ベ平連として、それを「公認の活動」とする、しない、という問題にはなりません。ベ平連が終了して以後、それぞれのメンバーがどういう政治的立場を選ぶかは、その人のまったく自由で、解散したベ平連が拘束できる性質のものではありません。 ただし、こうして選ばれた各個人の行動をそれぞれの個人が批判する自由はもちろん、あります。

116

3〜4

鶴見俊輔があれほど口をすっぱくして、中にセクトを作ってはならない、秘密を持ってはならないと説き、……最後の最後で、こういう真相をしらなければならないとは、なんというかなしさ。

鶴見俊輔についての叙述を削除

 鶴見さんが、ベ平連内部にセクトを作ってはならないと説いたのはその通りですが、これは、別の文脈で言われていることであって、脱走兵援助の技術的問題について、それを米軍や官憲から秘匿すること、すべては公開できないことは、当然として認めておられました。
  なお、鶴見俊輔さんは、小中さんが問題にしているこの高橋さんの本に「まえがき」を書いており、そこでは「このながい年月の反戦活動の担い手となった人びとは、どういう人か。/その担い手を支えた 思想は、どのような思想か。/それは、担い手となった著者が、この本で自分の言葉で語る。それは、一九六五年にはじまったベ平連の活動が、一九三〇年代のヨーロッパの抵抗運動とどのように結びついたかの物語である。」と結んでいます。批判は 書かれていません。

116

8〜9

アメリカは……公然と弾圧もできないようだった。

アメリカは、脱走兵や在日米軍基地内での反戦活動に対しては公然とひどい弾圧を行ない、また、ベ平連に対しても、岩国の反戦喫茶「ほびっと」や、三沢の同じく「OWL」に対しては、公然と妨害、脅迫を行ない、とくに、「ほびっと」に対しては、米議会、軍、日本警察、マスコミなどを総動員する破壊の陰謀を行なった。

 この弾圧については、例えば、吉川勇一『民衆を信ぜず、民衆を信じる』(第三書館)の中の「第二章」の「自由の危機――権力・ジャーナリズム・市民」や、『東奥日報』 編集委員、斉藤光政さんが2007年に同紙に連載した反戦喫茶「OWL」についての連載記事(その後、『在日米軍最前線 軍事列島日本』新人物往来社 2008年刊 に所収)に詳しく紹介されています。

117

1〜2

高橋が受け取ったという手紙が公安の手に入っていたら、……思うだけでもぞっとする。ベ平連は壊滅していたろう。

 この「高橋が受け取ったという手紙」が108ページにある小田さんが吉川宛に送ったという手紙だとすれば、それがかりに公安の手に入ったとしても、ベ平連「壊滅」にいたることはなかったでしょう。ここの描写は、かなりオーバーです。小田さんのエアログラムは、一読して何も分からないように、わざとあいまいに書かれていたようです。

117

4

彼がたわむれに脅しに使ったおもちゃのピストルでさえ、その後の強制捜査を引き寄せるのだから。

山口文憲が、スパイ、ジョンソンに牽制の意味でおもちゃのピストルを見せたのが、

 ここは101ページの9〜10行で、小中さん自身が書かれているように、山口文憲さんのやった行動で、高橋さんがやったことではありませんでした。ただ、その場所が高橋さんの自宅だったため、 家宅捜査を受けたのでした。

127

12

ぼくたちはキューバ大使館にも脱走兵をかくまってもらった。

脱走兵がキューバ大使館に駆け込み、匿われたこともあった。

 ここの記述は誤り。ベ平連側からキューバ大使館に依頼をしたことはありません。100ページに小中さん自身が書いている記述の方が正しいものです。結局は、キューバ大使館の了承を得て、脱走兵、金鎮洙は、ベ平連が引き取り、スウェーデンへ送り出すことになるのでしたが……。

143

9

小田は、このあと東大の言語学科に入学した。

小田はこのあと、1952年、東大教養学部に入学し、文学部言語学科に進んだ。

 小田さんは、1957年に言語学科を卒業したあと、大学院の人文科学研究科西洋古典学専攻修士課程に入ります。

144

2

『ロンギース』の翻訳で

『ロンギノス』の翻訳で

 153ページの14行に出てくるロンギノスと同じです。

150

13

通訳の深作光貞精華短大学長もとてもついていけず、

通訳の深作光貞京都精華短大教授(当時)もとてもついていけず、

 このサルトルとの集会のときは、深作さんは教授でした。深作さんが学長になるのはその後、1974年のことです。1977年、1980年にも再選、三選されています。なお、同大学はその後短期大学部を廃止し、現在は「京都精華大学」となっています。

152〜153

 

小田が私小説作家でない証拠には、彼の作品にはこれらの女性の影がどこにも見えないことだ。それどころか身近にいる周囲の男もまったく登場しない。

 (このあとに挿入)
 ただし、最後の小説『終らない旅』は例外だったが。

 小中さんも、240ページで触れている本ですが、小田さんの完結した形での最後の小説『終らない旅』は、例外的に、ベ平連にいたような人物が何人か出てきます。かなりデフォルメをされていますが、鶴見俊輔さんを思わせるような「哲学者」も登場します。もっとも、この哲学者は早死にしてしまうことになっていますが……。

154

7

「人生の同伴者」

「人生の同行者」

 小田さんがよく使っていた表現は「人生の同行者」でした。例えば、二人の共著『われ=われの旅』(岩波書店)には、以下のようにあります。
  私が「人生の同行者」と呼ぶつれあいの玄順恵は……
(3ページ)

155

2

正式に入籍したのだから、ヨットの好きな女性のことも書いておかねば不公平だろう。

 確かに、婚姻届は出されたのですが、それは157ページ13行にありますように、小田さんの合意なしの、女性の側からの一方的な届出で、小田さんは了承しませんでした。小田さんはそれに怒り、すぐ取り消しを要求しました。ですから、157ページ12行にあるように「で、小田と結婚してしまった。」というのは、文字通りに読むと誤解を生じます。

156

16

さてここに、アメリカ人反戦運動家のヤン・イークスというヨット乗りが、「ベトナムに医薬品を届ける」という企画を持って、日本人の協力者を募ってきた。

さてここに、アメリカ人反戦運動家のアール・レイノルズ博士(クエーカー教徒、広島在住)が、ヨット「フェニックス号」で二度目のベトナムへの航海を計画しているのだが、ベ平連からクルーを一人出せないだろうか、という話を持ってきた。

  アメリカ人徴兵忌避者、ヤン・イークスさんは、夫人とともに日本で反軍闘争に活躍しましたが、このヨット・クルーズには関係していません。「ヨット乗り」ではありませんでした。
  このクルーズ計画に主に関わったのは広島在住のレイノルズ博士でした。レイノルズさんは、すでに前年、ヨット「フェニックス号」で世界旅行をし、ベトナムも訪問していました。 そして1967年7月のベ平連定例デモの時、2度目の企画に、ベ平連からの参加者を募ったのでした。でした。これが実現して、フェニックス号が2度目の出航を広島からするのは1967年8月23日でした。
 (ヤン・イークスさん夫妻については、鶴見俊輔『ちちははが頼りないとき――イークスのこと』7
6年版著作集第5巻190ページ、本野義雄『「方針転換」と米軍解体運動』『となりに脱走兵がいた時代』の14ページ以降  に詳しく記述されています。)

157

3

そしてある晴れた朝、3人は出航した。(もう一人はアシスタントのアメリカ青年だ)。

そして1967年8月のある晴れた朝、4人(クルーは、船長のボブ・イートン 24歳、ベイル・ネルソン 24歳、ジョン・ブラックストン 18歳と、国府田恭子) は出航した。

 この2度目の航海には、レイノルズ博士は乗らず、船長は、「アメリカ・クエーカー・アクション・グループ」のボブ・イートンさんでした。 ヤン・イークスさんは乗っていません。(出典:『資料・「ベ平連」運動』上巻325ページ以降)

168

12

いまでも友人たちは彼の別荘の忍草に集まっている。

いまでも友人たちは彼が療養生活を送り、最後を迎えた山梨県忍野村の彼のお姉さんの家に集まっている。

 吉田泰三さんが、ここで療養生活を送っているとき、友人たちは、彼を励ますために、春と秋の2度、定例の集まりをこのお姉さんの家で開いていました。吉田さんが 亡くなってからも、彼を偲ぶ集まりを続けようということになり、この春秋の集まりは今でも続いています。今年は吉田さんの13回忌です。

172

4

ハンドマイクを肩に英語で話しかけた。

 小船に装着したスピーカーシステムを使って、英語で話しかけた。

 小田さんが使ったのはアンプを使ったスピーカーシステムでした。このマイクを握っている小田さんの写真もあります。

175

10

ベ平連や小田の言い出した加害者性は、過去のことではなくて、今日ただいま、自分たちはのうのうとして、このカッコつきの平和な日本で高度成長を満喫しているが、それは、ベトナム特需などの経済的利益によってもたらされているのだ、という反省であった。

ベ平連、とくに小田の言い出した被害者→加害者→被害者の論理は、民衆が戦争に駆り出されるような被害者の立場にたたされても、相手国民衆を殺害したりする加害者の立場に立たされることになり、そして最後には、より破滅的な被害を受ける立場に追い込まれるという指摘であった。それまでの日本の平和運動は、もっぱら、第二次世界大戦や原水爆実験などによる被害体験に基づくものだったが、この小田の指摘によって、日本の加害問題についての認識が、運動の中で広く共有されるようになってくる。

 小田さんがこの問題を初めて指摘するのは、1966年、東京で開かれた「ベトナムに平和を!日米市民会議」での基調報告でした。それは、必ずしも、ベトナム特需による経済的利益の問題に限られるものではなく、日米安保体制によって、日本がアメリカのベトナム戦争に組み込まれ、ベトナム人民に敵対させられ、ベトナム人民に対する加害者の立場に立たされている、という認識がありました。
  鶴見俊輔さんが編者の一人になっている『戦後史大事典』
(三省堂)には、「加害者と被害者」という、普通の辞典にはありえないような見出し語がつけられ た項目があり、その項を執筆した鶴見俊輔さんは以下のように書き始めています。
 「ベトナムに平和を!市民連合」の代表小田実が、反戦運動のなかで唱え、一九六五年(昭和四〇)以後大きな影響をもつにいたった区分。(中略)ベ平連代表の小田実のスローガンは、確実に民衆の想像力に火をつけた。(中略)これは日本人が、ベトナム人への加害者としてみずからを見るようになったことのあらわれである。(後略)
 (同事典 106ページ)

175

12〜13

その一番典型的な表れが、吉川が積極的に提唱した三菱重工業に対する一株運動だった。

ベトナム特需など、ベトナム戦争から利益を得ている日本の大企業に対する抗議行動で一番典型的な表れは、小田実が提案した三菱重工業に対する一株運動だった。

 三菱重工に対する反戦一株運動は、1970年9月に開かれた「満州事変のころ生まれた人の会」の講演集会で、小田実さんが提唱したことでした。しかし、小田さんはその直後、体調を崩して入院してしまったため、実際の運動には関われず、吉川や他の若いベ平連メンバーがこの運動を引き受けることになったので、そもそもは、「吉川が積極的に提唱した」ものではありませんでした。やむをえなかったとは言えますが、この運動は「言いだしっぺがやる」というベ平連の原理から外れた例外的な事例となったのでした。(吉川勇一『民衆を信ぜず、民衆を信じる』(第三書館)339ページ参照)

176

7〜9

これは当時の学園闘争に顕著だった「自己否定」がともすればうしろ向きに陥りがちなのに対し、……積極的な「自己肯定」が小田の特徴だった。

 

 時間的関係から言うと、小田さんの1966年の「被害者→加害者→被害者論」がまず提唱され、それが大きな影響を運動全般に与えて、日本の加害者性が強く意識されるようになり、それから1968年〜70年にかけての学園闘争で「内なる東大」とかの「自己否定」論が唱えられるようになるのです。小田さんの理論が、学園闘争の主張に対抗して展開されたのではありません。

177

1〜2

センターに墜落したファントム戦闘機が、根本組という建設業者によって引きおろされ、残骸を、福岡ベ平連の黒田光太郎(のち名古屋大宅教授)らが軽トラックに積んで持ち込んできた。

九州大学の建設中の計算機センターに墜落したファントム戦闘機が、梅熊組という建設業者によって、地上に引きおろされたあと、残骸の一部を福岡べ平連がライトバンに積んで持ち込んできた。当時、教養部学生であった黒田光太郎(のち名古屋大学教授)は大学の誰が引きおろしを命じたか、40年たっても責任を追及しようとしている。

 1968年6月2日、米軍機の九大墜落事件が起こります。学長を先頭にする抗議の全学デモなども含む強い抗議運動がその後連続します。米軍は、墜落機の引渡しを要求しますが、学校側は、学生の強い反対もあり、引渡しを簡単に認めませんでした が、建物の途中に衝突したままになっていた飛行機は、その後下に引きおろされ、長い間そこに置かれたままにされました。それを、1969年夏の大阪での「反戦万博」の始まる直前、福岡ベ平連のグループが密かに大学から運び出し、反戦万博の会場で展示したのでした。(左欄の訂正文は黒田光太郎さんとご相談しました。)

181

12

シンプソン・ハウス

ジム・トンプソンズ・ハウス

 バンコックにある「タイ・シルク商会」の元社長、アメリカ人ジム・トンプソンが住んでいたタイ式住宅。なかに展示されている美術品多数とともに公開されており。観光名地のひとつ。

184

8

「アメリカはベトナムから手を引け」

ベトナムはベトナム人の手に

 ベ平連のスローガンは、小中さんの書かれている通り、三つでしたが、二つ目は、違っています。三つのスローガンは『ベ平連ニュース」32号付録(『ベ平連ニュース合本縮刷版135ページ)に出ていますし、開高健『東京からの忠告』(『資料・「ベ平連」運動』上巻49ページ)、吉川勇一『70年安保と取組むベ平連』(『資料・「ベ平連」運動』中巻28ページ)などにも書かれています。

188

3〜4

品川の高輪プリンスを借りて

品川の新高輪プリンスホテルの大ホールを借りて

 このパーティは1999年2月3日に行なわれ、620人もの人が参加しました。

188

5

売り上げ300万円をベ平連に寄付して死んだ。

売り上げ総額68万5千円を、反戦市民グループ「市民の意見30の会・東京」に寄付して死んだ。

 ベ平連は1974年に解散しているのであって、このパーティの時には存在していません。また、売り上げ300万円はオーバーな表現です。(藤本さんのこととパーティの詳細は吉川勇一『いい人はガンになる』KSS出版 1999年刊 223〜229ページに詳しく出ています。) 

190

10

3月7日、関西から学生たちが上京、

 1971年になって、3月8日、「関西部落研」と称する人びと10人ほどが、神楽坂のベ平連事務所に押しかけてきて、小田実とベ平連とを糾弾した。

 

191

5〜6

事務所にも何回かその学生たちがやってきて、吉川勇一が熱心に対応した。

「関西部落研」が事務所に来たのは71年3月8日の1回だけだったが、事前の通告はなく、「在日朝鮮人だが、ぜひ相談したいことがある」という虚偽の内容の電話に呼び出された吉川が会うことになった。突然始まったベ平連批判の糾弾に吉川はまじめに対応したが、討論はほとんど成立しなかった。

 この小田さんの小説『冷え物』をめぐる出来事の前半の詳細な経過は、『ベ平連ニュース』の臨時増刊号「ベ平連運動と差別の問題およびベ平連運動のあり方について」に出ています。(『ベ平連ニュース合本縮刷版』447〜452ページ。 )
 ただし、実態は、 重いスパナを手の中で回したり、吉川の座る机に太い錐を突き刺したりする脅迫や、まるめた新聞紙で吉川の頭を殴るなどのこともあり、対話はほとんど成立しませんでした。ベ平連事務局内部では このことも報告されましたが、これまで公表されてはいませんでした。しかし、吉川自身が実際に経験したことです。
  その後、小中さんが191〜2ページに書いているようなことが起こりますが、小田さんは、「関西部落研」が要求した『冷え物』を抹殺せよということを断り、予定通り出版するが、しかしその本に、同じ長さの批判文を含めて一つの本として出版したいので、それを書いてもらいたいと逆提案しました。
 ところが、そうしたら、批判者は消えてしまって、まったく対応がありませんでした。小田さんはやむを得ず、知り合いの作家で、部落解放同盟員である土方鉄さんに、この小説に対する評価を書くことを依頼しました。
  こうして、小説『冷え物』は、この小説に対する批判への小田さんの見解を述べた「ある手紙」と題する文章と、土方さんの「『冷え物』への私の批判」という批判文章を含めて、1975年、河出書房新社から単行本として発行されます。

192

6〜7

ベ平連内部の「共労党の党内フラク(分派)化」というややこしい問題

ベ平連内部に「共労党のフラククション活動があるかないか」というややこしい問題

 「フラク」とは「フラクション」の略で、労働組合あるいは他の大衆団体の中で、そのメンバーになっている左翼党員が構成する秘密の協議機関のことです。この機関は、その団体の活動を、党の方針に沿うようにさせるために、策を考え、実行します。「分派」(ある政党の中で、党主流とは異なる見解を持つ党員が作るグループ)のことではありません。日本共産党の中では、大衆団体フラクションは多数ありましたが、分派を作ることは厳禁されていました。
  『冷え物』問題と絡んで出てきた問題は、ベ平連の内部に「共労党」(共産主義労働者党)の党員によるフラクション活動があるのか、ないのかという問題でした。

192

10

いいだもも、白川真澄らの労働運動家は、「

作家のいいだもも、経済学研究者の白川真澄らは、

 

193

3

労働運動に専念した堀田卓など

ベ平連のなかで反自衛隊運動に専念し、のち、会社経営者となる堀田卓(その後会社は倒産するが)など

 

193

4〜5

われわれ共労党ベ平連フラク(分派)は、

「(分派)」を削除。

 理由は、3項前にあります。

199

12

赤坂の清水谷公園や坂下公園からデモに出掛けた。

「や坂下公園」を削除。

 ベ平連の定例デモは、多くは赤坂の清水谷公園を出発点とし、この公園が使えなくなった後期には、日本橋の坂本町公園を用いたこともありました。坂下公園は、もと六本木にあった防衛庁の脇の坂を下ったところにある公園で、防衛庁に対するデモを行なうときなどに1〜2度使ったことがあるだけです。

199

13

最後の打ち上げには警官も来た。

 ベ平連の最後の定例デモには、以前警視庁警備課にいてデモ申請で喧嘩ややりとりをし、ベ平連と顔なじみになっていたが、その後他の部署に移っていた警官も、これが最後かとでも思ったのか、出発点の会場に現れた。

 この本の記述では意味不明です。デモには一度の例外もなく、警官は必ず来て、デモの取締りや嫌がらせ、弾圧などをしました。
 「最後の打ち上げ」というのが、ベ平連のやった最後の定例デモという意味なら、1973年10月6日、坂本町公園→銀座→米大使館(座り込み)→日比谷公園のコースで行なわれたものですが、そのとき、ベ平連の初期〜中期に、デモ申請の警視庁側窓口であった警備課にいて、顔なじみになり、その後配転で他の部署に移っていたある警官が、集会場所に顔を出した、ということがありました。しかし、その警官がデモに参加して歩いたというわけではありません。
(この警官の写真は、『ベ平連ニュース」98号 1973年11月号に出ています。『ベ平連ニュース縮刷合本 639ページ)

217

14〜15

父親は京都府知事候補にもなった共産党系の大物弁護士である。

削除

 有田芳生さんのプログ http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2008/11/post_34f1.html には、次のような記述が出ています。
 
(有田の)父親は京都府知事候補にもなった共産党系の大物弁護士である」には苦笑した。まったくの事実誤認だからだ。

218

12〜15

そこで真っ先に相談したのが……小田本人の意思だったのだ。

 

 この部分の記述はかなり違っているとは思いますが、しかし、事実問題というより、評価に関わる事項ですので、ここでは触れません。

228

4

ベトナムの戦証博物館

ベトナム・ホーチミン市にある戦争証跡博物館

 

228

4

相模原の「戦車を止めた会」が募金して招く計画

相模原の「ただの市民が戦車を止める会」を含め、相模原の労組、反戦グループ、個人らがアドホックの実行委員会を作って募金し、招く計画

 このベトナム代表団招聘は、2004年11月、「ベトナム市民訪日団歓迎相模原実行委員会 」によって実現し、11月24日には、小田実さんの「アジア民衆の共生と連帯を目指して」という講演とともに、ベトナム訪日団歓迎のレセプションなどが行なわれました。 

231

 

3〜4
(09/01/22に追加)
 

慶応義塾大学での講義録『生きる術としての哲学』

『玉砕/Gyokusai』

 

236

8

ベートーベンの交響曲「英雄」が流れた。

ベートーベンのピアノ協奏曲第五番が流れた。

 小田さんは、ピアノ協奏曲第五番が好きで、最後の病室でもよくこれを聞いたそうです。葬儀のときに流されたのもピアノコンチェルトのほうで 「英雄交響曲」ではありません。このピアノ協奏曲第五番は、曲想が壮大であるため「皇帝」という名称で呼ばれることがあるため、小中さんは「英雄」と 呼ばれる交響曲第三番と間違えたのだと思います。とすると、次に続く2文も適当に修正しないとならないでしょう。

 

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