51. . 久野収さん、2月9日逝去。葬儀等についてのおことわり (99/02/11)
すでに、各新聞、テレビなどの報道でご存知でしょうから、詳しいことは省きます。とりあえずのことだけ、お知らせします。9日夜の時点で、話し合われたことは以下のようなことです。久野収さんご自身、そしてご夫人のご希望により、お通夜、葬儀などは行なわれません。久野さんは、死んだあとで集まってくれるよりも、生きていたときの自分の思想や行動を若い人びとがそれぞれの場で生かしてもらいたい、と強く言われていたそうです。
というわけで、新聞には、「葬儀未定」などと報じられましたが、いわゆる葬儀のたぐいはいっさい行なわれませんでした。また、近々に「久野収さんを偲ぶ会」的なものも予定されていません。ただ、市民の意見30の会・東京運動関係者の間では、かなり時間をおいた先に、「久野収さんについての話をする会」といった集まりを開くことが話し合われていますが、それは葬儀とはまったく別の次元のことになります。この件については、具体的な計画がまとまったら、この欄などでお知らせします。
なくなられた9日の昼から夜にかけては、久野さんのごく近い人びとや市民運動の関係者(神戸の川村孝則さん、思想の科学・声なき声の会の鶴見俊輔さん、高畠通敏さん、広告批評の天野祐吉さん、日刊ゲンダイの野田祐次さん、『久野収集』を編集した佐高信さん、市民の意見30の会・東京の吉川勇一ら)、そして、週刊金曜日、岩波、朝日など、マスコミ・出版関係など、約30人ほどの人びとがかけつけましたが、いわゆるお通夜というものはなく、久野さんの蓋をしていないお棺のまえで、ひとしきり、思い出話がかわされました。また、前日の8日には、病院へ、小田実さん、古藤晃さんなどがかけつけておられます。ただ、もうその時は、久野さんの意識はなく、お話はできなかったそうです。(入院は、1月半ば、黄疸で。しかし、いろいろな検査で、かなり健康への負担がおおきかったようです。)(写真は伊東市八幡野の自宅からの出棺。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます。戻るには、上の「戻る」を押してください。)
10日(水)には、火葬のため、午後3時に、伊豆高原のお宅から出棺し、伊東市の川奈斎場で火葬に付されました。約100人の方が参加されました。べ平連関係者では、鶴見俊輔、野田祐次、高畠通敏、小林とみ、吉川勇一、中川六平、古藤晃などの各氏、また、小田実さんからの弔電も披露されました。(写真は川奈斎場で参加者に挨拶する鶴見俊輔氏。写真をクリックすると大きな写真を見ることができます。戻るには、上の「戻る」を押してください。)
なお、マスコミには、次の方々の談話や弔意をあらわした文などが掲載されています。
2月9日夕刊 『朝日』談話―― 小田実、鶴見俊輔
『毎日』談話――小田実「偉大な思想家、同志」、佐高信「私淑しきった師匠」
『東京』談話――佐高信「幅広い平和運動」、鶴見俊輔「窮地の人救う精神」、小田実「現在につなが
る思想」、吉川勇一「べ平連拠り所の一人」
2月10日朝刊 『毎日』 「余禄」(中山千夏さんとの対談などについて)
2月10日夕刊 『朝日』 佐高 信「徹底していた市民の精神――久野収氏を悼む」
石田祐樹「人をつなぐ編集者」
『毎日』 小田実「本源的に考え 生きた思想家――久野収氏を悼む」
(以上、とりあえず、2月11日午前1時、吉川記)