435.10月21日、千葉ベ平連同窓会が開かれました。(06/10/22掲載 )

 10月21日(土)の午後、千葉市で,元「千葉ベ平連」のメンバーによる懇親会(同窓会)が開かれました。会には、物理学者で三里塚救援会でも活躍された渡辺一衛さん(81歳)や、やはり元千葉ベ平連の中心活動家だった故長岡弘芳さんの夫人、奥村水沙子さん、長い間事務局長を務めた佐久間勝彦さんなど、当時の中心メンバー14人が参加しました。(千葉ベ平連のメンバー以外には、東京のベ平連の吉川勇一元事務局長、そして市民運動や三里塚闘争を研究課題としている40代と20代の若い研究者2人がいました。)
 すでに現役を退いた研究者や元新聞記者の人もおれば、今も大学で仕事を続けている人、八ヶ岳の麓で農業に携わる人、地域でさまざまな運動にかかわっている人など、いろいろな経歴や環境を持つ人たちでしたが、みな一致して語ったのは、ベ平連活動をやっていたときの生活が非常に充実したものだったこと、そのとき身に付けたことが、その後の人生にも一貫して基軸になってきていることなどでした。
 ある大学研究者は、「あの時の活動は自分の中では過去のものとはなっていない。東京や他の地方もそうだろうが、千葉のベ平連にも、集まってくる若者たちとともに、良質な大人 たちがいた。その人たちは、自分のそれまでの経験を基にして、若者たちに生き方を教えてくれた。確かに私たちは、世の中を変えたい、変えられるのではないか、と思っていたが、しかし、デモで、前を塞ぐ機動隊を突破さえすれば世の中が変わるなんてもんじゃない、というようなことを、大人たちはいつも教えてくれたと思う。今、自分が大学の教師になって、今の自分が、当時の大人たちのような態度で若者たちに接しているのか否かと、たえず反省している」と語りました。
 当時大学生だった女性は、「千葉ベ平連を作ろういう相談に乗ってもらうため、仲間の一人と一緒に渡辺一衛さんの自宅を訪ねた際、入り口で、渡辺さんの名前ととともに、姓の違う女性の名前(実は夫人の旧姓がついていたのですが)が並べて書いてある表札を見つけ、結婚もしていない男女が同じ部屋に住んでいるなんて!とびっくりして足がすくみ、しばらく戸をたたけなかった」という話しをし、大笑いになりました。30年前はそうだったのですね。
 ある労組活動家は、「労組で仕事をしているときは、すべてが組織、組織。何を決めるにも組織に図って、と型にはまった活動だったが、ベ平連に来ると逆にすべてが自由で、個人の考えがのびのびと出せた。それまでの鬱積していた感情が解き放たれる場だった」と語りました。
 
このほか、大阪城公園で開かれた反戦万博に参加するため、ポンコツの中古のマイクロバスを買って大阪まで繰り込んだ話、千葉ベ平連が、セスナ機をチャーターして飛ばし、空から実際の騒音を出すことによって三里塚空港への反対を訴えた活動や、ベトナムに衣料品を送るための「平和の船」運動への資金集めに、団地を駆け回って廃品回収の活動に努力したことなど、楽しかったり、つらかったりしたかつての運動の思い出が次々と語られたり、面白いエピソードが紹介されて笑ったりと、楽しい会合でした。
 なお、現在、大学の博士課程で市民運動を課題に研究している若い研究者からは、当時の資料に当たって作製した千葉ベ平連の詳しい活動年表が配られたり、また、故長岡弘芳さんのことを描いた岡松和夫の小説「夢の出発」(『群像』掲載、その後、『北京の日』(講談社)に所収)や、それを紹介した荒川洋治の『文芸時評という感想』(四月社、第5回小林秀雄賞)の文のコピーなども 、それを見つけた人から配られました。
 長岡さんを知り、懐かしく思われる方のために、その部分を以下に再録しておきます。また、配られた年表は、いずれ、ベ平連年表にも組み込む予定です。

 
 岡松和夫「夢の出発」(群像)は特殊な社会的領域を対象に活動し、「死の直前まで新しい出発を夢みて、苦しんだ」文筆家長岡弘芳の横顔を描く。この長岡もまた「好きだ」という言葉の宛先を十二分に悩みのなかにひきいれてたたかった人だったことがわかる。小柄だった。やせていた。そんな彼が実直に活動とかかわる様子は胸を打つ。「もっと講義のコマ数を増やしてくれないか、俺はもうたっぷり学生たちを愛し始めている」のだという言葉がやせた、小柄な体から飛び出している。そういう講師はいまの大学にいるのかいないのかの問題でほない。彼の言葉が息をしている。ほかになにもなくても十分、と思える。原爆文献という死者にまつわる地味な仕事の継続で、彼は、見る星の数を増やしたようだ。人のさみしいところ、そしてだいじなところをしっかりおさえた小説だ。
 (荒川洋治『文芸時評という感想』(四月社刊)より。)
 

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