40. 福岡市で6月にシンポジウム「ファントム墜落から30年」開催 (98/09/20)
今年の6月6日、福岡市で「ファントム墜落から30年」と題するシンポジウムが開かれ、当時九州大学で抗議運動を組織した活動家や福岡べ平連のメンバー、市民ら約60名が参加した。その模様を伝えた『西日本新聞』と『毎日新聞』の記事を以下に紹介する。また『科学・社会・人間』の第65号に掲載された黒田光太郎さんの報告を転載する。黒田さんは元福岡べ平連のメンバーで、現在、名古屋大学教授。
『西日本新聞』1998年6月7日号の記事
若者に経験伝え続けよう
シンポには約六十人が参加。大学教官、意思、市民運動家など、現在の立場はさまざまだが、「社会にたいする私たちの責任を考えるべき時期にきているのではないか」との問題提起に対し「社会に対し、直言と提言をするのがわれわれの定め」などの意見が出た。
若者の参加は少なかったが、世話人の一人、黒田光太郎・名古屋大大学院工学研究科教授(四八)は「現在の社会状況をみると、当然かなという感じはする。重要なのは若者が問題意識を持っていまの社会、政治をかんがえてくれるか。私たちの経験を伝えつづけたい」と語った。
『毎日新聞』西部本社版ふくおか面 1998年6月7日号の記事
学生運動の影響 論議
九大構内への米軍機墜落事件と、米軍板付基地(現福岡空港)返還運動を振り返るシンポジウム「ファントム墜落から30年」が6日、東区箱崎の九大国際ホールであった。 事件は1968年6月2日夜、板付基地に着陸しようとしたRF-4Cファントム偵察機が、約4キロ北の九大に建設中だった大型計算機センターに墜落し炎上。学長を先頭に一般市民も巻き込んだ抗議行動が起き、全国的な反戦運動を後押しするきっかけにもなった。
シンポジウムは当時学生や大学院生だった大学教官や医師、弁護士らが企画。学生側と対立した教官OBや、事件を知らない学生など約50人が参加した。平井孝治・立命館大教授の司会によるパネルディスカッションでは、事件を契機とした学生運動から受けた影響などを語り合った。
環境問題に取り組んでいる桂木健次・富山大教授は「現場の人が自ら問題を組み立てて解決して行く手法や、市民や社会とのつながりの大切さを学んだのが糧になっている」とのべた。
参加者からは「昔の学生は、大学に期待があったからこそ行動を起こした。今の学生が社会に無関心なのは、大学を通過点としか考えないから」との指摘や、「過密状態の福岡空港を米軍が使うことになれば、ニアミスや墜落の危険性は当時よりも高い」との不安の声も出た。【平山 千里】
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ファントム墜落から30年
黒田 光太郎 *
6月6日、「ファントム墜落から30年」シンポジウムと交流会を開催した。シンポジウムは午後2時から九州大学国際ホールで約80名、交流会は6時半から福岡リーセントホテルで約40名の参加で行われた。シンポジウムは、ファントム墜落当時は経済研究科大学院生であった桂木健次さん(富山大学経済学部教授)、医学部学生であった松本文六さん(へつぎ病院理事長)、工学研究科大学院生であった荒牧軍治さん(佐貿大学工学部教授)の3人をパネリストとして、工学研究科大学院生であった平井孝治さん(立命館大学経営学部教授)をコーディネーターとしてすすめられ、休憩をはさんで3時間半以上におよぶものになった。30年前のファント墜落が現在の自分にどのように繋がっているのかを語ることを主題としてシンポジウムは展開した。参加者からの発言の多くもそれを踏まえたもので、小状況の吐露に陥るものでもなく、大状況を観念的に語るものでもなかった。
桂木さんは、環境経済学を専門としながら、富山市の呉羽丘陵の開発を問う市民運動を続けており、「現場の人が自ら問題を組み立てて解決していく手法や、市民や社会とのっながりの大切さを学んだのが糧になっている」と語った。また、パーソナルコンビュータを早い時機から研究に利用し、計算機センター長を勤めた経験から、大型計算機からパーソナ・ルコンピュータの展開やインターネットの普及を市民のメディアとして評価する意見を述べた。
松本さんは、「ファントム墜落は自分史の中で大きい」と述べ、その後の運動の中で、何のため、誰のための医者になるのかを問い続け。大分県で「病院らしくない病院」として、へつぎ病院を経宮し、医療の面から地域文化に関わっていることを話した。「医療を変えるために地域の人たちと地道に活動していくことが必要だ」と述べた。脳死や臓器移植の法制化にたいする反論を国会周辺で行ったことを報告し、この間題の重要性を指摘した。
荒牧さんは、ファントム墜落当時に不祥事を起こした所属学科の教授を追及した際に「目分の足元を見直す」ことにこだわったことを語り、その後水俣病を告発する会の運動に加わっていったことを話した。佐賀大学での学生寮問題では、機動隊を導入しないことにこだわり続け、8年閻に亙って学生と対応したことを述べた。大学再編がこれから進行するなかでも、「自分の場所にこだわり続け、何かを自分の足元で変え続けるであろう」と話した。
当時の学生と大学院生が参加者には多かったが、ファントム墜落当時に学生に殴られたこともある教員や当時は全共闘の問いかけに疑問を持っていた院生や現在30歳代の九大助手や九大学友会の学生の参加もあった。ファントム墜落の直前から活動を始めていた福岡べ平連の関係者や新聞報道でシンポジウムの開催を知った市民も参加していた。その発言のひとつひとつを記すことはしないが。様々な立場の者が長時閻にわたって話し合えたことがこのシンポジウムの意義あることであった。「自分の位置の確認のために参加したが、来て良かった」との発言があった。学生の参加は数名と多くはなかった。「68年当時は大学に権威があり、学生は大学に期待があったからこそ行動を起こした。今の学生が社会に無関心なのは。大学を通過点としか見ていないからだ」との指摘があった。「社会に対するわれわれの責任を考えるぺき時期に来ているのではないか」を受けて、「社会に対して直言と提言をするのがわれわれの定め」という意見がだされた。
「ファントム墜落から30年」の企画は、世話人の合意をもとに昨年末の福岡での打ち合わせに始った。2月中旬から呼ぴかけ人を募り、4月中旬に17名のよびかけ人による最終的な「呼びかけ文」を発送することにこぎつけた。世話人のわれわれがあまりにも忙しすぎるために、案内が大幅に遅れてしまったが、呼びかけ人の募集においても、案内を送付してからも、当時の関係者の協力を簡単に得られたわけではなかった。案内に対する反応を平井さんは次の3つのタイブに類別した。第一のタイブは、犬学闘争に関わったこと自体に触れたくない人たち。第二は、今さら30年前を振り返ってみても、生産的なものは何ひとつ出てこないと醒めた目で見ている人たち。このタイブの人たちは。今でも時代に有用な活躍し、社会に向けて発信している。第三は、30年前の自分と今日の自分がどこかで繋がっていると考えている人たち。われわれ世話人はこのタイプで、30年前の目らを尋ねる意義があると考えて企画をした。ファントム墜落から30年の機会に、単なる同窓会として集まるのではなく、シンポジウムをやることに意義があると考えていた。このことはシンポジウムの参加者には理解していただけたと思う。
シンポジウムの後の交流会、その後の2次会の中で、今回が最初で最後のシンポジウムでなく、これから毎年九大でシンポジウムをやることの提案もあった。60年代後半の様々な運動を経験した者が、九大に乗り込むかたちで。問題提起をを行うシンポジウムをやり続けることを検討してほしいというものであった。今回のシンポジウムでわれわれの問題意識を確認することはできたが、ファントム墜落にかかわる60年代後半の様々な課題についての護論を深めることはできなかった。例えぱ、九大闘争に影響を与えた滝沢克己さんのことは今回のシンポジウムの中でも語られたが、「滝沢哲学」をテーマにシンポジウムを開催することはいぎあることのように思う。べトナム戦争や反戦運動について。カウンターカルチャーについて。科学技術の社会への影響について、地域医療についてなど60年代後半にわれわれが関わり姶めた多くの課題について、ひとつひとつをテーマに取り上げて、毎年シンポジウムを継続していくことは可能かもしれない。これを担っていく事務局をどうするかなど課題は多いが、検討してみたい。
協力要請があった九大の大学史料室に大学闘争の記録を集中することも可能かも知れない。ただそれには、ファントム墜落や九大闘争を大学史の中できちんと位置づけた編集が行われることと、資料への提供者のアクセスが随時可能であることが必須であろう。ファントム墜落から30年と真剣に付き合えたことを嬉しく思う。
*名古屋大学工学研究科材料系教室 名古屋市千種区不老町