386 "The Japan Times Weekly"に「ベ平連発足40年」の記事掲載。(05/05/03掲載)

 "The Jappan Times Weekly" の05年4月23日号に、"No more war   Legacy of Peace group remains years after its establishment"(「ノー・モア・ウォー 反戦運動の遺したものは今も健在」と題して、共同通信の平野恵嗣記者の文が掲載されました。(左の図)
 この記事の要旨をご紹介します。

 ノー・モア・ウォー 反戦運動の遺したものは今も健在
   ――戦後60年のベ平連――

 1965年月4月24日、ベトナム戦争に抗議して1,500人の市民が東京都心でデモを行ない、「ベトナムに平和を!市民連合」という運動を発足させた。それから満40年を迎えようとする今も、「ベ平連」という略称で知られたこのグループを発足させた人びとは、反動的な風潮が広がる日本の中で、憲法改悪反対など反戦運動に積極的に関わっている。
 「この運動の原理は、今も大事だと思っています。自律的であるということ、いかなる権威にも屈することなく、自分が大切だと思うことを貫くことです」ベ平連事務局長だった吉川勇一氏はそう語る。74歳になる吉川氏は、今も反戦の街頭デモに参加したり、不戦憲法の擁護を目指す大衆集会を組織したりしている。
 ベ平連は、1965年から74年まで、日本のベトナム戦争加担に対して活発に行動し、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ボーボワール、ジョーン・バエズ、ノーマン・メーラー、ノーム・チョムスキーといった世界の有力者もその運動に加えた。また、アメリカの脱走兵を援助し、20名ほどをスウェーデンその他の国に無事、出国させている。この脱走兵援助の地下活動には、数千人の市民が関わったと思われが、どんな人びとがそれに参加していたのか、脱走兵たちが、そのどの部分を経て国外に脱出したのかなどの全貌は、今もよくわかっていない。「この活動の概要については知っていますが、個々の細かいことは知りません。ずっと後になって、知らない人から、自分も脱走兵を匿っていたとか、その脱出を助けたなどという話を聞かされて驚くことがよくあります」と吉川氏は言う。
 会員制度をとらず、規約も持たなかったベ平連運動では、反戦の活動をするものは、誰でも「ベ平連」を名乗ることが出来た。そのため、全国各地の学校、職場、地域に数百のベ平連グループが誕生したり、個人として活動したりすることになった。
 1965年11月には、『ニューヨーク・タイムズ』紙に、全ページの反戦意見広告を出したことでも有名だが、67年4月には、約2万人から250万円の募金を集め、「殺すな」と大書したもう一つの意見広告を『ワシントン・ポスト』紙に掲載した。
 ベ平連の中では、多数意見、少数意見というものが存在しなかった。「ベ平連の名で、各自が出来ること、やらねばならぬと思うことをやるのが、ベ平連だったのです」と吉川氏は言う。そうした運動のありようによって、彼は多様な見解を受け入れ、また自分の観方を拡げることができたという。
 「私は、ベ平連の中で、自分に出来ることは何でも、自分なりのやり方でやるべきであり、また社会の中で何かまずいことが起こったとしたら、それは自分の責任なんだ、ということを身に付けました」56歳の作家、吉岡忍氏はそう語る。
 吉岡氏は、日本ペンクラブの理事会の中で中心的な役割を果たしており、議論を呼んでいる個人情報保護法案や、イラク戦争に反対する活動を続けている。彼は長野県で高校生のときにベ平連運動に参加した。10代後半で、在学中の早稲田大学をやめた。「ベ平連の運動は、大学の授業などよりずっと面白かったから」と彼は言う。
 さいたま市の東一邦氏は、大学に入ったばかりの19歳でこの運動に加わった。それ以来、ずっと自分はベ平連だと思い続けているという。
 「地方で活動するベ平連として、この自分の住む町を、ごくふつうの人が、異端者扱いされることなく、反戦の主張が出来るような町にしたいと思っているんです」と東氏は語る。「あの当時、埼玉県には米軍基地や野戦病院があり、私にとってベトナム戦争は、正義の戦争でも、遠い国での戦争でもありませんでした」
 東氏は、東京の出版社に15年ほど勤めたあと、1989年に古巣のさいたま市に戻り、自分で出版の事業を始め、NPO運動を推進する活動にも従事している。
 ベ平連運動の創立者の一人である鶴見俊輔氏は、「若い人たちにとって、ベ平連は一種の学校でした。そこでは学校などよりもずっと大事な授業を受けられたからです」と語る。
 鶴見氏は今82歳。著名な作家小田実氏や他の志を共にする人たちとともにベ平連を発足させた当時は、京都の同志社大学の教授だった。「その頃、収入の6割は反戦運動のために使ってましたね」と鶴見氏は言う。「この活動をつづけることは、肉体的にも経済的にも、私にとってはかなりきついことでした」
 かつてのベ平連運動参加者のうち、多くの人びとが今も市民的不服従の考え方をもっています」と吉川氏は言う。
 ベ平連の代表だった小田実氏は、「第二次世界大戦中、大阪で米軍の大空襲を経験した者として、1965年に米軍が大規模な北ベトナム爆撃を開始したとき、ベトナム戦争に対する日本の加担を止めさせる行動を起こさねばならないと思ったのです」と言う。
 鶴見氏も小田氏も、昨年6且、大江健三郎、澤地久枝といった他の7人の著名人とともに、「九条の会」を結成した。戦争を否定した憲法条項を護るために、広範な政治勢力と一般民衆との連携をつくりだすためである。
 澤地久枝氏は「ベ平連が盛んだった頃、私は毎月100円をこの運動にカンパしており、そこの『ニュース』に原稿を寄せることもありました」と言う。「第二次世界大戦が終わって60年になりま すが、この60年間、日本には戦争がありませんでした。何としてもこれが続きますように」と彼女は語った。
(共同通信 平野惠嗣)

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