380 詩人、栗原貞子さん逝去。(05/03/08掲載)
すでに、新聞の訃報などでご存知と思いますが、広島の詩人、栗原貞子さんがご自宅でなくなられました。3月6日午後8時15分でした。享年92歳。葬儀・告別式は未定ですが、喪主は長女真理子(まりこ)さん。広島市安佐南区長束3の22の1です。
栗原さんは、ベ平連の発足当初からこの運動を支持され、1967年4月3日、ベ平連が米『ワシントンポスト』紙に掲載したベトナム反戦の「殺すな」意見広告(下の図)には、栗原さんの次のような文が掲載されています(英文より翻訳)。
私は広島で肉親と財産を失い、今も後遺症で苦しんでいます。一九四五年八月六日、広島は人間に対する最初の原爆実験場として使われました。そして今、ベトナムが同じようにアメリカの新兵器の実験場として使われていることを、私は八月六日の体験を通して実感しています。同じ運命をもつ人間同士として、爆撃にさらされえいるベトナムの人びとへの深い連帯の上に立って、私は広島から世界に向って叫びます。「戦争をやめよ、ベトナムに平和を!」と。 栗原貞子〈広島)
なお、これに対しては、アメリカからさまざまな反響が寄せられましたが、多くの賛成や支持の声のほかに、次のような栗原さんへの誹謗の手紙も来ました。
「(前略)……それから俗悪な栗原オバチャンにいっとこう。『両親はじめすべてを失い、今も放射能で苦しんでます』か。なんてまァ、お気の毒な。俺も涙あふれんばかりだぜ。だけど、真珠湾奇襲で息子や夫を殺された何千ていう母親たちはどうなんだ? オバチャンは、黄色いジャップどもが、手前の望んだとおりのものを手に入れたんだっていうことを知らねえのか、あるいは判らねえのか。やっつけ返す以外に俺たちのすることがあったのかね。 嫌悪をこめて。 ワシントン アーネスト・マクドナルド」
栗原さんは、『ベ平連ニュース』の67年4月号に投稿され、「……いずれにしても、このような偏見と憎悪に満ちた考え方が米国内にあるということは知っておかねばならないことだと思います。……」とのべておられました。6月14日には、広島YWCAで、この意見広告に対する海外からの反響を中心に、ベトナム反戦を語り合う集会が開かれましたが、そ のあつまりについて、栗原さんは、『ベ平連ニュース』67年7月号に「ヒロシマ・ナガサキの体験は最初の被爆地の神聖な使命とし、世界中ですんなりと受け入れられているように私たちは今まで思っていたが、今回の反響に見るように相当凄まじいものがあることがわかりました。その事実を知った上で、過去の経験を通じて未来の原水爆戦争を防止するために、自信をもって世界に訴えつづけ、二十二年前、私だちが経験したような苦しみを苦しんでいるベトナムに一日も早く平和をもたらせるために、私たちのできるだけのことをしようと話し合って閉会しました。」と書かれています。
以下に、『ベ平連ニュース』に掲載された栗原さんの詩を2編、再録いたします。最初の詩は、ベ平連がイントレピッド号からの4人の脱走兵援助について発表した直後に、そして二つ目の詩は、広島出身の青年、清水徹雄さんがアメリカで徴兵され、ベトナムに送られた後、日本で脱走し、ベ平連が匿ったとき、地元広島でも「清水徹雄君を守る広島市民の会」が作られ、栗原さんもその中心メンバーの一人になりましたが、そのときの作品。当時、アメリカ国籍ではなくても、アメリカに6ヶ月以上滞在すると、徴兵年令の青年には、徴兵に応ずる義務が生じ ました。
誰のために戦ったのか (『ベ平連ニュース』1967年12月号) |
ドラフト・カ−ド (『ベ平連ニュース』1968年10月号) |