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ベ平連創立メンバーの一人、高畠通敏さん(70歳)逝去。(04/07/07掲載)
残念なニュースが続きます。前川美智代さんの訃報に続き、今日は、ベ平連創立メンバーの一人だった政治学者の高畠通敏(みちとし)さんの逝去をお知らせすることになりました。
高畠さんは、肝臓がんで闘病中でしたが、7月7日午前9時20分、肝不全のため東京都内の病院で死去されました。享年70歳。葬儀・告別式は親族だけで行ない、8月1日(日)午後2時から東京都豊島区西池袋3の34の1、立教大学タッカーホールで「お別れの会」が開かれるとのことです。喪主は妻美恵子(みえこ)さん。
高畠さんの経歴については、言うまでもないと思いますが、1950年の安保闘争の中では、「思想の科学研究会」のメンバーとして、小林トミさんらと市民グループ「声なき声の会」を結成し、事務局長を務めました。ベ平連は、そもそもの立案者の一人でした。
高畠さんとベ平連
鶴見俊輔さんは、ベ平連ができるときのことを、こう語っています。(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの』新曜社 p.160〜161)
鶴見……一九六五年にアメリカの北ベトナム爆撃が行なわれたときに、高島通敏と私が相談して、「声なき声の会」をはじめとして小さな団体を集めて、社会党や共産党とは独立のベトナム反戦運動を起こそうということを考えた。そのときに、「安保のときにリーダーじやなかった若い人を中心にしよう」と私が言った。それで小田を選んだんだ。
上野 面識はおありだったんですか。
鶴見 対談で一度会ったくらい。つき合いはなかった。
それで小田の自宅に電話したら、当時の細君が出てきて、彼はいないと言う。西宮のお姉さんの家にいたんだ。それでそちらに連絡したら、小田は「やる」と言うんだ。それで三日後に、東京の新橋の喫茶店で、高畠と私と三人で会った。そのとき、もう小田は、最初のデモの呼びかけ文を書いて持ってきた。……
ここでも語られているように、高畠さんが構想していたのは、「声なき声の会」や「わだつみ会」、あるいは「キリスト者平和の会」といった小さな市民グループの協議体でした。最初の名称が「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」だったのも、そのためでした。その後、高畠さんはアメリカに留学することになり、ベ平連の中心部から一時離れましたが、その間に、運動は、個人の連合という性格のものに変わりました。1967年〜68年と、ベ平連への参加者が急増して、万単位の行動などが行われるようになってゆくと、高畠さんや「声なき声の会」の何人かは、それに批判的意見をもつようになりました。それが表面化したのが、1969年の夏、大阪城公園で開かれた「反戦のための万国博」(ハンパク)でした。また、そのご、「安保拒否百人委員会」がつくられることにもなります。以下にご紹介するのは、あまり知られていない経過だと思いますので、その事情を高畠さん自身が語っているところを引用します。(『遠い記憶としてでなく、今――安保拒否百人委員会の10年』p.33〜34)
声なき声とべ平連
高畠 その頃の「声なき声」の話をするとねえ。「声なき声」は65年にべ平連を作った時に呼びかけて,その意味でべ平連を結成する時主力になった。皆んな全力投球そこにしちゃったわけね。私は65年の2月に呼びかけて6月までやっていて,8月のはじめに前からの予定でアメリカへ渡っちゃったんだけれ
ども,67年の秋に帰ってきてみると,べ平連がやってゆく方向と違うふうに「声なき声」はだんだんなりつつあった。会議もきちんとやられていないし,大衆討議も全然運営できない。声なき声の代表として行ったって全然意見も通らない。
小林トミさんがああいう方だから,キチンと時間をきめていったって,どうしてもべ平連の運営から疎外されちゃう。そこに今度はイントレピッド4人の会が67年に脱走米兵かかえてワァーときちゃったわけね。
私なんかも脱走兵をかくまう役割で,67年から68年やってたわけだけれども,他方で声なき声をべ平連と別に作り直さなきゃあどうにもならないなあと思って,もう一ペん集会を続け,再建したわけ。だんだんにつまり,べ平連の閣議が決めた大衆行動に参加するだけでなく,声なき声の独自活動をしてゆこうということで,声なき声の単位で色々なアピールだとか,それから市民教室だとかやりはじめたわけね。
69年になって声なき声が一番独立にやったのは反博だった。反博に声なき声として参加して,そこでとうとうべ平連執行部と激突しちゃったわけ。あの時には,声なき声は反博に1週間位テント張って地べたに寝っころがって,そこで日大全共闘からきた部分や色々な人たちとつき合った。そういう反博の大衆参加者の横の連帯というのができつつあって,そこにべ平連執行部はやって来てウワーと気勢をあげては夕方帰っちゃう。
皆んながそんなお仕着せのスケジュールのカンパニア闘争いやだと,反博に集っている民衆の声をきけ,というような調子で,声なき声もいわば先頭に立って突き上げたような形になる。それで鶴見さんがものすごく苦しんじゃったわけね。反博の講師でやってきた鶴見さんもそのまま地べたに坐りこんで一緒に寝たわけだ。
結局,彼らがやっている大衆集会に我々が介入するというのをやったわけだよね。
どうしてそういうことになったのかというと,何月だったろうか,10万人デモといわれているあの当時最大の集会をべ平連が69年に日比谷でやったわけね(注1)。あの時,日比谷野音で集ってデモに出ようとしたら,警察が禁止したんだ。禁止したらべ平連執行部は,非合法デモを指導できないから,あとは皆さんご自分でデモなりなんなりやって下さい,といったわけだよ。つまりべ平連はカンパニアデモを合法の枠内以上にする気は全然ない。で,その後は完全に皆群集にかえっちゃうという状況だったわけね。
あの時は非合法で皆流れ出て,大変なもみくちゃにあった日なんだけど,あの前後から単純にカンパニア集会と合法デモだけやっているんじゃなくて,その中に核になる部分でいざっていう時には坐りこめると,いざっていう時には総員逮捕でもいいっていう組織を別組織で作らないとどうにもこれ以上進まないと,そういう議論が声なき声の中にも随分あった。
ところが声なき声自身は一番最後衛の部隊みたいなもんでね,お年寄もいればなにもいると……だから声なき声全体をそこにもってゆくというのはやっぱりどうしても無理がある。反博だって,声なき声が全体としてというより有志組織だから,声なき声のある部分がやったわけだった。
もう一つその機縁になったのはデモの一部が自発的に新宿・四つ谷あたりで坐りこんだ事件があったね。10・21?(注2) 僕が坐ったのは新宿御苑のあたりだった。一部はどこに流れていったのかな,市ヶ谷の駅の附近で,学生さんが大部分だけどまわりの色々なものをひきだして焼いたり,坐りこみもあって……。やっぱりあの事件なんかも,声なき声の範囲では,べ平連のデモはしょうがないなあ,というね,こういう時にどうしようということもなく最後はみんな立って下さい,皆一緒に歩きましょうで流れ解散式に,昔の国民会議と同じ所にやっぱりいっちゃう……と。だから,やっぱりなんとかしなきゃいかんなあという声があっちこっちにあったような気がする。
吉崎さんのアピール(注3)はそういうべ平連のデモの状況と重なって出てきたと思うんだよね。
河辺 すると,そういう状況で吉崎さんのアピールがでて,それが触媒みたいになってスーツと囲っていくわけですか? 色々のところの人が。
菊地 高畠さんには失礼だけど,その頃「声なき声」はそんなにスッキリ坐りこみなんかやんないみたいな……。
高畠 「声なき声」全体としてはとてもとても……。
菊地 だから,しいていえば足を引っ張られているみたいなね歯がゆさみたいなものを感じながら,非暴力反戦としては一つになっていったような気がする。
金井 そうじゃなくて,「声」はべ平連の隊列なんかでも一番最後に必ず位置するというね,そこの部分で拾えるところを拾って行く。非暴力反戦は非暴力反戦で非合法の活動,だからべ平連にできない,声には勿論できないところで坐りこみ部隊を作る。だから安保拒否百人委員会というのはそうでしょう?非暴力が大きく,中心になったみたいな……
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(注1)1969年11月16日のベトナム反戦と反安保のための6月行動委主催「全米ベトナム反戦デー連帯・佐藤訪米反対、11・16反戦市民集会」。日比谷野外音楽堂。1万5千名。
(注2)1969年10月21日 反安保全国統一行動デー。べ平連は「10・21国際反戦デー・べ平連デモ」清水谷→飯田橋。1万5千名。飯田橋で解散直後、機動隊が襲撃、衝突。数十名が逮捕される。
(注3)『週刊アンポ』No.1(1969年11月17日発行)に掲載された東京の医師、吉崎秀一さんの「全員逮捕デモを!」という提案。
この(注)は吉川による。 |
ここで提起されている問題点は、当時のベ平連参加者のなかでも、十分に総括がされているとは言えません。大規模な大衆行動と、非暴力直接行動(市民的不服従の行動)との関連など、今後の議論が必要でしょう。
小林トミさんは、『「声なき声」をきけ――反戦市民運動の原点』(同時代社)の中で、高畠さんとは別の評価を書いています。とくに1982年、「声なき声の会」を存続すべきかどうかで意見が分かれ、小林さんを中心に再発足することになりますが、高畠さんは、そこで会の中心から身をひかれます。この点も、運動の中に、いろいろな評価があります(たとえば、天野恵一「運動を生ききった人の記録」『季刊 運動〈経験〉』10号 2003年11月)。それらの問題点についての意見交換
を、高畠さんや小林トミさんらを含めてやりたかったところですが、それもかなわなくなりました。残念です。
謹んで哀悼の意を表します。(吉川勇一記)