348. 名古屋ベ平連の創設者、前川美智代さん逝去(04/07/04掲載)

 元名古屋べ平連のメンバーだった久野秀明さん(イラク派兵差止訴訟の会)からのメールで、かつて名古屋べ平連の代表で創設者であった前川美智代さんが亡くなられたという訃報を頂きました。それによると、前川さんは、6月26日 午後9時18分 日本パブテスト病院(京都)で逝去されたとのことです。享年60歳。残念なことです。謹んでご冥福をお祈りします。
 久野さんからは、とりあえずの報告として、以下のようなことも伝えられました。
 3月に体調不良で検査入院したところ 末期癌と診断され、余命3ヶ月と宣告されたそうです。 
 親近者で密葬は京都でおこない、7月11日に 「魚住けいを偲ぶ会」をゆかりの深かった沖縄県那覇市でおこなうそうです(詳細未定)。
 久野さんは、「いつも名古屋べ平連の中心にいた前川さんを喪い、同士一同悲しみにくれています 合掌」とメールを結ばれています。久野さん、ありがとうございました。もし、那覇市での集まりの詳細などわかりましたら、お知らせください。 

 前川さんが東京のベ平連にはじめて連絡をとったのは、前川さんが19歳、1966年の夏でした。『ベ平連ニュース』の66年8月号には、以下のような前川さんの文章が載っています。

  A と B
              前 川 美智代
 二人の友人、彼らは私が最も信頼をおき、基本的なラインで必ず共鳴できるものを持つと疑わなかった。
 べ平連の存在を知り「べ平連ニュース」を見せて「ゼヒ、カンパでも何でもやろう」と連絡した。
A「われわれがどのような運動を行っても大きな力の前では無駄だし、はっきり言って関心がない。」
B「自分なりの批判や考えは持っているが、専門課程に入り、手がいっばいでとてもそこまではやれない」
 Aはサラリーマン、Bは大学生である。彼らと私の関係は何だったのか? しかし彼らに絶望してはけない。自からたたかわねばならない時を知るだろう。そのことを期待したいと思う。日本の若者の叫び声が、市民の声がどれほどさしせまったものであるかをAとBは知るだろう。そうでなければならない。できるだけ早く。
(名古屋市中村区)

 そして名古屋ベ平連ができたのは、1966年10月のことでした。そのことについて、『ベ平連ニュース』はつぎのように報じています。 

名古屋ベトナム問題懇談会(通称・名古屋ベト懇、世話人・新村 猛)

 この名古屋ベト懇は、前川美智代さんという十九才の女性によって発足したものです。前川さんは、今年の春、学校を出て、名古屋駅の近くで働いている美容師です。
 「名古屋でもベトナム反戦の行動を始めたいので、名古屋市内で、べ平連ニュースを読んでる人の住所を知らせてほしい――」という便りが、八月に、前川さんから事務局にありました。事務局では、さっそく、名古屋大学の新村猛先生ほか、数名の方の読者の名前を送りました。
 前川さんは、新村先生を訪ね、他の読者と話し合い、名古屋での運動の準備を進めたわけです。そして十月八日(土)、第一回目の懇談会を開き、この会合には、東京から、べ平連事務局の吉川さん、声なき声の小林トミさんなどが、名古屋まで応援に行き、話し合いに参加しました。この話し合いによって、名古屋でも、毎月一回のデモを始めることになったのです。小林さんと友人の平島さんは、ひさしぶりの旅行気分から、前川さんに案内をたのんで、伊勢の方まで足を伸ばし、見物して帰京しようと計画したのですが、あいにくの(?)連休で、電車のキップが取れず、やむなく、名古屋駅の喫茶店にはいりこんで「残念、残念」と、ぼやいているうちに、誰が言うともなく、こうしていてもつまらない、さっそく今から行動を開始しよう!ということになり、近くの文房具店から、ワラ半紙とマジック・ぺンを買ってきて、喫茶店の片隅で、二時間ばかりの間に、二百枚ほどの、手書きのビラを作ったのです。
 「十月十六日の日曜日は、ベトナム反戦を訴える名古屋市民のデモの日です。テレビ塔の下に集りましょう!」
 ビラには、赤や禄のマジック・ぺンで、名古屋で行なわれる初めての市民デモのアピールが、次ぎつぎと書かれてゆきました。
 そして、さっそく名古屋駅前に立ち、手書きのビラを、街を行く一人ひとりに手渡しました。
 街頭に立って、ビラを配布したことは、前川美智代さんにとって、この日が初めての経験だったのです。《写真は、街頭に立つ前川さん(右)と小林さん》
(『ベ平連ニュース』1966年11月1日号)

 66年当時の反戦への熱気も伝わってきますし、19歳の前川さんのすばらしい行動力も感じさせられる記事です。また、『週刊アンポ』の1970年2月23日号には、次のような、前川さんへのインタビューが載っています。

 ――いつからやってるの?
 四年前から。中学出て、美容師をしていた頃、新聞でべ平連の記事を見て、小田実さんに手紙書いたのが始まりかな。
 ――今でも美容師をしてるの?
 去年の秋までしてました。今ほ「反弾圧市民」の運動にかかりっきりです。八年間、美容師しかしたことないから、できたら今度は生産現場で働いてみたいと思っています。
 ――結婚なさるそうね。
 ええ。べ平連の人が結婚式してくれるっていうから、三月中にはたぶん。
 ――家庭に入ろうと思ったことは、一度もないの?
 ないです。前にべ平連を日和ってたとき、家で家事やったけど、あんなにむなしいものはないと思ったな。女の人って結婚すると、人が変わるのかな。結婚前もっていた自立性は、たちまち消えちゃって、ずぶずぶに生活に追われていっちゃう。私のまわりでも皆そう。私は嫌だな。
 ――あなたはどうやっていくの?
 彼が沖縄の人なんで、来年中には一緒に沖縄へ行って、働きながら運動をやっていくつもり。
 ――子供を生みたいと思う?
 生めないなあ、って思う。彼はほしがっているけど、私は運動のことで頭がいっぱいだし。(後略)

 ここにあるように、前川さんは結婚後、沖縄に渡り、そこでさまざまな活動をされました。名古屋にもどられたという情報も聞いていましたが、最近の動向は知りませんでした。突然の訃報に驚き、哀悼の意を表します。(吉川記)


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