327. 京都ベ平連の創設者の一人、樋口謹一さん(京大名誉教授)逝去。享年79歳。(04/01/17掲載)
京都大名誉教授、樋口謹一さん(ヨーロッパ政治思想史、元日本平和学会会長)が1月9日午前3時15分、急性呼吸不全のため京都府宇治市の病院で逝去された。享年79歳。京都市出身。自宅は宇治市木幡御蔵山39-129。葬儀・告別式は親族のみで行われた。喪主は妻登美子(とみこ)さん。
樋口さんは、1965年、京都ベ平連の設立の際の中心メンバーの一人で、その後も、1968年の「反戦と変革に関する国際会議」(京都・国際会議場)など、数々のベ平連の活動の中で積極的役割を果たされた。樋口さんがベ平連について書かれた文章としては、1968年11月の『中央公論』別冊掲載の「べ平連――学生と市民の間」、また、作田啓一・鶴見良行・松田道雄・武藤一羊さんらとともに出席した座談会「『反戦』から『変革』へ、市民運動の変貌」(『朝日ジャーナル』1968年9月1日号)などがある。
樋口さんは、地域でもいろいろな活動に参加された。その一つに、京都のウトロでの活動がある。週刊誌『AERA』1993.8.17-8.24には、「……85年3月、ウトロは当時、宇治市内で続発していた放火事件に巻き込まれた。消火栓がないために披害が広がった。この事件をきっかけに樋口謹一京大教授(当時)らが中心となり「ウトロ地区に水道敷設を要望する市民の会」が結成された。87年2月、宇治市で開かれた「ウトロの水問題を考えるシンポジウム」で樋口教授らは、「市が四十年間もウトロ地区に上水道の配水管を敷設せず放置したことや、私たちを含め市民がそれを知らなかったことを恥じるべきだ。その償いのためにも、解決に向け市や市民は力を注がなければならない」と訴えた。地域住民とウトロの初めての共闘だった。……」(編集部:小林慶二)とある。樋口さんは、ウトロ住民の支援活動を続けている市民グループ「地上げ反対!ウトロを守る会」の代表もされていた。
京都ベ平連設立の際の様子と、樋口さんの関わりは、次の鶴見俊輔さんの文にのべられている。
鶴見俊輔「ひとつのはじまり」より
……四月【1965年】はじめに本郷学士会館で相談会をひらき、五年前の安保反対運動の時よりも若い世代から指導者を求めようということに意見が一致した。というのは、みな相当にくたびれていて、自分たちよりも若い人から指導されたいという希望をもっていたからだ。この気分は、その後のべ平連運動の流れにつづいてゆく。 |
が走りまわって京都べ平連ができた。できたあとのチラシを見ると、京都では、「ベトナムに平和を――市民連合」となっている。名前が東京とちがっている。それは、山田たちが、賛成する個人のあつまりとして京都べ平連をつくったことによるものだ。正式名称ほちがい略称だけ同じの運動を一緒につづけているうちに、一年後に東京のべ平連(というよりも、赤坂に事務所をもつべ平連)が「団体」という名を落して、「ベトナムに平和を――市民連合」という京都と同じ名称にかわった。組織原則として、団体参加の原則が後景にしりぞき、個人参加の原則が前景にあらわれてきた実状を認めたのである。 |
樋口さんの著書で、現在入手可能なものは、『世界の歴史〈15〉フランス革命』(河出文庫)¥850。 ほかに『モンテスキュー研究―京都大学人文科学研究所報告』 白水社、訳書では、翻訳『ルソー選集 エミール』(上中下)白水社、J.M.トムソン著『ロベスピエールとフランス革命』(岩波新書)など。