325. 12月14日に小川武満さん(医師、牧師、脱走兵援助に協力)逝去。享年90歳。(03/12/30掲載)

 平和遺族会全国連絡会代表だった小川武満氏(おがわ・たけみつ)さん(医師、牧師)が、12月14日午前2時18分、急性腎不全のため神奈川県津久井町の病院で逝去されました。享年900歳。旧満州(現中国東北部)生まれ。戦時中は中国・北京で軍医、戦後も小川さんは戦犯拘留所で医師を務めました。1985年の中曽根康弘首相(当時)の靖国神社公式参拝をきっかけに、平和遺族会全国連絡会を結成し、公式参拝反対の運動を続けられました。葬儀・告別式は12月17日神奈川県愛川町の愛川聖苑でおこなわれました。自宅は  220-0100 神奈川県津久井郡城山町葉山島705。夫人は幸子(さちこ)さん。
 小川さんご夫妻は、ベトナム戦争にも強く反対、ベ平連に支援を求めてきた反戦米脱走兵を自宅に匿うなど、脱走兵援助に大きく貢献されました。とくにスウェーデンに脱出した米黒人海兵隊員、テリー・ホイットモアさんを、10日間ほど自宅に保護しましたが、ホイットモアさんが1993年、旧ベ平連や旧ジャテックのメンバーたちの招待で来日した際には、自宅に招き、25年ぶりに再会され、そのときの模様は、大きく当時のマスコミ、テレビなどで報道されました。
 以下に、そのとき『京都新聞』に掲載された小川さんとホイットモアさんの再開を伝える記事を紹介します。右の絵は、ホイットモアさんが小川さんのお宅に匿われていたときに、小川さん自身が描いたホイットモアさんの肖像画。この絵は、下の記事にあるように、その後も小川さんの家の食堂に、額に入れられてずっと飾られていました。
 なお、このホイットモアさんの小川さん宅訪問の様子は、「テレコムスタッフ(株)」が製作したドキュメンタリ『帰ってきた黒人脱走兵――ベ平連25年目の再会』(プロデューサー=菊池俊一、西野肇 )に詳しく記録され、フジTVで1993年7月13日に放映されました。小川さんご夫妻の映像がずいぶん含まれています。(このTVをご覧になりたい方は、本サイトにご連絡ください。)


 

25年ぶり劇的再会

脱走米兵 恩人の牧師と

反戦の志は今も

「目も鼻も昔と変わっていない。またここで会えるなんて奇跡」「あなたに会いたくて日本に戻ってきた」
 二十九日夜、神奈川県津久井郡城山町の相模川のほとりにある小さな教会。ベトナム戦争最盛期、ここに一時身を隠し、旧ソ連経由でスウェーデンに脱出し堤た元脱走米兵と恩人の老牧師が肩を抱き合い、目をうるませた。ニ十五年ぶりの劇的な再会だった。
 ストックホルム在住の黒人テリー・ホイットモアさん(46)と、医師で牧師の小川武満さん79)。
 ホイットモアさんは脱走を援助した旧べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の招きで来日、
来月十日まで京都など各地を訪れ、当時の支援者と交流するが、一番手が小川さんだった。
 
 
愛人の言葉で決意

 「こにはチャコと一緒によく来た。彼女はどこにいるんだろう」
 横浜港を見下ろす「港の見える丘公国」。チャコとはホイットモアさんが愛した二歳年上の日本人女性。彼女との出会いが人生を大きく変えた。
 テネシー州メンフィス生まれのホイットモアさんは高校を卒業後、海兵隊に入隊。昭和四十二年、十九歳でベトナムヘ。しかし、迫撃砲攻撃で足右負傷。翌四十三年一月治療のため、横浜市にあった米軍野戦病院に移送され、初めて外出が許可された日に中華街でチャコと出会った。
「なぜ戦わなくてはいけないの」。傷が治り、戦

場へ戻ることになった時、チャコが投げ掛けた素朴な問い。「キル.(殺せ)」とだけ教え込まれてきた海兵隊員の心を揺さぶった。
 悩んだ末、脱走を決意。「私はここヨコハマでグルーアップした(大人になった)んだ」。そのきっかけをつくったチャコの消息は分からない。

 
カポネ・ボーイズ

 北爆から二年たち、ベトナム戦争は泥沼化。世界各地で反戦運動が盛り上がり始めた四十二年、ペ平連は米空母イントレピッドの四兵士を脱走させた。公安当局のマークが厳しくなり、脱走を手助けする裏部隊「ジャテック」(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)がつくられた。
 ベ平漣の援助による脱走米兵は旧ソ連ルートが十六人。別ルートで二人。しかし、別ルートについては今も関係者のロは重い。
 脱走を支援した人たちは学者、学生から主婦まで数百人に上る。ホイットモアさんも当時その組織網の広さに驚き「アル・カポネ一味以来の組織」と想像、べ平連メンバーたちを「カポネ・ボーイズ」とも呼んだ。
 だが、ホイットモアさんの来日を機にべールは少しずつはがされつつある。個人の反戦意識が「人の鎖」となり組織を支えていた。

 

 

 

思い出の肖像画

 小川さんもそんな協力者の一人だった。脱走直後の三月中旬、十日間の滞在。緊張で食事もできないホイットモアさんに妻の幸子さん(67)ははしの持ち方を教え、慣れない英語で「ユー・マスト イート(食べなきゃ駄目)」と励ました。 「だれにもあなたのことを話さず、静かに無事を祈っていた」と小川さん。だが、一つだけホイットモアさんが滞在したあかしが残っていた。自宅食堂に飾られた若き日のホイットモアさんの肖像画だ。
 「ニ人で向かい合いお互いにかいた。あなたに渡せる日を待っていた」。
 ホイットモアさんがかいた小川さんの絵は証拠を残さないようにと、関係者が処分したという。
 脱走の中継国となったソ連は解体するなど世界は大きく変わった。脱走兵の多くはカーター政権の恩赦で米国に帰国。現地に残っているのはホイットモアさんら二人だけ。
 ホイットモアきん自身もさまざまな体験をした。現地の女性と二度の離婚。恩赦で旅券を取得、これまでに三度里帰りしたが、十三歳と十一歳の息子がいるため、当面帰国の意思はない。職業のパス運横手は現在レイオフ状態。「いろいろありすぎて…」。反戦の志は四半世紀たった今も生き続けていたが…。

(『京都新聞』1993年3月31日号)

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