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『イオム通信』の向井孝さん(83歳)逝去。(03/09/12掲載)
向井孝さんが逝去されました。8月6日夜のことでした。謹んで哀悼の意を表します。同居されている水田ふうさんから最近送られてきた『風』38号(9月6日発行)によると、死因は心筋梗塞。死亡時間は9時7分とのことです。向井さんは1920年生まれで、享年83歳。生前、「葬式は誰にも知らさんと身内だけですます、みんなへの通知は半年後にでも」と希望され、また、遺言ノートにも「通知は半年後適当に(やむなくば一ヶ月後)」と書いてあったそうで、水田さんは、なくなられてから一ヶ月後に、この向井さんの訃報をつたえる『風』を発送されたのでした。
『風』のこの号には、水田さんの思いをつづった長い文章が掲載されていますが、「この号の転載はご遠慮を」とあるので、それに載っていた1997年の4月25日の「遺言ノート」にあったという向井さんの自書の死亡通知のコピーだけを右に転載します。
向井さんが最後に書かれていた原稿は、『新日本文学』へのもので、それを載せた号はこれから発行されるはずです。
向井さんが書かれたものは多くありますが、最近では、黒パンフシリーズの『暴力論ノート ――非暴力直接行動とは何か』(「黒」発行所 167-0042 東京都杉並区西荻北2-31-20-201 中島方 2002年12月刊 1000円)があります。
向井孝さんをご存じの方は多いと思いますが、詩人、アナーキスト、非暴力に徹した反戦活動家でした。ベ平連運動との関係も深く、1968年には「ベトナム反戦姫路行動」を組織して、6月15日を中心とするベトナム反戦全国行動に参加、以後も密接に連絡をとって活動を続けられてきました。69年の夏、ベ平連が大阪城公園で開催した「反戦のための万国博」(ハンパク)では、連日、徹夜で速報紙『日刊ハンパク』を発行し続けました。
渡辺一衛さんは、向井さんのことを次のように記しています。
「……向井版『自由連合』は必ずしもアナキズムの枠にとらわれず,当時高揚しつつあった全国の平和運動・市民運動の情報連絡紙を目ざしたところに特徴があった。
向井の組織論・運動論はこの『自由連合』や個人新聞『イオム通信』(のち改題して『サルートン通信』)などに,その時々に書かれているが,それは人と人との触れ合いの肌ざわりを大切にし,事に応じて行動に立ち上がるときの反射神経の訓練を目ざすといった,必ずしも理論ではとらえきれない部分に注目する運動論である。向井の家には青年たちがいつも出入りしているが,彼らはそこでなすべき仕事(ガリ切りでも,皿洗いでも)を自ら発見し,行動しはじめなければならない。向井自身も,行く先々でそのように振る舞うのである。……非暴力的アナキズムの行動様式を,向井はその実践によって呈示しつつある人物といえるだろう。」(朝日新聞社編『現代人物事典』1977年)
水田ふうさんの連絡先は、犬山市鵜飼町666 です。
以下に、1972年3月19〜20日、岩国で開かれた「反戦市民全国懇談会」に参加した向井さんが、そのあと、『ベ平連ニュース』72年4月1日号に書かれた文章を転載、ご紹介します。原文の傍点の部分は、太字に、ルビは( )に入れて続けるように変えてあります。
――岩国会議に参加して――
ぼくの問題提起
向 井 孝
1 <全懇>
もうひとつの意味
ぽくら各地に散在するベ平連のひとつひとつは、権力にとってお笑い草ほどの小さなものだ。そしてそのようにちっぽけなグループが、消えたり生まれたりして、全国にいくつもある。
それらはおたがいに、〇〇ベ平連と名乗っていても、べつに明文化したつながりをもっているわけではない。だが、おたがいのその存在が、<一人べ平連>をも、またぼくらの<姫路行動>をも、生みだし動かす<見えない力>となっていることに気付く。
そしてそれこそが――まだ積極的に自覚されていないにもせよ――<自由連合>であり、その<力>といってよいだろう。
ぼくにとって、全国懇談会の持つ大きな意味のひとつは、そこにあつまったもの同士の肉声をとおした交流によって、<見えない自由連合>が意識化され、運動のより大きな力となることであった。
つまり、個別のひとりひとりの交流が縦横左右に行われ、むすばれた糸が散会後も、八方へ延びるホットライン?として、まずはつくりだされることであった。
云いかえると、ぼくにとって<全懇>とは――会議や討論の時間だけでなく、岩国体育館や労働会館という場所だけでなく、たとえば中座して便所へいったときの偶然の顔合せや、中食のとき、宿屋の廊下・玄関・フトンに寝ころんでの触れあい、そして往復の列車内の対話までの――すべてで成立するものであった。
だが、19・20日の両日、集ったぼくらはほとんどそのことについてみるべきものをつくりえなかった。(たとえば、第二日は名札をつけようという議長の提案は、てれくささもあってか、全く?実行されなかった)もちろんそれは、ひとりひとりの自覚においての責任である。と共に、現在におけるべ平連の体質の限界を象徴している。
そして又この点から云えば、<全懇>の成果は、一部で所期の目的を達したとしても「その半分で欠落するものがあった」と云っておくことが、今後のために役立つだろう。
(交流は、各個人がその機会を見出す努力を含めて、その方法あるいは技術がいる。たとえば<名札>のように。そのためのより具体的な提案を、ほくは次の全懇に出そうと思っている。)
2 市民と仲間
帰路の車中で、ぼくも入れて同行の七人に「印象をひとことで」ときいてみた。
「何かが落ちている」「仲間うち世界」とこたえたN君M君は、ともにふつうのサラリーマン。ぼくに誘われての好奇心が動機で参加した人達といえる。
N君――「全懇での大半の発言は、ぼくの職場にもっていったら通用せえへんと思う。市民一般の感情と論理基盤とちがうところでの――やはり特殊な括動家のものという感じ」 M君――「一見オープンにみえるが、あらゆることに前提的なことがすでにあって、その前提が仲間のワクをつくってる――」というのである。
「ふうん」といささかぼくは、その感想に不満であった。
「しかし会合に参加して、ちょっとやる気になった。仲間意識の芽生えというか自分の裡にあるいやらしい活動家意識の芽を感じた」とM君がいうのに、何かすこしは救われた気がしたが、次第に「いやそうばかり思ってはおられへんぞ」とぼくは深刻に考えはじめたのである。
「みんなようやる。おれもやらんと…」と云ったのは、姫路行動の中心ともいうべき活動家で、このごろ若干しょぼくれている三人。その中の0君は<露地裏のすみずみまで…>という表現をさかんにつかった意見発表者に、「どういう方法で、具体的には…」と質問した。それは自分自身の活動を行き詰まり――笛吹けどおどらぬ市民との遊離――において、N君M君が指摘するものを、そのような問いとして無意識に表現したのではなかったか。
最年長のHさんは「岩国は大きな収穫でした。私の小さな仕事、行動も大きな流れのうちで役立っていることが判ったからです」といかにもカトリックらしい率直な敬虔さであった。そして最後にぼくは、「ぼくの役割が一そうはっきりわかった。ここに仲間がいる!」と云った。
なかま!よく似た言葉で<同志>という呼称がある。だが厳密に、同志とは――同じ思想・同じ意志・同じ行動を通して、その目的のために不可分の責任をもつ盟約者のことを云うのだろう。
ぼくにとって<なかま>は――さまざまな立場、異なった思想、ちがった視点、いろんなやり方で、しかもひとつのことに、それぞれが力を出しあう。それゆえ、そこでは意志統一も、共通する展望をもつ必要がない。ひとりひとりが、自己流の行動の創造者である――ということにおいて<自由連合>をおのずから形成する人たちのことである。だから<同志>では決してなく、<なかま>以外の何者でもない。
ところで<同志>は、イデオロギーや規約によってむすぴつく。では<なかま>は何でむすびつくのか。それは――<自立した生括者という基盤によって><その生活の知恵、生活技術、おのおのの生き方の倫理を通して>である。
ぼくが<市民>とよび、ときに庶民とも大衆とも人民ともよぶそれは、このようにして<生活者>と密着して考えるものであり、それゆえにべ平連の<市民連合>は、ぼくにとって<生活者の自由連合>ともいうべきものであった。
ところがたまたま同行のN君M君の感想は、いままで安易に<市民>と自らをよんで怪しまなかったものについて、改めて問題をつきつけた。
一体ぼくは市民なのかどうか。またべ平連的市民は一般的市民に対して、むしろ<反(アンチ)市民>なのか、<半(ハーフ)市民>なのか。それとも<完全>なのか。
そして、ぼくが<なかま>とよび、そこでつくり出している世界が一般市民には閉されたものであるとき市民に対してどう開くのか。生活者は即市民であるとして、はみ出る部分は何か……
べ平連は市民運動てあるとしてどのような市民に基盤をおいているのか……
(『ベ平連ニュース』72年4月1日号) |