定例デモヘの思い
非核市民宣言運動・ヨコスカ発行『たより』第125号 2000年12月21日発行 より
石 谷 行
えっ? 三百回! ヨコスカ市民の少人数の一グループが育ててきたこの小さい定例デモは2001年1月で二十年続けたことになり、三百回目だという。
毎月最後の日曜日の夕方、まず海上自衛隊駐屯地の、つづいて米軍第七艦隊基地の、両ゲー卜前でアピールをした後、横須賀市のメイン・ストリートを、おんぼろリヤカー風の手押し車に拡声器装置を載せて、ギター、サックスなどの楽器と歌で、音楽を振りまきながら、歩行者に平和への転換をと、呼びかけながら歩く。平均二十人ぐらいかと思われる、こんなスタイルのデモを途絶えさせずに積み重ねてきたのである。
このデモは赤ん坊から老人まで、年齢幅がある。途切れそうな列であるが、気の張らない自然体で歩く。警官もこのグループとの長年の付き合いのためであろうか、このデモの仕方を心得ていて、無駄ないやがらせなどはない。
私はこんなデモに心惹かれ、隣接の地・金沢八景から助っ人的なつもりで参如せざるを得ない気持ちになった。いつの頃からかは記憶にないが、米軍基地前での英語でする訴えを担当させてもらっている。このデモでは出来ることを色んな人が分担して少数ながら何とか上手く市民型らしいデモが成り立っているのである。
それにしても、辛抱強く、雨風雪や日照りにもめげず、また個人的、家庭約、そして社会的にも色々な事情があるであろう。それをなんとかやりくりして実行してこられた。准進力になってこられた方々
には感謝の念を込めてオメデトウと言いたい。実行力には敬服せざるをえない。
私が都心から金沢八景に引越してきたのは、このデモが始まった頃である。毎回参加したかったが、日曜日に会員籍がある都内の教会の朝の礼拝会に出て、午後に委員会があったりで、毎回の参加は出来ずにいた。だが、米軍基地での訴えを英語でする意義を強く感じた頃から、委員会なども早めに引き上げることにして参加し始めた。
ところが去年の初めに長崎原爆被爆の後潰症らしい悪性の癌が発見され、五ヶ月間も入院を余儀なくされた。そのため一年近く市民定例デモにも参知できなかった。去年の十二月の最後のデモの後の忘年会で定例デモの参知者の皆さんが書いてくれた寄せ書きはその後の私の健康回復に大きな励ましになってくれた。
思いもしなかった癌による障害のために、二年早めに定年退職せざるを得なくなったのは残念であったが、このことが逆に定期的にこの定期デモだけには出られることになった。摘出できない癌は、きのこや蜂の唾液などのエキス、さらに漢方薬などをこまめに飲んで押さえ込み、ストーマといわれる人口膀胱をぶら下げて生活することになった。そのため混んだ電車で片道一時間以上もかけて教会に出ることを控え、日曜日には家で妻とともに礼拝会を持ち、奨励されている散歩にもなると、健康が許す限り地元圏内でデモることが出来ることになった。
かつてヴェトナム戦争時に、ジャテックという反戦活動に協力して、脱走した後に良心的兵役拒否をしたいと申し出た若い米兵に同伴して、日本人弁護士と米国人宣教師と一緒に横須賀の米海軍基地内に入ったことがあった。法的に保証されている良心的兵役拒否者の権利が保証されることを確認するためであった。これが横須賀米軍事基地との私の最初の出会いであった。
私は今、ゲート前で基地内及び周辺にいる人々に英語で呼びかけるとき、次のことを念頭においている。平和は誰に当てはめても通用する言行によらなければ築けない。軍事基地問題にも原因と結果の連鎖があるのでそれを局所的に見るのでなく、いのちと人間としての尊厳を大切にすることを常に基準として念頭に置いて物事の善悪を判断する。大局的な原因を見極め、それに対処することを考える。敵を作らず、敵をも味方につけることを考える。賛成者を増やすことを心がける。相手を糾弾して、硬直化させたり、感情的に反発させるよりも、一緒に感じたり、考えたりするような働きかけを心がける。聞き手のひとり一人が反感や悪感情を抱いて敵対的になるよりは共感をもつように心がけたい。
'Dear Friends in the base and around the base!'
<基地内の、そして周りの親愛なる皆さん!>と呼びかけを始めている。平和はひとり一人の心の中から始まる。誰しもが陥りがちな偏見や固定観念を、まず解きほぐす。そのことなしに社会の変革は平和的に進行するとはない。基地内には色んな事情で、考えで生活している個々人がいる。私たち以上に良い平和の働き手になってくれる人がいる可能性も少なくはない。
勇猛果敢の賞・シルバー賞を受けた元海兵隊員が、今は全世界の青年達に「銃を取るな!」と、実に熱心に呼びかけている。このデモにも参加したことがあるアレンさんはその一人だが、人種差別や就職難で仕方なく軍隊に入ったという。軍隊や戦争の実態を知らないままに沖縄基地からヴェトナム戦争に参加したと話してくれた。他人の事情や喜怒哀楽に気付くことが大切だ。
今後も妻に伴われて、気付きを促す基地反対のデモ参加を、個人史を背負いながら続けたいと考えている。
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