222. 第2次訪越団 についてのベトナム側報道(その3)(02/06/18掲載)

(以下は、三進交易株式会社の現地事務所の沢井悟朗さんから送られてきた翻訳です。沢井さん、ありがとうございます。)

『ラオドン』〔Lao Dong〕(労働)紙 2002年5月2日付

 4月30日はまた べ平連戦士の勝利 

 アメリカ軍の北爆進攻開始2ヵ月後、1965年4月24日にべ平連運動が始められてから40年近くが経つ。このたびベトナムを訪問している旧べ平連メンバーは、ほとんどが50歳―70歳の年齢だ。
 べ平連運動は他の平和組織と違い、規約、会員制度、選挙制度などはない。誰でも「ベトナムに平和を」、「ベトナムはベトナム人に」、「日本政府はアメリカの侵略戦争に加担するな」の三つのスローガンの内容に同意すれば参加できる。毎週ベトナムについて演説やデモなどを行なった。
 日本全国至る所に350のべ平連グループが形成された。べ平連の戦争反対運動は多様な形で力強く発展し広まった。日本国内だけではなく、世界の世論をも喚起した。
 今回ベトナムを訪問したメンバーは、「元べ平連の闊達な風格」で心を開いて率直に記者たちのインタビューに応じてくれた。我々と話したのは70歳の小説家小田実ではなく、昔の若き日の小田青年だった。自分の素晴らしい記念すべき出来事の日付けは、はっきりと覚えている。1965年8月14日の夜に朝まで戦争反対の方法について仲間と議論した。アメリカの戦争反対のため1965年11月16日付ニューヨーク・タイムズ紙と1967年8月3日付ワシントン・ポスト紙に全面広告を出した。この広告のため、またベトナム人民に援助の薬などを送るため、航空母艦エンタープライズから逃げたアメリカ兵を援助するた、カンパを募る運動を何回も行った。1969年6月15日には東京で約7万人の大規模なデモに参加した。このデモは日本政府にひどいショックを与えた。由比忠之進技術者の焼身自殺した姿は、我々に大きな感動を与えた。
 小中陽太郎教授は、長い間大切に持っていた記念の写真とベトナム戦争反対のポスターを私達に見せてくれた。坂本良江女史はTVディレクターとして戦争反対番組を作った。ベトナムの友人に紹介するため日本のテレビで上映したビデオテープを持ってきた。
 べ平連運動はパリ協定が調印された後、1974年1月26日に解散したが、現在に到るまでべ平連の旧メンバーは平和、民主、平等、環境などの各種運動に参加している。
 最近べ平連はホーチミン市の戦争証跡博物館に多くの資料、写真、設備などを贈った。べ平連旧メンバーの貢献と実績を認めたベトナム友好組織連合会は、べ平連運動の代表として
K.Yotaro(小中陽太郎)氏−教授、N.Kazuko(中西和子)女史−大学講師、S.Yoshie(坂本良江)女史−TVプロデューサー、Y.Yukio(山口幸夫)氏−物理学者の4名に、「諸民族間の平和友好」メダルを贈呈した。友好組織連合会会長のヴー・スアン・ホン氏は言った。「4月30日の勝利はまた、皆さんの勝利です。」

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