206. 第2次訪越団 についてのベトナム側報道(その2)(02/05/08掲載)
(1)ベトナム労働党機関紙『ニャンザン』〔Nhan Dan〕(人民)紙 2002年5月1日付
(以下は、三進交易株式会社の現地事務所の沢井悟朗さんから送られてきた翻訳です。沢井さん、ありがとうございます。)
ベ平連精神はいまだ輝いている
4月30日の戦勝記念日に際し、アメリカがベトナムを侵略した当時にベトナムのため活動した日本の平和運動のリーダーと中心メンバーを含む19名のグループが、ベトナム友好団体連合会の招待で
わが国を訪問した。アメリカのベトナム戦争に反対する運動にも、日本とベトナム両国の友好団結の活動にも優れた実績をあげ、ベトナム友好団体連合会から同会の最高の賞――“諸民族間の友好
と平和”のメダルを贈られたベ平連の中心メンバーの一人、日本の著名な作家である67歳の小中陽太郎氏に面談した。
小中氏は、よく覚えるているベ平連運動に参加した時の二つの思い出について語ってくれた。第一は、1967年に19名のアメリカ兵を援助してベトナム戦争に加わらないよう日本の軍事基地から逃亡させたことである。警察は厳しく捜査したが、彼と仲間は漁船に乗りアメリカ兵を連れて逃亡させた。
第二は、1969年にストックホルム(スウェーデン)でベトナム平和会議に参加した南ベトナム臨時革命政府代表のグエン・ティ・ビン女史に会ったことである。ベトナム民族の統一団結、ベトナム革命の勝利に自信を示すベトナムの女性革命家の明るい笑顔をまだよく覚えている。
ベ平連は、日本のどんな党にも参加していない大勢の人びとを引付けた運動であり、メンバーは自分の可能性で自発的にベトナムの平和を再建するため戦争反対運動に加わった。小中氏は作家として自分のペンを使って
闘った。世界の何ヵ国語にも訳された『私の中のベトナム戦争』という本は、ベトナム戦争について感じたことが描かれている。
小中氏は1968年に始めて北ベトナムを訪問した。ベトナムに来る前は「ベトナム人はアメリカに勝てないだろう」と思っていた。爆弾で穴だらけの地面のその穴の横に爆弾を避けるための防空壕を掘っていたところや、アメリカの飛行機が爆弾をたくさん落したため紅河にかけた橋が一本も使えずとても危険だったが、ベトナム人は木の船に乗って川を渡っていたところを目の当たりにした。ベトナム戦争当時の現場に居合わせて状況を体験した。「ベトナム人の勇敢さと堅い意思」の国民性に尊敬の念をもった。「その国民性のおかげでベトナム人は幾多の困難を乗越えて、1975年4月の歴史的な日に最後の勝利を得た。今のベトナムは平和で、きれいな観光地も多いので、日本の旅行者が旅行に来たい所です。」
ベトナムの戦争はもう終わったが、世界でもアフガニスタンや中東などで戦争がまだ残っている。小中氏が言った、「戦争の全人類にかけた苦痛を世界の人民がよく理解できるよう、ベトナム戦争の惨禍、破壊された国土、不治の傷病の
人びとなどについて、いつまでも繰り返して言わなければならない。好戦的な侵略者は勝てる筈がないことを世界の人びとが信じられるよう、ベトナムの勝利を繰り返して言わなければならない。戦争を阻止するために
人びとはもっと団結しなければならない。」
小中氏は日本の中部大学で教鞭をとっている。この度の訪問で、日本の学生に教える講義のためベトナム戦争についての資料を集めたいという。保存されている戦争の証跡も、ベトナムの平和な生活も分かるよう、日本の学生
たちにベトナムに行ってほしい。ベトナムの若い人たちも日本を訪ねて来てほしい。ベ平連運動の世代が樹立した日本とベトナムの友好団結の成果を、両国の若い世代が維持し続けて欲しいと願っている。
(2)青年向けの新聞『テイェン・ホン』(先頭旗)および、『ラオ・ドン』(労働)紙5月2日
青年向けの新聞『テイェン・ホン』(先頭旗)には、「ベトナムに平和を! 日本の友人の願い」というタイトルで、同様な記事(右の図)が、また『ラオ・ドン』(労働)紙5月2日も「4月30日ベ平連戦士の戦勝デモ」という見出しの記事を掲載したそうです。
(3)ベトナム国営テレビ
なお、沢井さんからの情報によると、5月6日の午後6:20より15分の「ベ平連」についての特集番組がベトナム国営テレビ、VT1チャンネルで放映されたとのことです。
「ベトナムに全霊を」というタイトルで、カム・ティエン通りの場面から始まり、終わりは"We shall
overcome"を歌っている場面で、2度にわたるベ平連など日本の反戦市民運動訪越団の訪問先の映像やインタビューを中心に、訪越団が作製して寄贈したDVDを使ってベ平連の説明を加えているそうです。いま、そのビデオのコピーをもらえるよう頼んであるとのことで、いずれ、送られてくると思います。