165. 住民図書館、25年の歴史を終え、12月に閉館。(01/10/28掲載 、10/30に一部追加

 かつての『ベ平連ニュース』をはじめ、各地の市民運動体が発行するミニコミを収集、保存、整理、公開してきた住民図書館は、2001年12月15日をもって閉館することになり、25年の活動の歴史を閉じることにな りました。これまで保存されてきた全資料は、埼玉大学・共生社会研究センターに委譲されます。

(10/30に追加)なお、11月17日(土)の5時から、神楽坂の日本出版クラブ会館(電話:03-3267-6111)で、「ありがとう、さよなら住民図書館パーティ」が開催されます。会費 \8,000。参加ご希望の方は、住民図書館(電話:03-3313-5760)へご連絡を。

 この閉館措置について、住民図書館の館長、丸山尚さんは、同図書館の機関紙『ぷりずむ』の76号で、つぎのような報告と感謝の言葉を掲載してい ます。その全文を掲載します。   


 住民図書館閉館 25年の御支援に感謝します

 全資料は埼玉大・共生社会研究センターヘ
                              館長 丸山 尚

住民図書館は2001年12月15日(土)をもって閉館となり、同時に資料室等も閉鎖となります。これまで25年にわたって収集・保存されてきたミニコミを中心とした全資料は、埼玉大学・共生社会研究センターに委譲されます。
 会員の皆さま、カンパでお助けいただいた方々、資料を提供して下さった皆さま、その他いろいろとご支援いただい方々に、深く心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
 住民図書飴は皆さまのおかげで、25年間不充分ながらも活動を続けることができました。そして、貴重な資料類を一点も散逸することなく、共生社会研究センターにバトンタッチすることができました。

 不安定な運営を乗り越えて
  しかし、会員や関係者の中には、唐突ではないか、なぜ大学へとお感じの方もいらっしやるでしょう。そこで若干、住民図書館の成り立ちと過程、閉館に至った経緯について述べさせていただきます。
  住民図書館は1976年4月3日、東京都新宿区で産声を上げました。しかし、この頃は、会員制度や運営委員会のもとに、組織だった活動を行うという計画性はありませんでした。それだけ初期においては混乱と困難がつきまとい、これでやっていけるのかと途方にくれたこともしばしばです。 
 しかし、徐々に態勢を整えていき、後半、特に終わりの5年間は、事務部門を国会図書贈を退職された澤西事務局長に委ね、安定した運営ができた時期もあります。

 収集・公開・保存の3原則を掲げて 
 住民図書館が発足した1976年は、60年代に激しかった反公害運動や、大学解放を叫んだ全共闘運動の波は引いていました。それに代わっていのちや暮らし、人権や差別、医療や教育など、身近な生活課題に取り組む市民運動が始まっていました。
 住民図書館の活動目標は、これらのグループが活動の発展や継続のために発行するミニコミ(会報や機関紙・誌)やパンフレット、資料集、ビラ、チラシまで集め、誰でも自由に利用でき、そして後世に伝えていくという「収集・公開・保存」でした。
 残念ながら、住民図書館は終生、資料代や郵送料をお支払いすることはできませんでした。そのため、どうしても欲しい資料の入手ができないこともあり、この25年間の運動系のミニコミが大方揃っているというわけにはいきません。しかし、歴史的な骨格をなす活動と、それに関するミニコミは、おおよそ集められていると自負しています。
 住民図書館は資料代は納めませんでしたが、資料を送っていただいた場合は、本誌『ぷりずむ』を交換として送ってきました。会員に限定せず、情報センターとしての投割を、関連情報を載せることによって果たしてきました。

 行動する情報センターとして
 また、住民図書館は9回にわたって、「ミニコミ・トークイン」(ミニコミに関するシンポジウム)を開催してきました。毎年、テーマと角度を変え、現場で活躍する方々をバネリストに迎え、多くの参加者を得て出会いの場をつくってきました。
「ミニコミ・トークイン」のはかにも「ミニコミ公開講座」「ミニコミ発行者会議」など、数えあげたらきりがありません。住民図書館は“住民運動の共同資料室”を目指してスタートしましたが、単なるライブラリーではなく、市民運動の資料センター、情報センターであることを目指し、行動することを大事にしてきました。
 また、92年5月、トヨタ財団の助成を受け「ミニコミ総目録」を発刊しました。地道な調査から始め3年かけ、4,700タイトルのミニコミを収載。初めてミニコミの世界に実証的なメスを入れ、デー夕によってその存在を確認しました。(B5判上製、792頁、定価9,800円。筆者の手元に若干部数残っていますので、希望者には定価でおわけします。)

 手弁当で25年、支援あってこそ
 住民図書館は世間並みに言えは“茨の道”を歩いてきました。それを一番よく証明するのが、5回にわたる移転です。その理由の多くは「ただで借りられる」「安く借りられる」です。要するに、徹底して財政が逼迫しつづけていた、ということです。スタッフには、バイト代や交通費を払った時期もかつてありましたが、館長を始めとする運営委員は交通費も出ない手弁当です。
 住民図書館がなぜ25年続いたかについて、考えてみることにします。まず、運営委員やスタッフのがんぱりがあったことでしよう。しかし、それを支えて下さった会員や協力者の存在がなかったら、住民図書館などとっくにつぶれていた、ということです。住民図書館を支えて下さるような方々は、いまの日本のありようから言えほ、圧倒的に少数者です。わずかの人です。そのわずかな人たちの“日本を変えたい”という意志が、それを実践している人たちの出すミニコミを重視する活動を支持して下さったのだと思います。
 別の言い方をすれほ、市民の自立を支持する人が、「住民図書館ってよくわからないが、ゼニ儲けでなく自己犠牲を払ってまで苦しい運営をしている、助けてやろう」と考えられたのだと思います。また、運動や活動の当事者、ミニコミ発行者などが、多く支援して下さいました。

 共生社会研究センター、住図の理念も受け継ぐ
 埼玉大学経済学部・社会動態資料センター(現、埼玉大学・共生社会研究センター)から、全資料の委譲申し入れがあったのは、2000年の12月でした。社会動態資料センターは、97年7月にオープンし、アジア太平洋資料センター(PARC)や吉川勇一さん所有のべ平連関係のミニコミ、川崎製鉄訴訟やスモン公害裁判など、市民・住民運動の多くの資料を所蔵しています。当館からも、すでに「横浜新貨物線反対運動」全資料、日本消費者連盟から預託されていた「石油集団訴訟」に関する資料を提供していました。当館に置くより、資料が生きると思えたからです。
 全資料委譲の申し入れを受け入れるべきか否かの論議が、運営委員会を中心に始まりました。2001年2月発行の『ぷりずむ』74号で会員にもお知らせし、多くの意見をいただきました。

 将来への展望出ず決断
 埼玉大学は私たちの基本条件である、@この資料は市民の所産であり、歴史資料である。学内関係者に限定せず、誰でも、いつでも利用できることを保証する、A委譲した資料の保存だけでなく、継続して資料を収集し、資料センターとしての充実に努力する、B資料提供者との関係を重視し、人や情報のネットワークを大事にする、という3つの基本原則をすべて受け入れてくれました。
 それでも私たちは協議しました。「市民の遺産は市民が守るべき」「国立大学では、これまでの理念に反するのでは」など、反対意見もありました。こうした意見については十分に理解できます。そうしたいのは、まず一番に、私たち自身だと言えるかもしれません。
 しかし、たくさんの資料を背負って野垂れ死にしないためには、いまが絶好のチャンスだという意見も強く出ました。客観条件を考えれぱ、前途は決して明るくありません。
 年ごとの会費・カンパの減少、入館利用者の減少(下表参照)。毎年の財政赤字を埋めてきた20周年記念募金の残りも、今年で切れます。その対案は無しです。また7人の運営委員のうち、4人が65歳を超えています。先は暗いのです。
 2001年8月6日の運営委員会で、私たちは最終的決断をしました。安易に結論を出したのではありません。熟慮、熟考の結果であることをお汲みいただけれは幸いです。   

 

会費・カンパ

入館利用者

95年

 

  268人 (開館日:月〜木)

96年

2,186,000

  177人 (開館日:月・水・金・土)

97年

2,690,581

  153人

98年

2,839,053

  159人

99年

2,195,714

  206人(ホームページ開設)

00年

1,924,717

  179人

01年

 

  69人(9月5日まで)

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