141. 劇作家の斉藤憐さん、雑誌『世界』7月号にエッセイ、「脱走兵は何を見たか」を発表(01/06/11

 本ニュースNo.136 でお知らせした『お隣りの脱走兵』の作者、斎藤憐さんが、今発売中の雑誌『世界』7月号に、それと関連した文章、「脱走兵は何を見たか」を掲載されている。このサイトの「最近文献欄」で全文ご紹介したいところだが、今店頭に並んでいる雑誌なので それは遠慮し、ここでは、この斎藤さんの文の最初の15行と最後の15行、そして、途中の数行だけを引用、ご紹介するにとどめる。ぜひ、お買い求めいただくか、図書館で読むか、あるいは店頭で立ち読みされるかお願いする。

脱走兵は何を見たか
                           
斎藤 憐          

 この六月の十七日、元米軍兵士ジョン・フィリップ・ロウが日本にやってくる。
 彼がパリに向け羽田空港から出国したのは一九七〇年暮れだから、三十年ぶりの日本だ。
 フィリップ・ロウは、看護兵として横浜の岸根野戦病院に配属され、傷病兵の看護をする中でベトナムでの「汚い戦争」を知った。
 一九六八年暮れに米軍を脱走したロウは、1ATEC(反戦米脱走兵援助日本技術委員会)に助けを求めた。それから二年間の日本での生活の様子は、彼を家に匿った英文学者の氷川玲二と日高六郎が『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社刊)に書いている。
 実はジョン・フィリップ・ロウという名前は偽名だ。
 脱走中に彼は、軍隊内の非人間的生活を小説「われらが歓呼して仰いだ旗」に書いたが、一九七〇年に雑誌『すばる』に連載する際、登場人物の名前をそのままペンネームにした。……

 ……そのクリントン米大統領が昨年十一月、枯れ葉剤の後遺症の残るベトナムを訪問し、歓迎式典で「両国が共有する痛み」とあの戦争を表現した。ベトナム政府がカムラン湾を米軍基地に提供するという新聞記事を読んで、僕は脱走兵たちの芝居『お隣りの脱走兵』を書きはじめた。
 あの戦争を阻止しようと闘い倒れた若者たちが忘れられよぅとしているが、劇場は鎮魂歌を歌うことのできる唯一の場所だから……。近代に入って劇場は「情報の伝達」という機能をマスコミに譲った。しかし、テレビが権力の介入を怖れて報道を自主規制するとき、僕たちに残されているのは演劇というミニコミだからだ。……

 ……テロ集団が何万人を殺しても国家は安泰だ。しかし、戦場から脱走兵が出た事実を国家は必死で隠そうとする。頑丈に作られたダムに小さな穴が開いたら、その穴に殺到する水が穴を広げ、あっという間に巨大なダムも崩れ去る。
 だから、国家を空気のように思っている僕たちが、戦場に行くことを拒絶した時、国家はその姿を現し、社会は非国民のレッテルを貼る。祖国から脱出してみると、この地球上の陸地はすべていずれかの国家の領土で、逃げ場のないことに初めて気づく。
 国家というものは、一人一人の人間を抑圧する暴力装置だとしたマルクス主義者も、指導部と組織を作り、運動を進めていく中で、組織を守ることが至上の課題となっていく。
一九六九年七月、日本共産党は「ベ平連は反共暴力集団」との論文を発表した。……    

 ……ベトナム戦争に反対することから始まったベ平連は、脱走兵を受け入れることで、「ヤンキー、ゴー、ホーム」から「GI、ジョイン、アス」 へと成長した。脱走兵を助けたのではなく、脱走兵に学んだのだ。
 だが五年前、ホーチミン市の近くの解放戦線の掘ったトンネルに入ってみて、こんな狭く真っ暗な中に三十分でも自分は我慢できないと思った。そう、僕たちは三十年前、ベトナム人民と連帯なんかしていなかった……。
 今回の公演では、脱走兵たちの三十年前を演じるために、アメリカから若い俳優を二人呼んだ。一九四九年生まれのフィリップ・ロウも、もう五十一歳。来日した彼に、現在の日本と、紀伊国屋ホールの舞台の上の三十年前の日本人と脱走兵は、どう見えるだろうか。(『世界』2001年7月号)

 

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