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元「玉名ベ平連」の古川泰龍さん、8月25日に逝去。(00/09/26) 熊本県玉名市のシュバイツァー寺の住職、古川泰龍さん(80歳)が8月25日、ガン性胸膜炎で逝去されました。
古川さんは、無実の死刑囚の再審運動の活動で有名ですが、ベ平連の活動の中では、お子さんの竹淵愛さん、るり子さん姉妹らとともに「玉名ベ平連」をつくり、ベトナム反戦運動にもおおいに力をつくされました。1969年、ベ平連が九州各県を回って連続集会とデモのキャラバン行動を実行した際には、熊本市での集会とデモのあと、一行は古川さんの経営されていた温泉旅館「十返館」に留められ、夜遅くまで九州各地のベ平連活動家との懇談が行われました。翌日には、この古川さんのお宅の2階大広間で、ベ平連九州地区懇談会が開催されました。
以下に、最初の反戦米脱走兵が報道された時、古川さんがベ平連によせられた文章と、69年の「九州キャラバン」の熊本での行動を報じた『ベ平連ニュース』の記事を転載し、ご冥福を祈ります。
天が与えた贈りもの
古川泰龍
この度の米水兵四名の脱走事件ほどの朗報は近来にありませんでした。しかも、かねてよりその活動に敬意を表していたベ平連に助けを求めたということも単なる奇遇とばかりは思えぬ程、私にはある神秘なものさえ感じさせられました。とにかく、ベ平連の皆様には大変なお仕事と思いますが、これは天が与えたベ平連への素晴らしい贈物と思いますので、大いにこの贈物をご活用なさいまして、益々ベ平連本来の運動にご専念下さいますようお願い申しあげます。
私の長女もベ平連の仕事に微力をつくしていますが、この天与の贈物には涙を流さんばかりに喜び合いました。
(『ベ平連ニュース』1967年12月1日号)
九州キャラバンと玉名の古川さん一家
(『ベ平連ニュース』1969年5月1日号より)
熊本 (4月2日) 第六日目
朝六時半起床。小田さんを起こすが、なかなか目をさまさない。死んだように眠っている。キャラバンも六日目。連日の講演とデモ、それに深夜まての討論でさすがの小田さんもバテ気味。
七時、長崎から、フェリーで海を渡り、熊本へ。午後一時熊本着。すぐさま、無期限スト中の熊本大学へ行く。全共斗主催の講演会へ参加。五百名の学生を前にして、小田実、武藤一羊さんが話す。小田さんは、アンポ社と、週刊アンポを中心にべ平連運動を。武藤さんは、安保、沖縄、朝鮮、フランスの諸問題を一時間四十分にわたって話す。
五時四十分、市内の花畑公園に集まった七十名の市民とデモ行進。デモの出発直前に、東京から、べ平連事務局長の吉川勇一さんと、高橋武智(立教大学助教授)さんの二人が、あたふたとかけつける。六時半から、熊本城内の図書館ホールで、市民参加の集会。約二百名参加。小田実、武藤一羊、高橋武智、吉川勇一の四名の講師。高橋さんは、フランスと東大問題を。吉川さんはベ平連とは、についてじっくり話し、参加者に呼びかける。散会後、一行をのせたバスは、その夜の宿泊所である玉名温泉の十返館に向かう。十返館は、玉名ベ平連の古川泰龍ざん、竹淵愛さんの父娘が経営されておられる温泉旅館である。
小田さんは一週間ぶり(?)のお風呂だとか。一時間に四回も、くりかえし入湯し、さそわれた若い遠藤くんは、ついに浴場で倒れる。
夜、夜半過ぎまて、九州地区にあるべ
平連メンバーが、この宿に集まって、東京の小田、武藤、吉川、高橋さんなどと交流会。盛況。
ひさしぶりに、ゆっくりとくつろいだ夜であった。
玉名(4月3日) 第七日目
早朝、東京よりべ平連のメンバーである藤枝澪子さん(雑誌編集者)さっそうと到着。一瞬、みんなの顔がほころぶ。わざわざ玄関先までかけて行く男もいる。正午より昨夜に引き続き、古川さん宅の二階大広間でべ平連九州地区懇談会。福岡、長崎、佐賀、熊本、宮崎の各ベ平連が参加。佐世保問題を中心に、各べ平連の連帯を確認した。古川さん一家の努力されている死刑廃止の運動の話や、三池のCO患者についての訴えもあり一同心をうたれる。
その夜は、玉名で昨夜に続いて古川さんのお世話になった。若い人たちは、徹夜でティーチ・イン。
鹿児島(4月4日) 第八日目
九時、玉名べ平連の古川さん一家に見送られて、バスは、鹿児島へと向かう。古川さんの次女るり子さんも加わり、バスには四十名近いひとたちが乗りこんだ。八名で出発したこのキャラバンバスは、日に日に乗客がふえてゆく。小田実さんは、二晩、温泉につかったためかつかれもとれた様子で、修学旅行の教師のように、みんなの気を遣って世話をやいている。話がはずみ、もちろんフォーク・ソングも飛び出す。(以下略)