107. 「ジャテックに侵入した米軍スパイに日本警察が協力、当時の担当官が証言」との報道(『京都新聞』8月17日付)(00/08/25

 1968年11月、ベ平連とジャテックが受け入れ、国外に脱出させようとしていた米脱走兵のうち一人が米軍の潜入させたスパイであり、そのため釧路から当時のソ連経由、スウェーデンへの脱出ルートが使用不可能になったことは、すでに幾多の資料で明らかにされているが、このほど、この事件には、日本の警察当局も協力していたことを、当時の警察庁警備局幹部が証言したとの報道が、『京都新聞』8月17日に掲載された。おそらく『共同通信』の配信記事と思われるが、以下にその一部を紹介する。

ベトナム反戦米兵 海外逃亡ルート
米軍、スパイ潜入させ摘発

日本の警察も協力

 ベトナム戦争が激化していた一九六八年、反戦脱走米兵を日本から海外に逃亡させていたルートを壊滅させるため、米軍当局が脱走兵を装ったスパイを潜入させて摘発、米軍側の要請で日本の警察も協力していたことを、報告を受けていた当時の日本側警備担当者が十六日までに初めて証言した。反戦運動が高揚し、脱走兵や徴兵忌避者が続出する状況を食い止めるためのスパイ作戦だったとしている。

当時の担当官証言 

 証言によると、六八年十一月五日、ベ平連系の反戦脱走米兵援助日本技術委員会(JATEC、ジャテック)のメンバーが北海道に連れていった脱走希望の米兵二人のうち一人が、釧路市内で北海道警に身柄を確保された。
 捕まったのは脱走兵だったが、もう一人は脱出ルートを摘発するために潜入した米軍当局のスパイ。当時の米大統領にちなんで「ジョンソン」と呼ぱれていた。という。
 羽田から釧路に向かう航空機には日系の米捜査官が乗って尾行。ジャテックのメンバーらはレンタカーを借リ、捜査官は釧路郊外で見失った。このため、日本側警備当局が現地の警察には事情を説明しないまま車を手配した。
 車は予想していた根室ではなく、山間部に向かったため「ジョンソン」は途中で殺されるとの恐怖からか、ジヤテックから逃げ出し米軍に通報、脱走兵が捕まつた。
 当初の作戦では、日本についての情報を渡し密漁を黙認してもらうレポ船に、脱走兵が根室で乗り込んだところを一網打尽にする計画だったため「作戦は半分失敗に終わった」と評価された。
 また同担当官はこれ以前にも米軍当局は脱走兵の中にスパイを潜入させ、摘発しようとしたが失敗、スパイ自身も旧ソ連へ渡らざるを得なくなったことがあったことを明らかにした。
 脱走兵をめぐっては、六七年十一月に横須賀寄港の米空母イントレピッドから米兵四人が脱走、べ平連の助けでスウェーデンに入国、衝撃を与えた。六八年にはジャテックにより、レポ船による北方領土ルートで根室から四月に六人、六月に三人、九月に四人が旧ソ連に脱出した。

積極的には協力せず

 当時の警察庁警備局幹部の話  二人のうち一人が脱走兵で、一人は米軍関係者だった。脱走兵がソ連に行ってしまったので、米軍もいろいろと作戦をしたのだと思う。日本の警察は積極的には米軍に協力する気持ちはなかったように思う。日本側としてはどんなところから、どのように出国しているのか情報を把握ようとしていた。

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今ごろ出てきたか

 べ平連活動に携わった作家小田実さんの話  ここに出てくる話のほとんどすべては、当時われわれが調査し、解明した事実だ。スパイのジョンソンについても、かくまった市民の話までべ平連ニュースに書いた。当時記者会見などでスパイの存在やそれによって逮捕された米脱走兵について発表しても、日本政府や警察は「ウソだ」と繰り返し、マスコミもきちんと報じていなかった。今ごろになってようやく出てきたという印象だ。米国と日本がいかに上から下まで結託し、国民をだまし続けてきたかを示している。米国と日本の関係はあの当時と何も変わっておらず、今も同じことが行われていると考えなければならない。違法行為をした警察官は名前を明らかにし、責任をとるべきだ。

(『京都新聞』2000年8月17日)

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