第2回世界社会フォーラム(WSF2)が8万人集い、盛大に開催される

◆WSF2のオープニング

 ブラジル南部ポルトアレグレ市までは22時間の長い旅路だ。1月30日午後7時に日本をたって、31日午後2時ようやくの思いで到着すると、外は雨だった。ホテルに荷物を置いて、大急ぎでメイン会場のあるカソリック大学の受付に出向く。
 アジア地域会議の後は「平和をめざす行進」だ。出発地点の中央広場にバスで移動。すると、雨もあがり、広場はすでに色とりどりの旗・バナーと人で埋まっており、すでにデモ隊が出発している。先頭は、ブラジルの人たち。CUT(中央労働組合評議会)やPT(労働者党)など労働組合や左翼政党の大集団は、赤旗を林立させ行進している(昔の活動家なら見たら懐かしい風景だ)。それにしてもみな若くて、シュプレヒコールというか掛け声もリズミカルで思わず踊り出したくなる。
 私たちはやや後の方で、ATTACの隊列の中に入る。フランスをはじめ欧州のATTACグループ 、アルゼンチン、ブラジル、チリ、ボリビア、コロンビアなどのラテンアメリカのATTAC グループ、ほかにATTAC ケベック(カナダ)のバナーも見える。旗・バナーやバッヂが「%」マークなのですぐわかる。私たちも、真新しい薄黄色の地に濃紺の%マークをいれた「attac jp」の旗を掲げる。
 行進参加者総数は、主催者発表で5万人を超えたとのこと。午後4時30分から約2時間かけて、解散地である屋外コンサート会場に到着し、WSF?のオープニングセレモニーがはじまる。ポルトアレグレ市長や、リオグレンデ・ド・スル州知事のあつさつを受けるが、知事のオリビォ・ドゥトラへの拍手が一段と高い。実際、ここポルトアレグレ市は直接民主主義を基調とした「参加型予算システム」ということで世界的に名を馳せているが(詳しくは後述)、そのシステムを作ったのがPT市長として12年前に就任したドゥトラであった。今、このシステムが州全体へと拡大しているが、いわば地域的に「もう一つの世界」を実践しているといっても過言ではない。こうしてフォーラムは始まったのだ。

◆経済のグローバル化への抗議と911そしてWSF

 経済のグローバル化(新自由主義的グローバリゼーション)に異議申立てする運動は、1999年のWTO(世界貿易機関)シアトル閣僚会議への抗議行動を皮切りに、年毎にIMF(国際通貨基金)・世界銀行も含む国際経済機関への抗議活動が大規模化するなど、国際的な政治的うねりとして登場してきた。グローバル化推進側の企業や政治エリートたちのフォーラムであるダボス会議(WEF)に対抗して2001年1月に第1回WSFが開催されたのも、こうした国際政治の文脈からであった。
 異議申立て運動の頂点が、昨年7月のG8(先進主要国会議)ジェノバ会議での抗議行動であった。30万人もの人々によるデモ、そして青年1名の射殺という野蛮な弾圧に、欧州内ではG8無用論が公然と語られるなどグローバル化への懸念、批判がかつてなく高まった。もはやグローバル化推進側の会議は、民主主義国の都市部では開催不可能という憶測が広がる有様であった(事実今年6月のG8はカナダの山奥で開催される)。
 さらに、いっこうに改善されないどころかますます拡大する途上国の貧困、リストラが吹き荒れ増大する一方の先進国の失業者、そしてとめどなく進行する地球環境の危機−−こうした現実を招いているのは弱肉強食の市場原理主義であるグローバル化の結果ではないのかと、多くの人々が気づきはじめたといって過言ではない。
 しかし、こうしたG8や国際経済機関の窮状を救ったのが、9.11テロであった。グローバル化推進側は、この機会をとらえて反グローバリゼーションの運動はテロと同根とのキャンペーンを張り巡らした。例えば、フランスでは著名な農民運動の指導者であるジョゼ・ボベらの遺伝子組み換え作物への抗議活動に対して、彼らがいつ爆弾を持つか分からないなどのキャンペーンが行われた。このように確かに、運動側は不意をつかれ、活動の後退を強いられた。
 WSF2は、世界の反グローバリゼーション運動を担う人々がテロ事件以降はじめて一堂に会する国際会議であった。それまでに欧州では各国で反戦闘争が活発化し、また11月のWTOドーハ閣僚会議に抗議するデモ・集会がイタリア、フランス、ドイツで全国規模で取り組まれるなど、再び運動の盛り上がりを示してきたことは事実であった。しかし、ラテンアメリカの運動はどうであろうか? 本当に、当初言われていた5万人が集まるだろうか? そんな心配が脳裏の片隅にあったが、それは杞憂であった。

◆WSF2の規模と取り組まれたこと

 この会議がどれだけの規模であったか数字で見てみたい(以下の主な数字は地元の新聞から)。
 *参加者数―150カ国8万人(公式登録者15,230人、ユースキャンプ48カ国11,600人参加団体2,000) 
 *討論テーマ―210(パネリスト135人、ワークショップやセミナー数800)
 *デモ―1月31日5万人(平和をめざす行進)、2月4日3万人(反FTAA・米州自由貿易圏構想デモ)
 *ジャーナリスト数―48カ国2,400人(新聞社476、テレビ局116、ラジオ局108)
 ※日本の報道陣はNHKと赤旗新聞だけか―会場で会いました
 *ウェッブサイトへのアクセス―55万件

 このようにフォーラムは、参加者数が1万6千人(参加団体900)であった昨年と比べても5倍にもなっており、人口120万人ほどのポルトアレグレの街全域が会場となっていたため、街中がフォーラム参加者であふれていた。
 フォーラムの目的は、第一にオルタナティブ(代替案)のための会議と討論の場であり、第二に交流・連帯の場であった。会議には、ノーム・チョムスキー、リゴベルタ・メンチュー、バンダナ・シバ、ベルナール・カッセン、スーザン・ジョージ、ウォールデン・ベローなど著名な論者や多くの学者・研究家が参加した。
 交流・連帯では、社会運動を強力に推進しているATTACフランス、ブラジルCUT(中央労働組合評議会)、ヴィア・カンペシーナ(農民への道;ラテンアメリカを中心に世界各地に支部を持っている)などの呼びかけによる「反グローバリゼーションと平和のための行動」の宣言づくりが行われ、大陸別会議などを経て採択した。ちなみに、フォーラムとしての声明とか宣言は今年も出されなかったので、実際上この社会運動グループの宣言がフォーラムの運動基調をなしていくと思われる。
 また、フランスからの6人の閣僚の参加のほかに世界から多くの国会議員も参加し、世界議員会議が開催された。他にATTAC の世界会議、大陸別会議など無数の交流と連帯のための会議が行われた。夜は、有名なミュージッシャン出演による大コンサートが連日開催されていた。
 これら会議やコンサートの模様は、地元のテレビ局、ラジオ局が1日中流していたことも印象的であった。

                                    【以下、続く】