ドミニク・プリオン パリ・ノール大学の経済学教授
ATTAC学術協議会のメンバー
(ATTAC Une economie au service de l'homme、Mille et une nuits社より)
2000年8月、ラ・シオタ、夏期大学
貨幣は近代経済に一貫して存在し続ける構成要素である。しかも、仲立ちの今日の変貌と変化の結果、貨幣の論理は生産機構のあらゆるレベルで認められるように思える。われわれが自らの研究を貨幣から始めるのは貨幣のこの中心的役割のためである。
これから行う提起は以下の二つの目的に対応して二つの部分に分けてなされる。すなわち、第一は、貨幣とは何かという点に関するいくつかの基本的概念を提起しており、第二は、その投機的側面から提起される、主としてそれに何が賭けられているか、について述べている。これによって、国際的レベルでどの面において通貨の作用をコントロール−課税−する必要があるのかを示すことができるだろう。
貨幣はわれわれの日常生活で最も使われている手段である。実際、今日のような複雑で分散化された交換経済においては、貨幣は、経済計算、支払い、価値貯蓄の3つの機能を果たしている。
貨幣は第一にすべての財の価格を算定するのに役立っている。それは、異質の財の価値を測ることができる計算単位である。ある財を他の財で表わすとすれば多数の価値評価が考えられることになってしまうが、貨幣は、それを貨幣で表わしたたった一つの価値評価(名目価格か絶対価格)に還元する。貨幣を使うと価格体系が簡素化されるので、情報と計算の節約が可能になるのである。
貨幣は次に他のあらゆる財に対して直接交換可能な財、すなわち、人間労働を含めていかなる財とサービスであろうとそれらの取得を可能にする支払手段である。それは一般的等価物であると言われている。これは実際にいかなる場でもそしてすべての人によっていかなる情況でも認められている手段であって、貨幣を譲渡するだけで負債は最終的に消滅することになる。われわれの経済は、生産物と生産物とが交換されるのではなく、生産物と貨幣とが交換され、この貨幣がまた今度は生産物と交換されるというかぎりにおいて、貨幣経済である。それは、貨幣と引換えにいついかなるときにもどのような財をも取得できるという社会的合意や信頼が存在していることを前提としている。この信頼は、国家と中央銀行の権限によって補強することできるのであり、この権限によって、貨幣には法的な本位貨幣の機能が与えられるので、経済活動の担い手全体が通貨を受け入れざるを得ないのである。
最後に、貨幣は価値の貯蔵である。それは、保存することができると同時に完全に流動的なままに留まることもできる、すなわちその価値を保有することができ、しかも財やサービスと交換するためにただちに利用することもできる−−資産−−富の形態の一つである。
われわれの近代経済では、貨幣は銀行システムによって、すなわち、商業銀行と中央銀行によって、つくられる。中央銀行は、銀行券(信用貨幣)を発行する。商業銀行は、経済諸機関が銀行に保持している預金口座勘定合計額に対応する預金通貨を発行する。「通貨供給量」と呼ばれているものは、銀行券と預金通貨というこの二種類の貨幣の合計であり、このうち預金通貨が通貨供給量の90%を占めている。銀行は、自分たちの経済の融資活動に際して貨幣をつくる。そこから有名な格言「信用が預金を作り出す」が出て来た。こうして、一方における貨幣と金融との間に、他方における造幣と経済活動との間の密接な結びつきがある。
貨幣は、われわれの資産を構成している物産(不動産、耐久消費財)や金融資産(証書、株式、債券など)とは区別される。なぜなら、それはリスクのない資産であるからである。それは最も流動的な資産であると言われている。
この流動資産は次の二つの主要な特性をもっている:
−その名目価格が安定している。証書(株式、債券)や不動産とは違って、その価格は変動しない。
−取引の決済のために即座に使える。この流動資産は、費用もかからずだたちに、支払手段に変えることができる。銀行の自動支払い機(DAB)を通じて銀行の自分の口座からそれを引き出すことによって紙幣(預金通貨)を得ることができる。
貨幣は他に類を見ない以上二つの特性を備えているのである。需要と供給の変動のままにその価格が変動する不動産と金融の資産とは異なって、市場外で決定され、銀行と中央銀行とによって保証される安定した名目価格をもっている。
しかしながら貨幣のこうした特性には二つの制約がついてまわる。第一に、貨幣の安定性は、その名目価格にしか及ばず、貨幣によって取得可能になる財に対応するその購買力には関係ないということである。実際、(各貨幣単位と引換えに得られるそれぞれの財の数量に対応する)貨幣の購買力が不動産や金融資産の価格の変動に応じて変わることは明白である。たとえば、インフレーションが加速すれば、たとえ貨幣の名目価格が安定していても、各貨幣単位の購買力は減少する。第二に、貨幣の名目価格の安定は貨幣発行国でしか保証されないということである。これは国内的な貨幣の安定である。反対に、対外市場での貨幣の安定は(対外通貨の安定)は一般には保証されない。通貨の為替相場は固定されていず、現在の国際通貨体制のもとでは変動するからである。
貨幣を保有することによって自分の資産は最も流動的なものになる。このことは、なぜ経済機関が貨幣の形で自らの資産の一部を保有しようとするのかの理由を説明してくれている。流動性の概念を主張した最初の経済学者はケインズであり、彼は、『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)において、貨幣の保有を「流動性選好」の行動と解釈している。ケインズによれば、経済機関は、不確定性、いいかえれば自らが将来を予測できないこと、に対処するために貨幣を追求するというのである。以下の点の予測が不完全であるから、不確定であるというのである。
−−支出と収入の同期性。たとえば、債務者の支払いの遅れや企業の支払い不履行は、債権者に困難をもたらす。流動性資産の保有はそうした場合に、非流動性や支払不能からもたらされるリスクに対する保護をなすのである。
−−リスクある資産の価格の推移。流動資産の保有は、価値が市場で変動する不動産や金融資産につきものの資本損失を防ぐ。
貨幣を取り立てようとする者の行動を説明するために、エコノミストは貨幣の需要に関する理論を練り上げた。ケインズの「流動性選好」理論はその出発点をなす。彼によれば、貨幣を取り立ててそれを保有しようとするのは3つの主要動機に応えるものであるという。
取引動機は、当期の支出−−自企業の財とサービスの購買、賃金の支払いおよびその他の企業経営支出−−に対処するための通貨供給量の必要をカバーすることである。
予備的動機。貨幣の所有によって、収入の思いがけない喪失や予期せぬ出費の発生という形の予算上の不測の事態への対処が可能になる。
投機動機は、流動性か投資かの選択、すなわち、貨幣という安定した名目価格の保有かそれともそれとは別の不動産や金融資産という可変的な名目価格の保有かの間の裁定、を指し示す。
経済主体はこうして、リスクと収益とを考慮してそれに応じて貨幣か財や証券かを裁定する。そして、自分の資産の不動産的、金融的、貨幣的構成を定めるのはこの比較対照の最終段階においてなのである。
投機は、不動産や金融資産の将来の価値に賭けることによって、増価としての利益追求活動であると定義することができる。たとえば、私は(その価値が安定している)自分の貨幣資産を、将来価格上昇が期待できる株式と交換する。その後、私はこれらの株式を再度、販売し、株式取引の差額としての利益を実現するだろう。同じように、私は、ドルの価値がユーロの価値に対して今後上昇するだろうと期待して、ユーロをドルと交換する。自分の賭けの正しさが立証されれば、私は投機利益を実現できるだろう。
投機はこのように貨幣の運動の中心に位置している。そして、この事実は、後で見るように、とりわけ国際的レベルで確認される。投機活動は、生産機構の作用と直接的な結びつきを持たず、それは完全に金融的な性格を帯びる。投機の枠内で実現される利益は、実際の富の生成に対応するものではない。この理由から、マルクスは投機に投入された金融総体を「擬制資本」と呼んだ。投機の本質的な側面は、投機が貨幣の分野と経済の実質的な分野との間の不一致となって現われることである。したがって、2種類の貨幣的富の生成がある。一方は、生産的経済(投資、消費)への資金調達の結果として得られる「正常な」貨幣的富の生成であり、もう一方は、投機に、すなわち、非生産的用途に融資する「寄生的」な貨幣的富の生成である。
後の分析において、われわれは、一般の分析が主張していることとは反対に、貨幣が通常の財ではなくて、その「両義性」の原因となっている貨幣の特殊性が貨幣の作用に対する(とりわけ課税を通じた)公的統制を正当化しているという点を示すつもりである。
貨幣の本質は経済学者の間の論争の種である。その支配的観点は、貨幣が交換費用を減らすことができるから存在しているというものである。物々交換経済の原則に従って機能する、貨幣なき交換経済においては、経済主体は大きな取引費用を負担しなければならない。
貨幣が実現する大革新が生起するのはこの点においてである。貨幣は、信頼を生み出すと同時にその価値も安定しているので、すべての人に受け入れられる交換手段である。だから、それはどんなときでも他のどんな財とも交換できる唯一の財なのである。貨幣はこうして、供給と需要が集中される場としての市場の組織化を促す。貨幣がなければ、市場は効率的に機能することはできない。
歴史的に、商品交換の発展は通貨革新の出現と並行して進んできた。18世紀初め、イタリアとフランドルの商人は預金通貨という方式をますます頻繁に利用るるようになった。この利用は定期市の資本の出現を促した。これが市場経済の最初の形態である。
貨幣をもっぱら交換を促進するための手段であるとみなすということは、貨幣の中立性という考え−−これが新古典派理論における中心的思想なのだが−−と対をなしている。流通における貨幣の発展は価格水準に影響を及ぼすが、それ以外の経済領域には影響を与えないのであり、貨幣と経済の「実質的」分野との間は二分されているというのである。
その真の本質を理解するには、貨幣に関するこの伝統的な限定的概念を乗り越えることが不可欠である。実際、貨幣の役割は厳密に経済的、金融的論理だけに還元されるものではない。さまざまな社会科学(歴史、社会学、人類学)の助けを借りたより広い概念に従えば、貨幣は異なるさまざまな人間社会によって作り上げられた社会的制度であるとみなされる。貨幣は単に経済活動を促進するためだけのものではなく、社会関係を調整するものためのものでもある。
この概念の最も重要な意味の一つは貨幣の二重的性格の承認である。一方で、貨幣は、利潤追求に駆り立てられている民間の銀行や企業によって発行されるがゆえに、私的財である。だが、他方で、貨幣は、それが集団的性格のサービスを行うかぎりにおいて、公共財でもある。以上の二つのサービスは、いかなる人もそれから排除されることもないし、いかなる人もその決済共同体のすべての成員に利益をもたらすという意味において、不可分である。貨幣は、積極的な外部性を広める。その使用価値は、それが多数の主体によって使われるだけに、より大きいのである。
貨幣が公共財であるという事実は、貨幣が市場メカニズムだけによっては規制することはできず、集団の利益を代表する政治的権力によって管理されなければならないということを意味する。
公共財および社会的機関としての貨幣は、社会の政治的組織化に従う。実際、歴史が示すように、貨幣は政治権力が次々ととってきた形態と緊密な関係を保持する。たとえば、「貨幣を鋳造する」権限は、ブルジョアと共和国によって造幣が行われる前は、封建貴族の手から君主の手に移ってきた。長い間、貨幣の鋳造は君主に富をもたらした。そして、さらに重要なことに、貨幣は政治権力によって統合の手段として使われてきた。フランスの歴史は、貨幣と全土での単一の支払い制度が存在するようになった時点でわが国が政治的に統一され、真の経済的な場として形成されたことを示している。貨幣が商品交換の平和的発展を強めるとともに、それを利用する共同体のための共通基準の一つの構成要素を形成しているからである。
ユーロは、なぜ通貨が同時に政治的、社会的制度でもあるのかという理由を示している。欧州通貨は、その支持者によって欧州建設の主要構成要素として提起されてきた。「単一市場、単一通貨」(1990年)というそのイメージをほうふつさせるタイトルがつけられた欧州委員会の報告によれば、単一通貨は単一欧州議定書(1987年)によって創設された大欧州域内市場が機能する上で必要であるという。そこには、貨幣が統一価格制度を通じて製品の場を均質化することによって市場に凝集力を与えるという考え方を見出すことができる。
ユーロはまたヨーロッパにおける社会的統合のベクトルとしても登場した。2002年から全欧州市民がユーロを利用することは、市民に対して、共通の規則と言語を持つ同じ社会に属しているのだという感覚を抱かせることになるだろう。ユーロはヨーロッパというひとつのアイデンティティーの創造に貢献し、別の決済共同体に属する人と自分との区別を可能にするだろう。ユーロの以上のような社会論理的、アイデンティティー的側面は欧州通貨同盟の創設者たちによって大きく過小評価されてきたのである。というのも、これらの創設者たちが吹き込まれてきた支配的な貨幣分析は、貨幣を経済的、金融的手段だけに還元してしまう貨幣観を基礎にしているからである。
だから、なぜマーストリヒト条約から生れた欧州建設が政治面で未完成のまま出現したのかの理由も次のように説明できる。欧州通貨同盟加盟諸国はそれぞれが独立した各国中央銀行の手中に集中される一つの統一通貨権力を打ち立てたが、同じ域内レベルにおける一つの政治権力は備えていないからである。この制度的不均衡を最後まで維持し続けることはできない。なぜなら、EUは、通貨の領域にすぎないのであって、その主権を認める上で必要な民主的属性を本当には備えていないからである。
一方で、経済的取引の不安定性を減らすために貨幣が存在している。貨幣のこの本質的機能は異なるさまざまな立場のエコノミストによっても認められているところである。だが、他方で、われわれが示したように、貨幣はまた投機の手段であり、したがって不安定と不確定さの要因でもある。実際、1930年代の恐慌であれ、1987年の株式市場のクラッシュであれ、1990年代末に新興工業諸国の大部分で猛威を振るった金融危機であれ、投機は金融危機の主要原因の一つである。
この悪循環から抜け出し、貨幣が「不確定さを少なくする」役割を果たすことができるようにする唯一の手段は、投機に反対して闘うことである。そして、投機を減らす最良の手段は、通貨市場と金融市場を厳しく統制することである。市場は、ひとたびそれに委ねられてしまうならば、今日たいていの場合がそうであるように、自己調整することも、投機型の活動そのものによってなされる過剰な役割を制限することも、できなくなる。したがって、強力な公的調整を実施する必要があり、これは、金融活動に対する再統制、厳しい統制、課税といったいくつかの形態をとり得る。
20世紀後半における国際通貨システムの運営は、どの時点で厳密な調整への復帰が不可欠になったのかを示している。第二次世界大戦直後、国際通貨システムは、資本に対する統制と固定為替レート政策を伴った強い公的調整を基礎に組織された。その結果、国際通貨の相対的な安定が生れ、それが1970年代半ばまで国際貿易の発展と数多くの諸国の成長を促進した。その後、金融自由化政策(資本に対するあらゆる統制形態の廃止)と主要通貨間の為替レートの安定という目的の放棄は、不安定と危機の時期を繰り返し作り出すことになった。こうした最近の経験から教訓を導き出す必要がある。
貨幣の3番目の両義性の形態は、新しい公的調整形態を正当化するものである。実際、一方で、国際通貨が存在しないので、すべての通貨が強い領土的、国内的基盤を持つ。これらの通貨は、一国またはある国家グループによって(ユーロの場合)発行され、自らの「通貨的主権」を行使するものと想定されている国民国家によって原則的に統制される。だが、他方、各国通貨は、資本の世界市場の出現に表現される金融グローバリゼーションの過程のために、世界経済レベルで、自己の通貨発行圏の範囲を超えて、ますます流通するようになっている。
この発展はきわめて重大な結果をもたらしている。われわれはまず何よりも各国通貨間の変動為替市場に見合う大規模な正真正銘の爆発を目撃してきた。為替取引の毎日の金額は、1兆6000億ドル以上であって、これはフランスの国内総生産を上回る。為替市場は全面的に自由化された市場(統制されていない市場)であり、現存する最大の市場である。それに加えて、国家の通貨に対する調整権限は、一方では自国の国境内でしか自国の通貨を調整し統制することができないというかぎりにおいて、他方では為替取引を自由化することによって国家が意識的に統制手段を奪われているというかぎりにおいて、大幅に減少している。反対に、われわれは、その介入の場が国家を超えたものであり、このために各国通貨当局に比べて戦略的に優位な位置にある大規模な民間の多国籍企業的主体の力が増大するのを目撃してきた。こうして、市場による私的な調整が公的通貨調整よりも優位に立つようになった。一部のエコノミストはこの過程を通貨管理の「民営化」と呼んでいる。貨幣のこの民営化の重大な結果のひとつは、貨幣に対する投機的取引の目覚ましい発展である。これが為替市場の大爆発の主要原因なのである。
少数の銀行と国際投資家の手中に集中した市場と民間金融のこの支配に直面して、国家が安定した均衡ある通貨体制を回復することを望むなら、たった一つの解決策しかない。すなわち、これまでは過剰な自由が市場に委ねられてきたが、国際的レベルでの新しい公的調整の形態の再導入を通じて、市場におけるこうした過剰な自由を手直しするために、協力することである。
自由主義的グローバリゼーションは国際的レベルでの資本移転の全面的自由として現われれているのであって、これが投機の全世界的な拡大を可能にしている。労働者に対する、そしてまた開発と工業化の途上にある諸国に対抗する、金融界と企業界との新しい同盟が結ばれた。企業利益の増大は、成長に貢献する代わりに株式への投資を増加させる。多くの市民やATTACのような団体が抗議しているのは、投機を目的する世界経済のこの変化に対してである。これらの人々は、トービン税を、投機の主要形態の一つ、すなわち通貨に関わる投機形態、に対して闘争するための単純明快な手段であると見ている。投機家は通貨の崩壊を引き起こしても、もうけることをためらわないし、たとえ結果として何百万人もの人々が困窮に陥ることになっても、そうするのである。投機が引き起こす社会的損害を修復するために投機利益の一部を取り戻し、自由主義路線の支持者の傲慢さに打撃を与えること、これこそトービン税が世論を引きつけている理由なのである。
その原理は簡単である。通貨への通常の投機は、たとえば、利益を得るためにある通貨を売り、その後、それを安い価格で買い戻すことである。1日の通貨売買額を増やすことによって、投機家はできるだけ大きな利益を実現しようとする。だが、(トービン税が実施されるならば)、通貨を売買する度に、投機家は予想される利益に対応する税金を支払わなければならなくなる。投機はもはや割に合わなくなる。投機家は、膨大な売買を行ったときにしばしば税金を支払うことになるだけに、取引をよりいっそう思いとどまることになるだろう。外国と貿易したり、外国に投資している企業は、それに比べて通貨取引を行う頻度がはるかに少ないので、トービン税によってこのようなペナルティーを課されることがないだろう。結果として、トービン税はその目的によくかなうことになる。投機には課税するが、生産的経済には課税しないということになるのである。
トービン税は、たとえ投機のすべての形態に終止符を打つができず、すべての問題を解決することもできないとしても、それを導入すればきわめて大きなプラスの政治的インパクトを与えることになろう。この数十年来、自由主義路線の支持者は次のことをあくまでも立証しようとしてきた。すなわち、経済は「自然の」法則に従うものであり、市場の全能の力に反対するのは有害である、と。その政策が実施され、悲惨な結果が引き起こされた。しかしながら、これらの人々はあくまでも自分の主張に固執している。自由主義路線を支持する人々がトービン税に対して激しい闘いを挑んでいるとすれば、それはトービン税が表わしている危険を理解しているからである。この税を導入することは、投機が有害であること、市場が間違いを犯すこと、市場が公的力によって統制されなければならないことを認めることである。トービン税支持者にとってなお悪いことは、この税を支持する人々が勝利してその結果としてこの税が導入されるならば、それは社会の闘争を、そしてまたもうひとつの世界が可能であると考えているすべての人々を、全世界的レベルでとてつもなく励ますことになるだろうということなのである。この砂粒(トービン税)が機構のメカニズムに歯止めをかけることができるだろう。
トービン税は互いに矛盾するさまざまな批判の対象となっている。このことは、新自由主義的路線支持の立場に立つ中傷者の首尾一貫性のなさ(そしてまた当然にも欺瞞)を示すものである。一方で、とりわけマネタリストの経済学者ミルトン・フリードマンによって次のような反論がなされている。すなわち、トービン税はきわめて強力な効果を与えるので、それは国際貿易に不可欠な為替市場を破壊するだろう、なぜなら、トービン税は市場の円滑な機能に必要な投機を抑圧するからである、というのである。その考え方は、投機家は、リスクある情勢のもとでの外国通貨の売買を受け入れることによって、たとえば、外貨(これは外国への販売の成果である)を売りたいと望んでいる輸出業者がそれと引換えに資金を見出すことができるようになるという意味で、市場に流動性をもたらしてくれるだろう、というものである。この主張に対しては反論を提起することができよう。投機の不十分さよりもむしろその過剰な発展(取引の80%が投機である)の方が今日、国際通貨の不安定と危機の原因なのである……。
反対に、2番目の一連の批判は、トービン税が技術的理由からも政治的理由からも非現実的であり、効き目のないものになるだろうという考えにもとづいている。政治的障害とは、主要な金融大国、基本的にアメリカとイギリスがこの政策に反対するであろうし、そのためにこの政策は国際的な投機から引き出し得るであろう税収を大幅に減らすことになるという点である。この主張に対する反論は容易である。主要工業諸国の政府が投機家にとって大幅に有利となる全面的な金融自由化を決めたのは、政治的決定を通じてであった。政府が、金融自由化の破産を認めて、自らの政治的意志を体現した新しい法令を通じて、国際金融取引への課税と調整を決定することを妨げるものは、何もないのである。この問題については、ユーロ圏12カ国は、トービン税の実施を一方的に決定するための十分に広大で強力な経済的、政治的な統一を形成している。単一通貨によって、ヨーロッパ通貨相互間の投機と不安定性の除去が可能になった。今日、この論理を最後まで推し進め、ユーロと他の通貨との間の投機を取り除かなければならない!
トービン税に対する技術的反論は受け入れ難いものである。この反論は2つの主要議論に依拠している。一つは、数週間で20%か30%を上回る利益を見込んでいる投機家の投機を断念させるためには、しばしば引合いに出されている0.1%や0.25%を大きく上回る非常に高い税率が必要になるだろうという主張である。それに対する反論。投機の重圧の度合いによって決まる累進的率の税を作成することは技術的に可能である。もう一つは、技術と金融の革新(先物・オプション市場)によってトービン税を容易に迂回することができるだろうという主張である。実際には、銀行機密の撤廃、銀行やコンピュータ処理される支払いシステムや金融天国に対する監視の強化だけで十分に税の実施を管理できるだろう。
トービン税の擁護者にとって、この税が投機に対して闘うために実施すべき手段にすぎないだろうことは明白である。われわれの目的は、より一般的には、もはや資本の全面的自由が存在せず、市場と民間主体が公的権力によって厳しく統制されるような国際金融システムを再建することである。
0.1%の固定税率によって2500億ドルの年間収入が得られるだろう。残念なことに、この税収を投入しなければならない余りにも多くの必要が存在しているのだ! 南北間にできている溝が今後、現代の中心的問題になりそうである。この問題は北の諸国内部にさえ生れている新しい形態の貧困と排除の爆発とも関係している。この税の最良の活用は、この税収の大部分を、自由主義的グローバリゼーションの災厄の犠牲となっている国や地域での人的開発(教育と公共医療)に注ぐことではないだろうか?