ATTACニュースレター日本版2002年第39号
Sand in
the wheels
Weekly newsletter - n°148 –
Wednesday 09 October 2002.
対案から政策へ
FROM ALTERNATIVE TO POLITICS
「サンドインザホイール」(週刊)
2002年10月9日号(通巻148)号
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目次
1- (ウォールデン・ベローの近著への書評)グローバリゼーションへの対案は何か(What Alternative to Globalization?)
・・・現在、どのような大衆運動が登場しようとしているのか? それは、特定の問題に対応した運動ではなく、資本の有力な代弁者に照準を合わせた運動だ。もっと顕著な特徴は、その運動はいまや資本家たちの国際的な集まりに必ず押し寄せるようになっている。すでに9・11よりも前から、大統領や蔵相が国際的な会議を開くためには、何万人もの抗議デモに備えて要塞化された場所が必要になっていた・・・(2013語).
2- IMF が「持続不可能な」グローバル不均衡を認める(IMF recognises
"unsustainable" global imbalances)
IMF は「ワールド・エコノミック・アウトルック(World Economic Outlook)」最新号のレポートの中で、世界経済における赤字国(主要に米国)と黒字国(EU諸国、日本)の間の不均衡の拡大についての憂慮を表明している。本稿では、IMFのレポートの婉曲表現や現状の過小評価を超えて、忍び寄る世界経済の破滅の実際の規模について明らかにする。大きな魚が小さな魚を食べ尽くした後はどうなるのだろうか? 次には大きな魚が飢え死にするのだ。[IMF の"World Economic Outlook" 2002年9月号は下記からダウンロードできます。
http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2002/02/index.htm(英語)](1222語).
3- 戦争は政治だ(War is politics)
おそらく私たちは、9・11に実際に何が起こったのかを30年か40年後に、(もしそのときに地球と民主主義がまだ存在していたらの話だが)理解できるようになるだろう。しかし、9・11は起こったのだ。私たちはいつでも、絶妙の弁証法を駆使して「何も変わっていない」そして「何も以前と同じではない」と述べることができる。テロリズムに反対する戦争は、永久的なグローバル戦争、無限の戦争、そして柔軟な戦争の開始だった。・・・(2174語).
4- 波乗りをしているの、それとも溺れているの? サミットへの無関心の政治経済学(Waving or Drowning? The
Political Economy of Summit Cynicism)
この2ヵ月間の報道を見ていると、世界の出来事がどのように分類され、重要度に差が付けられるのかがよくわかる。差が付けられること自体が問題なのではない。それは権力について何かを教えてくれる - 知識の階層秩序がどのように分裂させられた世界を維持するのに貢献しているのかをである。英国では、たとえば「ザ・タイムズ」紙は8月25日から9月5日までの間に、地球サミットを一面トップ記事で取り上げたのは一度だけだった。・・・(1915語)
5- ブラジル労働党の参加型予算の実験(Brazil’s Workers Party Tries ‘Participatory Budgeting’)
ブラジルでまもなく大統領選挙の投票が行われる。もし労働党が勝利するなら、南アメリカ最大の国に、労働運動から生まれ、労働者や貧困層の運動の組織化のために献身してきた党の政権ができることになる(1130語)
グローバリゼーションへの対案は何か
What Alternative to Globalization?
By Victor Wallis
[書評:Walden Bello, ”The
Future in the Balance: Essays on Globalization and Resistance"(Food First Books, 2001. xviii + 264 pp.; $13.95)]
[「フォーカス・オン・ザ・グローバル・サウス」http://www.focusweb.org/publications/2002/what-alternative-to-globalisation.htmより]
現在、どのような大衆運動が登場しようとしているのか? それは、特定の問題に対応した運動ではなく、資本の有力な代弁者に照準を合わせた運動だ。もっと顕著な特徴は、その運動はいまや資本家たちの国際的な集まりに必ずに押し寄せるようになっている。すでに9・11よりも前から、大統領や蔵相が国際的な会議を開くためには、何万人もの抗議デモに備えて要塞化された場所が必要になっていた。
しかし、このような抗議行動に参加する人々は自分たちをどのように政治的に定義しているのだろうか? 彼ら/彼女らが反対している機関について、彼ら/彼女ら自身はどのように理解し、どのような対案を考えているのだろうか? このような問題に対する答えは複合的であり、しかも非常に流動的であるが、Walden Belloがこれらの問題に答えようとする知的リーダーの1人であることは間違いない。
”The
Future in the Balance”(「不確かな未来」)は、グローバル化の問題について、彼がこの4年間に書いてきたエッセイ、コラム、インターヴューの集大成であり、WTOから1997年のアジア金融危機、「持続可能な発展」をめぐる論争まで、広範なテーマにわたっている。その意味で、この著書は運動のための重要な文書である。本書の中で彼は、第三世界、とくに「アジアの虎」と呼ばれた諸国の経済がいかに崩壊させられたのかをわかりやすく説明している。
そこには主要な国際金融機関が投機的融資によって第三世界経済に及ぼす影響を描いている。本書はネオ・リベラリズムについて知るための信頼できる入門書ガイドとして読まれるかもしれない。その限りでは彼の立場は確固としている。しかし、彼がそれを越えて、より構造的な問題を論じている部分は、議論の余地があり、そうした議論は政策提案と関連するために、非常に重要である。
BelloはWTO、IMFそして世界銀行に反対の立場をとっている。そのうえ、多国籍企業に対しても同様である。「超大国間の相互的枠組みがグローバル・ルール全体を作り出している。(P31)」従って、途上国の利益はそのような構造によって妨げられている。こうした国際機関の「改革か廃止か」という戦略的議論において、Belloはラディカルな立場をとっている。しかし、一方で彼は反資本主義的な立場については慎重な態度を取っている。
また、彼は環境保護のための規制の必要性を認める一方で、米国等の大国が言い出した一方的な規制には反対である。彼はそのような動きが、大企業に反対する運動によってもたらされたということに言及しない。彼によれば、こうした規制は途上国の企業の輸出を妨げる危険性がある。ここでは皮肉なことに、BelloはWTOと同じ立場に立っている。
確かに、先進国の環境運動活動家は途上国経済に対して環境規制が及ぼす影響を考慮する必要がある。もし、途上国が環境保護のために(たとえば亀を保護するために)、経済発展上の制約を受けるとすれば、途上国がそのようなニーズを満たすために何らかの補償的な措置が必要である。その点ではBelloは正しい。しかし、第三世界の人々の福祉とエコシステムが、グローバル市場の「すきま」を求める途上国の輸出産業の利益といつまで共存できるのかという問題をBelloに尋ねたい。問題は、途上国の発展をいつまで市場のコントロールに委ねるのかということである。
・・・今日、新しい運動が登場しようとしており、求められているのは権力の現実を理解することである。Bello
はいくつかのポジティブな提言を行っている。それを貫いているのは「輸出のための生産からローカル市場向けの生産への転換」というテーマである。・・・
問題は、Belloが提案している内容ではない(その多くは、進歩的立場からは全く異議はない)。Belloが概括的に定式化したプログラムは、ほとんどすべての人に何かを提供しようとしているが、「量の質への転化」の問題(どの程度の再配分を行うのか、経済発展にどの程度の制約を設けるのか、民主的な選択の余地はどの程度なのか)を意図的に避けている。これらの問題の背後には重要な問題、誰が(どの社会階層)がそのような変革を実現できるのかという問題がある。・・・
Belloの経済問題に関する議論は概して適切で、多くの事実に裏付けられているが、一貫性の欠如を免れていない。それは彼の目標に矛盾を与えている。途上国問題の主要な部分は世界市場への依存を減らす事であると言いながら、その一方で国際的な環境規制の批判は輸出国の保護と拡大を根拠にしている。彼は地域の自治に評価を与えているが、それを実現する為に必要な条件の検討を怠っている。「持続可能な開発」のようにあいまいな表現に終始している。いったい、誰のために持続可能であるのか、どういう意味なのかが未調査のままである。
Belloは序論の結びでローザ・ルクセンブルグの「バーバリズム」に対する警告に言及しているが、彼女がバーバリズムに対する唯一の可能な対案として提唱している社会主義については言及していない。
IMF
が「持続不可能な」グローバル不均衡を認めるIMF
recognises
"unsustainable" global imbalances
By
Nick Beams
米国財務長官のポール・オニールによると、米国の収支赤字の拡大には何の心配もないそうだ。しかし、IMFなどの国際金融機関はそのように楽観的な認識ではなさそうである。IMFは遅かれ早かれ米国対外赤字の拡大は国際的に深刻な影響を及ぼすだろうと警鐘を鳴らしている。
IMF は、「ワールド・エコノミック・アウトルック(World Economic Outlook)」9月号の中で、世界経済における赤字国(主要に米国)と黒字国(EU諸国、日本)の間の構造的不均衡の拡大についての詳細なレポートを発表した。このレポートの序文の中でIMF調査部長のケネス・ロゴフは「・・・工業諸国内における不均衡が持続可能かどうか」を判断するために調査を行ったと述べている。そして、歴史が示すところでは、それは持続可能でないという結論に達した。IMFの調査によると、現在の黒字国(主要にユーロ圏と日本)と赤字国(米国等)の経常収支のギャップは、世界のGDPの合計の2.5%に達している。これは戦後最大の規模である。・・・
国際金融システムは基軸通貨が対外的に強い場合に安定し、逆に弱いと不安定となる。米国の金融状態がタイトな状況にあるというのは控えめな言い方である。現在の負債総額は2兆3千億ドル、GDPの23%に達する。このままいけば、2007年までに対外赤字が2倍になり、GDPの40%近くまで膨れ上がるだろう。
米国は、国際収支赤字拡大の結果、1日につき10億ドル以上の資金の流入を必要としている。1995年から今年の初めのように、ドルの価値が上がりつづけるならこの流入は維持できるだろう。しかし、状況は一転した。
米国への資本の流入と、それに伴うドルの価値の上昇は、利益が増えるだろうという期待感が根底にあった。資本がより多くの利益を求めて集まってくるとドルの価値が上がり、キャピタルゲインを狙った外国投資家を呼び込む。そしてまた資本の流入を招く事になる。
しかし、このプロセスは終焉し、新たな経済危機を引き起こしかねない。予想される危機の規模については、IMFのレポートに示されている。もし1995年以来のドルの価値の上昇と逆のことが起これば、米国に資産をもつ外国人は米国のGDPの10%に相当する損失を被るだろう。
IMFのレポートでは触れていないが、ドルの価値が下がれば、一層の下落を警戒して、米国から大量の資金が流出する可能性もある。
持続不可能な借り入れ
IMFの報告が明確に述べているように、債務国の国内需要の増加と生産のギャップがいつまでも続くことはできない。いえば、米国は所得を超える支出を埋め合わせる為に借り入れを続けることはできない。国内需要は減少せざるをえない。
1980年代後半には、ヨーロッパと東アジアにおける需要が緩衝材となったが、現在はユーロ圏とアジアは急速に減少する需要を緩和できる状況にはない。
しかも、ユーロ圏には米国に代って世界経済を牽引する力はない。それどころか、最近の数字では、ユーロ圏の米国市場への依存は一層深まっている。・・・
エコノミストたちの予想では、ユーロ圏における経済成長率は第二四半期で年率換算で1.4%、第三四半期にはより悪化するだろう。ドイツの成長率もまた収縮している。ユーロ圏では、通貨が強くなったことと[対ドルレートの上昇]、株価の下落によって、需要が収縮している。日本の状況も日本銀行によるやけっぱちの金融政策でさらに悪化している。
ドイツと日本の経済の長期的な停滞によって、IMFはドルの下落と米国の需要の減少を他の地域における需要増で埋め合わせることによって正常な状態に回復させるというオプションを使えない。むしろ、ドルの急落、米国需要の減少に続いて、ヨーロッパやアジアにおける対米輸出の減少に伴って世界的な需要の減少、そして世界的な不況の深まりへと向かう可能性のほうが大きい。
戦争は政治だ
War is politics
By Giorgio Riolo
(ATTAC イタリア全国評議会)
おそらく私たちは、9・11に実際に何が起こったのかを30年か40年後に、(もしそのときに地球と民主主義がまだ存在していたらの話だが)理解できるようになるだろう。しかし、9・11は起こったのだ。私たちはいつでも、絶妙の弁証法を駆使して「何も変わっていない」そして「何も以前と同じではない」と述べることができる。テロリズムに反対する戦争は、永久的なグローバル戦争、無限の戦争、そして柔軟な戦争の開始だった。
米国
米国は最も控えめに言っても、奇妙な国だ。彼らは平然とした無関心、恥知らずなカウボーイ・スタイルの残虐行為と、永遠の子供のような純朴さを結び付け、いつも全ての行動に道徳的な意味付与をしようとする。「テロに対する聖戦」はついに、彼らの戦略に「正当な」出発点を与えた。・・・
米国は70年代の後退を経て、80年代初めにレーガン政権の下で世界の支配権を再獲得してきた。・・・その基本的な主張は「米国人の平均的生活水準が侵されてはならない」ということである。その約束を実現するために、米国は自分たちのために十分に世界の資源を確保しなければならないというのである。ベルリンの壁が崩壊し、社会主義が終焉を迎え、冷戦が終結したが、世界平和と民主主義は実現せず、現出したのは米国の一極支配だった。それは強大な軍事力を基礎にした米国の覇権、あるいは帝国主義の新しい段階と言うことができよう。
テロリズム
逸脱、不従順そして反体制的なアクションはテロリズムと捕らえられる。ネオ・リベラル的なグローバル化を批判する動きは犯罪とみなされている。ゆえに、特に米国で多国籍企業や超国家的企業を反対する事また国際マフィアのようなG8、IMF、世界銀行、WTOなどの国際機関に疑問を呈する事はテロを支援している事とみなされるのだ。
新自由主義と戦争
以前世界は二つかそれ以上の巨大な力で成り立っており、ゆえに調停と言った事が必要不可欠であった。そして政治はその調停、交渉、多様な利益や立場の調整を図るいわば芸術であった。しかし、一極体制のもとでは戦争が目的を果たす最適の目的であり手段である。そして戦争はネオ・リベラリズムの失敗を隠す手段として用いられている。
戦争とは何か?
戦争とは、単に戦場で戦うだけではない。軍隊、司令官、法律と言ったものだけではないのだ。また防衛費における5350億ドルのスキャンダルのことでもない。計画、戦略、爆弾と言ったような事でもない。戦争とは交渉の終結を意味する。批判的思考法の終わりである。戦争は権利行使の最強の手段である。戦争はメディアによって押し寄せる、行き過ぎた言葉遊び、虚偽、偽善、皮肉の波である。戦争とはデジタルの勝利。人類の多様性の否定である。そして、戦争とは教育である。人々を一箇所に集め、妨害をせず、命令を聞かせコントロールする事を教えるのだ。
左翼
イギリス労働党のトニー・ブレア首相はそんな世界政治における戦争の勝者の一人だ。この好戦的な左翼はバルカンにおける戦争で主導的な役割を果たし、米国に協力しヨーロッパを戦争に巻き込んだ。
イタリアの左翼民主党については、状況は変化した。この党は政権を離れ、草の根の党員たちは立場を変えた。しかし党のリーダーたちは、一部の例外を除いて態度を変えず、「超党派」のアフガン戦争支持決議に賛成した。「超党派」とは変質のことである。それは価値の喪失、政治の終わり、政治の安楽死である。トニー・ブレアはそうしたネオ・リベラリスト左翼の象徴である。それは、左翼であることの意味を定義しなおすことを迫る「生ける警鐘」である。
文明とバーバリズム
ベルルスコーニ政権に参加している野心的な死刑執行人たちは、「テロリストのバーバリズム」との戦いのために世界から兵士を募っている。教育相のレティシア・モラッティは9・11の直後に、全国の学生と教員に宛てた書簡で、「西洋文明の価値と寛容・・・」を強調した。しかし、実際には西洋は外に対しても内に対しても残虐を繰り返してきた・・・
今日、文明かバーバリズムの選択は日々の問題となっている。ここではローマ帝国とのアナロジーが有効である。ローマ帝国の末期・古代世界の終焉の始まりの時期には、支配を維持するための恒常的な戦争が行われ、破滅的な結果をもたらした。今日では、別の結末が可能かもしれない。・・・過去には中産階級の中から、人類の文明化という潮流があった。その当時、発展という考えには、地球上すべての人々の幸福への約束が含まれていなければならなかったからである。今日、皮肉っぽく、略奪主義で、教養と文化を知らない中産階級(ハングストロームやベルルスコーニのような人たち)が世界中にはびこっている。社会の計画もなければ、ヴィジョンも持たない人々である。
「我が亡きあとに洪水よきたれ」
今や世界規模でネオ・リベラリズムの支配、戦争、経済利益や自然破壊に取って代わる政策、オルタネイティブ構築の動きが広まっている。ネオ・リベラリズム主導のグローバル化に反対し多様な文化や多彩な人々による運動は現在の不正義で不道徳な秩序に対する効果的なオルタネイティブを発展し実現させるために尽力している。
ミシェル・ボー[「大反転する世界-地球、人類、資本主義」の著者]とFrancois
Houtart[ベルギー、三大陸センター所長]が言うように、資本主義が有機的に展開する運動であるのと同様に、この運動はより多くの人々を引き付け、社会的階級、階層、そして人々を、搾取に対する倫理的な革命に巻き込んでいかなければならない。この運動は必然的に戦争に反対する。そして伝統的な平和主義を受け継ぐ。新しい平和主義は、ネオ・リベラリズムへのラディカルな批判から生まれる。
波乗りをしているの、それとも溺れているの? サミットへの無関心の政治経済学
Waving or Drowning? The
Political Economy of Summit Cynicism
By Jamie Morgan
この2ヵ月間の報道を見ていると、世界の出来事がどのように分類され、重要度に差が付けられるのかがよくわかる。差が付けられること自体が問題なのではない。それは権力について何かを教えてくれる - 知識の階層秩序がどのように分裂させられた世界を維持するのに貢献しているのかをである。英国では、たとえば「ザ・タイムズ」紙は8月25日から9月5日までの間に、地球サミットを一面トップ記事で取り上げたのは一度だけだった。それはデービッド・ベッカムの次男誕生のニュースに圧倒された。
サミットの失敗について、責任あるメディアは、ニュースがないことの背景について分析するべきである。
知識の階層秩序と分裂させられた世界
この期間に、イラクをめぐるニュースが大きく取り上げられ、地球環境サミットが軽視されたということは、古い「ハイ・ポリティックス」と「ロー・ポリティックス」の分裂がいまだに維持されていることを表している。つまり、「ハイ・ポリティックス」は外交と大国間(及びその同盟国)のせめぎあいであり、「ロー・ポリティクス」とみなされている貿易、経済、金融よりも重要視される。
1 ハイ・ポリティクスとロー・ポリティクスの類似性と相違:合理性、選択、言葉
ハイ・ポリティクスもロー・ポリティクスも、1つの論理が明確な政策の組み合わせを決定する。ハイ・ポリティクスはポリティカル・リアリズムと言う理論を用いて説明できる。国家は「自然状態」、あるいは調和の取れた秩序を維持する包括的な力が欠如した時の無秩序な状態で存在する。そこではいつも全体に対する戦争の可能性を秘めており、力の均衡は国家の軍事力によって決定される。そして、利己主義がアクターの行動をコントロールする。一方でロー・ポリティックスは手段の合理性、物質の安定的確保を求めて限られた資源をめぐって争うこと、そしてより拡大する消費の為の政治である。それがネオ・リベラリズムなのだ。
2, ハイ・ポリティクスとロー・ポリティクス:誓約、約束、行為
ハイ・ポリティクスとロー・ポリティクスを分けることによって世界の相互関係が見えなくなる。例えば、米国は二つの戦争を戦っている。テロに対する戦争と国内の肥満に対する戦争だ。これらは一見無関係に見える。しかし、最近米国国務省は「なぜ米国は嫌われるのか?」というテーマで2日間にわたる会議を行った。このように設問を立てると、この2つのつながりが少しは見えてくる。しかし憎悪そのものは役に立たない。それはアメリカを疎外する。アメリカと言っても多様であり、犠牲になっている人もいる。
・・・もし9.11のような惨事から「よいこと」が生まれる可能性があったとすれば、それは同情と善意から来るものだろう。そしてそれは世界中から米国に向かって生まれるものである。その同情と善意と言うものは地球社会の掛け橋となりうる可能性を秘めているかもしれない。しかしブッシュはそのチャンスを無駄にしたようだ。政治的リアリズムとネオ・リベラリズムを押し通す事によって。・・・
波乗りをするのか、それとも溺れているのか?
私たちは考え方を変えて、合理性とは責任と選択のことであり、自分の利益は全ての人の利益であり、ハイ・ポリティクスとロー・ポリティクスの線引きは間違いであり、依存とは相互的なものであり、しかも私たちの相互関係は現実のものだということを理解しなければならない。そうする時にだけ私達の思考は短期的なものから長期的なものに変えることが出来る。そうする時にだけ、政治経済学は人権経済学になりうる。私達は波乗りをしているのか?溺れているのか?
今言えることは、「息を止めて」ということだけである。
ブラジル労働党の参加型予算の実験
Brazil’s
Workers Party Tries ‘Participatory Budgeting’
Micah Maidenberg
(インディアナ大学の学生)
[「レイバーノーツ」より]
市民が市の予算を決めるようになったら
ブラジルでまもなく大統領選挙の投票が行われる。もし労働党が勝利するなら、南アメリカ最大の国に、労働運動から生まれ、労働者や貧困層の運動の組織化のために献身してきた党の政権ができることになる。労働党が既に治めている町では参加型予算というプログラムを実行している町もある。政府がどのように予算を使うか国民が監視する権利を持つと言う理念に基づき参加型予算は100都市以上で実施されている。
参加型予算の仕組み
この参加型予算プログラムは人口130万人のポルト・アレグレ市で、1989年に導入された。ポルト・アレグレは予算作成のために市を16の地域に分けた。市民は地域と市の支出について優先順位を決める。地域の支出は道路整備や下水システムの改良などの公共事業に焦点が当てられる。人口規模や必要性などをベースに3つの優先事項に優先的に予算が割り当てられる。必要性を重視した割り当てでは、貧困地域により多く予算が割り当てられる。
市全体の優先事項は市の評議会で決定する。ポルト・アレグレ市の評議会には各地域から2人の代表が選出される。そして公務員労組や住民組織なども参加して、保健・教育などの問題について議論する。
どんな人が参加しているのか
いろいろな経済状況の立場にある市民がこのプロセスに参加するのだが、CIDADEの調査によると、貧困層が大多数を占めている。40%が最低賃金の1〜3倍の所得である。世界銀行の研究によるとポルト・アレグレのよって生活水準の大幅な向上が見られた。
・ 1989年から96年の間に水道のサービスを受けられる割合が80%から98%に伸びた。
・ 市の下水システムを受けられる割合が46%から85%に増加した。
公立学校に入学する子供の数が2倍になった。
貧しい地域で毎年30キロの舗装がなされている。
税収が50%近くに増えた。
このプログラムの重要な成果は、教育とエンパワメント(「力をつける」)である。Brian Wamplerは参加型予算を「市民の学校」と呼ぶ。彼は「ブラジルは階層社会です。このプログラムは権力のある政治家に対抗する力を生み出してくれる。」と言う。
次は何か?
もし労働党が10月に勝利を収めれば、新大統領のLuis da Silvaは想像もつかない圧力に見舞われるだろう。8月の7日にIMFはブラジルに対し300億ドルの信用限度額を発表した。しかしそれには、中央政府が債務を履行し余剰予算を維持しなければならない。Wamplerによると労働党はIMFのクレジットがこのプログラムの遂行に影響を与えるかどうか疑問視している。
参加型予算はブラジルの町に変化をもたらした。生活水準の向上と貧しい人たちに力を与えた。これは人々が支えながら行なう草の根プログラムである。そしてその影響力は広がっている。
[参加型予算については世界銀行のPovertynetでも取り上げられており、下記のレポート(英文)にはポルト・アレグレの事例も紹介されている。
http://www.worldbank.org/poverty/empowerment/toolsprac/tool06.htm]