ビルマ国籍のティン・ナインさん家族に11月7日に在留特別許可が認められました。今年になってから在留特別許可を求める家族連絡会(家族会)で在留特別許可が認められたのは8家族となりました。
当日、妻のスイスイさんは涙を流しながら、長男のニャンリン君と抱き合って喜んでいました。昨年2月に家族3人が入国管理局によって摘発されてから1年9ヶ月のときが過ぎていました。
ティン・ナインさんはビルマのマンダレーで生れました。大家族であったため、家は貧しく大学も学費が支払えなくなったために中退してしまいました。ティン・ナインさんは母親とともに魚の行商をしていましたが、生活していくことができずに日本に渡ることになりました。ティン・ナインさんとスイスイさんとのあいだには、すでにニャンリン君が生れていました。1991年9月、日本で安定した生活ができるようになったことからティン・ナインさんは妻のスイスイさんを呼び寄せました。それほど長くは滞在するつもりもなかったため、長男のニャンリン君は祖母に預けたままでした。
ティン・ナインさんらが長男のニャンリン君を呼び寄せたのは2002年5月でした。ニャンリン君は16歳になっていました。ニャンリン君は夜間中学に通学をしながらボランティアから日本語を学び学力をつけ、都立の工業高校に進学し、瞬く間に日本社会に適応していきました。
突然、入国管理局によって摘発されてしまったティン・ナインさん家族は途方にくれました。当時19歳であったニャンリン君も収容され、高校に通えない日が続きました。期末試験に際しては入国管理局の配慮からか仮放免が認められたものの、1ヶ月間ほどで再び収容されてしまいました。3人に仮放免が認められたのは5ヵ月後の7月でした。ニャンリン君は5ヶ月にもわたり収容されていたにもかかわらず、大学に推薦で入学することができました。
以降、APFSを中心として支援活動が続けられましたが、中学時代の担任や、高校の先生らの支援も受けていたことから、より支援の輪を拡大しようと本年8月28日には「ティン・ナインさん家族の在留特別許可を求める会」を設立しました。求める会設立後は法務省に対する申入れや署名活動を広げていきました。署名活動には都労連を中心として全国の労組や市民団体が協力し、短期間のうちに6000筆を超える署名が集まりました。
10月下旬頃には、すでに提出をしていた再審情願について審査が開始されることになりました。そして、ビルマの情勢が緊迫の度合いを深めていた11月7日に入国管理局からの呼び出しがあり、前述の通り在留特別許可が家族3人に認められたのです。
今回、ニャンリン君が16歳のときに日本に入国をしていることから、家族3人に対して在留特別許可が認められるのは厳しいと考えられたいました。しかし、ティン・ナインさんやスイスイさんの人柄からか支援の輪が大きく広がり、合計で1万筆を超える署名を提出できたこと、ニャンリン君もわずか5年間で日本語を修得し、大学に合格したことなどが入国管理局も無視しえなくなったのではないかと考えられます。さらにビルマの軍事政権による民衆弾圧が強まった結果、ティン・ナインさんら家族を送還することが事実上困難であると判断したものと推測されます。いずれにしろ、ティン・ナインさん家族に在留特別許可が認められたことは、同じような境遇で苦悩している多くの非正規滞在家族に夢と希望を与えたといえます。最後に、ご支援、ご協力を頂いた多くの皆様に御礼を申し上げます。
なお、ティン・ナインさん家族の在留を求める会として報告集会を12月8日に行ないます。ぜひ、皆様のご参加をお願い致します。
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