本年1月19日、フィリピン国籍のアシアさん家族に在留特別許可が認められました。昨年2005年11月には同じフィリピン国籍のウォンさん家族に在留特別許可が認められており、法務省―入国管理局の在留特別許可に関する政策が変化しつつあることを象徴しています。一昨年2004年の在留特別許可件数は1万3千件を超えており、うち7割が日本人または永住者などの配偶者といわれています。近年、日本人や永住者との身分関係を有しない、いわゆる非正規滞在家族に対する処遇が大きく変わりつつあります。 アシアさんは1990年4月に就労を目的として来日しました。日本で就労するための査証が取得できなかったため、日本で船に乗るとの証明書を発行してもらい乗員上陸許可書での入国でした。以降、アシアさんはフィリピンに残してきた家族のために苛酷な労働に耐えながら暮らしていました。2年余の歳月が過ぎ、アシアさんの日本での生活も安定するようになりました。そこでアシアさんはフィリピンに残してきた妻と4歳になった娘を呼び寄せることにしました。1992年7月、妻と娘は寄港地上陸で3日間だけ滞在を認められました。ようやく再会できたアシアさんらは、そのまま日本で生活をすることになりました。1996年には長男が、1997年には次男が生れ、強固な生活基盤が形成されるようになりました。 2002年1月、アシアさんらは長女が中学校で学ぶようになったため、入国管理局に出頭し在留特別許可を求めることにしました。APFSに相談のため訪れたのはそんなときでした。APFSでは一斉出頭行動により、中学生以上の子どもを持つ家族に在留特別許可が認められたことから、その成果を受けて家族ごとの出頭を積み重ねていました。アシアさんの長女が中学校の1年生に在学をしていることから、在留特別許可が認められる可能性が高いと判断をし、出頭の準備に取りかかりました。同年12月、アシアさん家族は東京入国管理局に出頭をしました。長女は中学2年生になっていました。 出頭後、入国管理局から連絡がはいらないまま2年以上が経過しました。アシアさん家族にとって不安と焦りの日々が過ぎていきました。2004年11月には次女が生れていました。ようやく入国管理局から連絡が来たのは、昨年9月でした。違反審査が開始され、当初は保証人と保証金の支払を求められていましたが、結局、保証人もいらず保証金も納入することなく仮放免が認められました。12月には家族全員の口頭審理が開かれました。口頭審理の際に600名を超える人たちから寄せられた嘆願書も提出しました。そして本年1月19日、仮放免の期間更新のために入国管理局を訪れたアシアさんらは審判部門に呼ばれました。家族全員のパスポートと外国人登録書の提出を求められたため、戸惑っていましたが、突然に特別審理官から在留特別許可が認められたことが告げられました。当初は担当官の話している意味が理解できなかったアシアさんですが、次第に正規の在留が認められたのだという実感が湧いてきました。 それにしても2002年12月の出頭から3年以上の歳月が経過していました。中学2年生であった長女は高校2年生になっていました。10年近く前であれば、出頭から在留特別許可が認められるまでに2、3年は覚悟しなければならないといわれていました。しかし最近、その期間は大きく短縮されています。日本人の配偶者を得たことを理由として在留特別許可を求めて出頭した外国人に3、4ヶ月で在留が認められたケースも少なくありません。昨年のケースでは1ヶ月というものもありました。APFSなどの市民団体が長年にわたって法務省―入国管理局に審査を簡素化し、期間も短縮するようにと何度も申入れをしてきたことがようやく実現しつつあるといえます。また昨年、一昨年と法務省のホームページ上に在留特別許可が認められた事例を紹介するなど、在留特別許可を認める「基準」について少しづつではあるものの開示しつつあるといえます。ただ非正規滞在家族の場合、法務省―入国管理局の対応はまだまだ完全に開かれたものであるとはいえません。今後もケースを積み重ねることによって、日本に生活基盤を形成した非正規滞在者の救済を求めていきたいと考えています。 2006年1月28日 |
ASIAN PEOPLE'S FRIENDSHIP SOCIETY (APFS)