G8サミットとは何なの?その仕組みは?日本との関わりは?なぜ世界中の人々が異議を申し立てたり、反対しているの?などなどG8サミットに関連するさまざまな事柄をQ&A形式で解説します。解説内容は、連絡会の公式見解ではなく執筆者個人の見解です。
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アフリカ開発会議(TICAD-IV)と日本政府の開発援助政策を考えるnew!
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アフリカ開発会議の英訳Tokyo International Conference on African Developmentのイニシャルをつなげた略称です。「ティカッド」と読みます。
冷戦後、それまでのドナー諸国がアフリカへの関心を薄めつつあった一方で、南アフリカに対する経済制裁の解除時期をうかがっていた日本が、1991年頃から検討・準備を始め、1993年に「アフリカ問題の解決なくして21世紀の世界の安定と繁栄はない」との謳い文句を掲げて始めたアフリカ開発を巡るフォーラムです。
「日本政府、国連(アフリカ特別調整室(OSAA)及び国連開発計画(UNDP))、アフリカのためのグローバル連合(GCA)並びに世界銀行(但し2001年の閣僚レベル会合以降)との共催」ということになっています。
その後も5年に一回開かれており、今回はその4回目にあたります。
日本のアフリカ外交関係者は、TICADの性格を「アフリカ諸国とその開発パートナーがアフリカ開発の今後の政策対話を交わす場」、「開発のルールや戦略を議論・提示して国際的注目を喚起する機会」等と評価してきたようです。
アフリカとこのような開発援助会議を持っているのは日本だけではなく、後発的には、例えば中国が、2000年から3年ごとに、中国アフリカ協力フォーラム(Forum on China-Africa Cooperation:FOCAC)を開催しています。
最初はNGOの参加はまったく考慮されていませんでしたが、日本のアフリカ関係NGOがアフリカのNGOの参加を求めて運動した結果、少しずつNGOにも意見を言う場が与えられてきているようです。しかし、「NGOの意見にも耳を傾けている」というポーズ、といった程度で、彼らの意見(特に経済成長を通した貧困削減に対する彼らの疑念)をきちんと決議に反映させているとはいえません。
TICADは、「アフリカにおける貧困撲滅、持続可能な成長と開発、世界の政治経済への統合を目指す、アフリカ人自身の決意を原動力とするアフリカ指導者達の誓約」(外務省)とされる「アフリカ開発のための新パートナーシップ」(the New Partnership for Africa's Development :NEPADネパッド)との連携を非常に重視しています。
このNEPADは、(1)アフリカ開発における「支援する側」と「支援される側」という関係ではなく、アフリカ自身がオーナーであり支援する側はパートナーである、という関係を明確に打ち出したこと、(2)援助する側の押し付け政策ではなくアフリカ自身が作成した文書であること、などの理由によって、TICAD、G8諸国をはじめとする各国政府や民間企業、一部の市民社会の中でも高い評価を得ています。
NEPAD文書のイントロダクションでは、基本的な目標は(1)貧困を削減し、(2)持続可能な成長と開発を実現し、(3)グローバリゼーションからの排除をなくし、世界経済に完全かつ有益な形で統合すると同時に、(4)女性のエンパワーメントを促進し、そのために、紛争処理や民主主義を追求すると同時に、インフラを整備し教育や健康保健に取り組むとしています。
一見、問題のないように見えますが、NEPADがつくられる過程をみれば、それがアフリカの人々による下からの願いを反映しているのではないことが分かるでしょう。
NEPADは、ムベキ南アフリカ大統領、ブーテフリカ・アルジェリア大統領、オバサンジョ・ナイジェリア大統領の三人によって作られ、2002年7月のAU総会で提案され、AUの基本的文書の一つとなりました。
この3人の大統領たちは、G8沖縄サミット(2000年7月)、IMF/世界銀行(2000年11月と2001年2月)、ダボス会議(2001年2月)、G8ジュノア・サミット(2001年7月)、EU(2001年11月)でNEPADについて協議してきました。これらの国際会議は、新自由主義グローバリゼーションを進めるものとして、貧困と抑圧にあえぐアフリカをはじめとする世界の人びとの抗議の的になってきたものです。そこで協議されてきたNEPADが、新自由主義と無縁であると考えるのは、いささかお人よし過ぎると言えるでしょう。
TICADやG8諸国がNEPADを高く評価し、積極的にプロセスの中に取り込んでいく理由も、従来のような「押し付け新自由主義」ではなく、アフリカの大国の指導者らによる「自発的な新自由主義」であるからではないでしょうか。NEPAD文書の多くが開発アフリカ自身が発したビジネスチャンスの掛け声に金持ち諸国が飛びついている、というのがNEPADをめぐる構図ではないかと思います。
もちろんビジネスの話しだけでなく、下記のように貧困削減や債務削減についても触れられていますが、それも批判の多い世銀やIMFなどによる従来の計画を踏襲したものでしかありません。
「貧困削減:貧困削減をNEPADの全ての計画において優先させる。世銀、IMF等と協力し『包括的開発フレームワーク』及びHIPC債務削減と連携した『貧困削減戦略』を加速。」
「債務救済:既存の枠組みを越えた債務救済を追求。債権国からの最大限の妥協を引き出す交渉を行う。アフリカ側は、新枠組みを考える前に、先ずは既存のHIPCs及びパリクラブの枠組みを活用する。各国の経験を共有するフォーラムを設置する。」
アフリカの中でも、金と力のある一部の国の指導者から「新たなビジネスチャンスのために関係を再構築したい、借金返済の方法については従来どおり世銀とIMFの方針を守ります」とプレゼンテーションをされて、嫌な顔をする金持ち諸国はないでしょう。
NEPADは、上述のような対外的なビジネスアピールだけでなく、それによる域内新自由主義の拡大を通じて、アフリカのなかでも経済的に大きなウェイトをしめる南アフリカなどの多国籍資本のアフリカ全土への展開を促進することにもつながるでしょう。
(参考)アフリカ開発のための新パートナーシップ
http://www.nepad.org/2005/files/documents/inbrief.pdf(全文:英語)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ticad/new_afi.html(抄訳:日本語)
日本を初めとする先進諸国は、アフリカなどで頻発する「食糧暴動」を受けて、食糧の国際価格急騰に関する緊急対策の検討に入りました。世界銀行と国際通貨基金(IMF)も声明を出し、アメリカ政府も2億ドルの緊急支援に続き、7億7000万ドルの資金支援などを発表しました。日本政府もTICADに向けて資金援助を含めた対策を検討中で、7月の主要国首脳会議(北海道洞爺湖サミット)でも主要議題の一つとして取り上げる予定です。
しかし、もとをただせば、この間アフリカで多発している食料価格の暴騰による市民社会の不満の爆発は、米日欧などが主導する世界銀行やIMFの対アフリカ政策に原因の一端があります。Q5で見たように、多額の債務を負わされてきたアフリカ諸国は80年代に以降、債務返済が困難な状況に陥ります。なかには福祉や教育予算を削り年間予算の3~4割を債務返済に充てるケースもありました。
このようなアフリカ諸国の苦境に対して、世界銀行やIMFは、借金返済の繰り延べの条件として国内経済の構造改革を提示します。この構造改革は、教育、医療、福祉政策の切り捨て、自給作物から換金作物への転換による自給率の低下、民営化にともなう大量解雇や賃下げを引き起こしました。グローバルな活動をする企業にとってはおいしいこれらの構造改革も、アフリカの普通の人々の生活はいっそう厳しいものでした。そこに今回の食料価格の暴騰が発生し、すでに疲れ切っていた人々の生活にさらに追い打ちをかけることになったのです。
食糧危機に対しては、緊急食糧支援という対処療法でお茶を濁すのではなく、これまでの債務政策の反省とともに、先進国の都合でふくれ上がった巨額の債務の帳消しや、バイオ燃料推進政策の見直し、投機マネーや金融市場の規制などがTICADやG8サミットの場で議論されなければならないのではないでしょうか。
あるとすれば、アフリカの諸政権あるいは地域住民による、自国のあるいは地域のすべての人々の最低限の衣食住の保障を促進するような政策・運動を支援することではないでしょうか。
具体的には
・アフリカのエリート・クラブを潤すような現行の援助の中止
・貧困層を抑圧する政権への援助凍結
・真の恒久的貧困削減対策に回すことを条件にする以外はなんの条件も付けない債務帳消し
・アフリカのリーダーたちが提起して海外資本を呼び込んでいるNEPADではなく、現地の貧困層の要求実現のために、当事者から要請のある医療・教育関連への支援や社会・政治的要求への支援
などが考えられます。
こういう関わり方はもはや「開発援助」と呼ばないかもしれません。だいたい「開発援助」などという日本語は、developmentという英語の訳語なのでしょうが、こちらが相手を「開発する」というニュアンスが感じられます。もともとdevelopというのは「(自らが)成長する、発展する」という自動詞だったのです。
米国のトルーマン大統領が1949年に「米国は“underdeveloped”(低開発)の国々の人々が米国の進んだ科学と産業の恩恵を享受できるようにしなければならない」という演説をして、いわゆる第三世界への経済援助を始めたときからdevelopに「開発する」という他動詞の意味が付与されるようになった、と沖縄在住の平和運動家のダグラス・ラミスさんは書かれています。
私たちはdevelopmentの本来の意味に立ち返るべきではないでしょうか。
アフリカへの開発援助を通して日本政府が国益として追求しようとしていることが何なのかを考えてみることから、何かが見えてくるのではないでしょうか。考えられることを以下に列挙してみましょう。
1.国境線を越えた道路・橋や港などの整備などは、現地の住民の生活改善を一義的な目的としているとは思えず、日本の投資環境整備を目的としているものでしょう。保健・教育支援による人材育成についても、それを必要とするアフリカの人々の立場から政策が実施されていないケースもあります。
2.特に南部アフリカ開発共同体(SADC)への援助は、日本産業の生命線とも言えるレアメタルの権益獲得のためと考えられます。
3.きめ細かな無償援助だとかクールアース構想での資金援助の呼びかけも、アフリカの親日感情獲得という外交目的があると思われます。国連安保理常任理事国入りをはじめとした、中国やインドのような新興援助国に負けない国際発言力確保に必死だからです。
4.植民地時代の宗主国、アメリカ、そして新興援助国などが入り乱れる中、日本も大国としてPKO等の国際的軍事関与もしたいという「戦争のできる普通の国」を目指す国策の一環でもあると言えないでしょうか。
5.自助努力の尊重とか言いながら相手国を一層の債務漬けにして憚らない有償援助は、詰まるところ、金貸しによる金儲けではないでしょうか。
ちなみに、ODA(政府開発援助)とは、OECD(経済協力開発機構)のDAC(開発援助委員会)によれば、
「自国の利益に資することは極力控え、相手国の経済発展と福祉の向上のために実施するもの」
とされていて、現に日本は、
「より狭い国益が、この目的に優先しないことを確保すべきである」、「債務貧困国へのローンの供与が多額の債務救済を招いた経験から得られた教訓は、今後の貸付政策に生かすべきである」
という勧告を2003年にDACから受けています。
もうひとつ、アフリカで発生している紛争に対して、紛争の当事者の一方の側だけに肩入れをする姿勢も問題です。
日本政府は93年の第1回TICADの時から一貫してモロッコを招待し続けています。モロッコは、1975年に当時スペイン領であった西サハラを軍事的に占領し、現在まで支配を続けています。この行為は一連の国連総会決議や国際司法裁判所勧告意見、民族自決原則に違反する行為として国際的にも非難を浴びています。また難民となった西サハラの人びとは、亡命政権として西サハラ=サハラ・アラブ民主共和国(SADR)の建設を宣言し、アフリカ連合(AU)にも加盟しています。その一方、モロッコは、西サハラ侵略を理由に、AUの前身であるアフリカ統一機構(OAU)から事実上追放され、OAUからAUになった現在も加盟を認められていません。
今年2月、中山泰秀外務政務官が福田総理の特使としてモロッコを訪問し、TICADへの参加と国連安保理常任理事国入りへの支持を要請しています。これは、安保理でも議題となっている西サハラ-モロッコ紛争の一方の当事者に「常任理事国入り」への支持を要請するという非常識極まりない外交政策といえるでしょう。
日本政府は、TICADプロセスにおいて、AUとの連携を強調していますが、このように日本の国益のためだけに、TICADにモロッコを招待し続け、その一方でSADRの承認を拒否し続けています。このようなTICADプロセスは、西サハラだけでなく、各地で紛争が発生しているアフリカの人々の目にはどのように映るのでしょうか。
アフリカ問題は、2000年の九州・沖縄サミット以来、サミットの議題の一つとして取り上げられてきており、今回の7月の北海道洞爺湖サミットでも、「開発・アフリカ」が取り上げられることになっています。
今回はそれに向けて4月に開催されたG8開発大臣会合の「成果」を受けて、7月のサミットへと繋ぐ役割を担わされたのが5月のTICADだといえるでしょう。
横浜で開かれる理由として、G8誘致に失敗した中田市長が「横浜市政のステージアップの重要な節目となる横浜開港150周年(2009年)へのカウントダウンの年として、意味合いの深い会議のホストをしたかった」と言っています。
平成20年度外務省予算においてはTICAD IV開催経費として約4億9,700万円が計上されていますが、横浜市も別に1億3500万円を負担することになっています。テロ防止を名目とした過剰警備が心配されていますが、その負担も結局、横浜市民がかぶることになります。
テロ警備を理由に、神奈川県警の警官がバスなどの公共交通に乗車するなど、治安活動が市民生活の中にまで入り込んでいます。県警警備課長による霊感商法という不可解な事件の後始末も早々に、テロ警備を口実とした過剰警備が、今後の県民生活を脅かすことにならないか、監視の目を光らせる必要があります。
2005年のイギリス・グレンイーグルズサミットで、当時の小泉首相は、今後3年間でアフリカ向けODAを倍増することを約束しました。そして今年の4月には「対アフリカODA 07年実績17.1億ドル 3年で倍増達成」が財務省から発表されました。アフリカ向けの2007年のODA実績が17.1億ドル(暫定値、約1800億円)になり、03年の8.4億ドルの2.04倍となった、というものでした。
しかし、実際の支援額は逆に減少しているのです。減ったのに増加したとは、いったいどういうカラクリなのでしょうか?
日本政府は、03年、ベナン、モーリタニア、タンザニア、マリ、ウガンダのアフリカ諸国に対する約3億ドルの円借款債権を放棄しました。この債権放棄の金額がODAに組み込まれました。つまり、報道にあった03年のODA実績8.4億ドルのうち、約3億ドルは実際に援助資金を提供した額ではなく、債務削減の額ということです。07年のODA実績17.1億ドルの詳細はまだ明らかにされていませんが、前年度の06年の対アフリカODAの詳細を見てみれば、実際の援助額が増加していないことが分かります。
06年の対アフリカODAは、債務削減分を含めると25.58億ドルですが、債務救済分を除くと、5.17億ドルになります。03年の債務救済を除いた援助額は約5.4億ドルですから、増えてはいないのです。07年もおそらく同じカラクリです。
実際の援助ではないかも知れないが、債務削減だってアフリカにとってはありがたいことではないか、と考える方もいるでしょう。しかし、アフリカの人々が背負わされてきた債務の多くは、先進国やその支配下にある世界銀行や国際通貨基金(IMF)の都合によってつくり出されてきたものでした。
冷戦構造のなかで西側諸国の権益維持為のため独裁者に資金を援助し続けたり、借金返済の繰り延べや新たな資金供与の条件として人々の生活や福祉を犠牲にして貿易や規制緩和などをアフリカ諸国に強制したり、現地の人々の生活や環境を破壊する巨大開発プロジェクトの利益が、その国の独裁者や援助する側の企業・銀行に還流していたりと、アフリカ援助に関する醜悪な実態を上げるときりがありません。
先進諸国の政府や多国籍企業と途上国の独裁者の都合で膨らんだこのような巨額の債務を帳消しにすることを「援助」と呼ぶことはできないのではないでしょうか。
日本政府は、実際には増えていないのに、「ODAが倍増した」と声高に叫ぶのではなく、より緊急性を要する保健や教育などに関する具体的な公約の実現にむけて、利潤をインセンティブとする企業の目線ではなく、アフリカ現地や日本の市民社会との十分な協議に基づいた協力が必要ではないでしょうか。
債務問題についてはG8サミットを問う連絡会ウェブサイトに掲載されている「第三世界の債務問題とG8」もご参考下さい。http://www.jca.apc.org/alt-g8/?q=node/67
税金は、両方に使うべきでしょう。
アフリカにも使うべきであるという理由は、アフリカの生存をも脅かす構造的・絶対的貧困が、日本を含む先進諸国による長期にわたる奴隷貿易・植民地政策をはじめとした政治・経済・軍事行動の結果であるからです。
日本は長年にわたって、南アフリカの人種隔離政策を支持してきました。世界的に広がっていた不買運動に背を向け、ダイヤモンドやゴールドなどを南アフリカから購入することで、人種隔離政策を支え、「名誉白人」という不名誉な称号を喜んで受けとっていました。
南アフリカのアパルトヘイト時代に白人政権の手引きで、アフリカ人の主食であるトウモロコシを高く買うことを条件に金(gold)を手に入れていた日本は、アフリカ庶民から主食を奪うという罪深いことにも関与していました。
アパルトヘイト政策は南アフリカの民衆と心ある世界の人びとのたたかいで廃止に追い込むことができましたが、日本政府は一貫して冷淡な態度をとってきました。
またアフリカ諸国に対する債権残高では、日本は、他の金持ち国を引き離しダントツのトップを誇ってきました。一九九〇年代に入り、教育や医療などに支出する金額よりも借金返済に充てる金額が大きく上回るひどい状況に陥っていたアフリカ諸国などの債務削減を求める声が世界中で高まりましたが、日本政府は最後まで債務帳消しに消極的な姿勢に終始しました。
国連開発計画は次のように債務問題の深刻さを指摘していました。
「重債務国が債務返済から解放されれば、その資金を使って2000年までにアフリカだけで約2100万人の子どもの命を救い、9000万人の少女と女性に初等教育を提供できるであろう」
しかしこれら重債務国に対する一定の債務帳消しが実現するのは、2000年以降のことでした。債務返済のせいでたくさんの命が奪われたのです。これだけもみても日本政府の対アフリカ政策が、貧困を削減するどころか、貧困をますます拡大させたといえるでしょう。
このような外交政策の延長線上にある現在の開発援助政策ではなく、これまでの償いを含めた賠償と連帯にもとづいた協力のあり方を模索すべきではないでしょうか。
高村外務大臣は、3月にガボンで行われたTICAD IV閣僚級準備会議での演説で次のように、TICADと平和の関係を述べています。
「『経済成長を通じた貧困の克服』という、アジアの先行事例は、アフリカでも必ずや有効であるに違いない――。TICADはそう、信じて参りました。インフラ作り、ODAによる投資の誘発、農業支援という日本の提案は、この方向を推し進めるものであります。またそのためにも、「人間の安全保障」や「平和の定着」が大切である。これも、TICADが弛まず主張してきたことでありまして、日本の新提案は、ここに十分な目を配ろうとしています。」
紛争地域では、投資も金儲けもできない、ということでしょうか。しかしこの「平和の定着」という軍事的な要素が絡む概念が、TICADプロセスの中で提案さてきたことに、危険な匂いを感じざるを得ません。
「平和の定着」の目的がたんに、アフリカにおける投資や金儲けの環境づくりだけではない、ということは、1993年のモザンビーク、94年のルワンダ周辺国(ケニヤ、ザイール)などのアフリカ諸国だけでなく、カンボジアや東ティモールなどへのPKOへ断続的(ゴラン高原へは10年続けて今でも!)に参加し続けている現状とTICADが発足した時期を重ね合わせることで、容易に想像ができるのではないでしょうか。
最初のTICADが行われた1993年は、当時の細川首相が国連演説で安保理常任理事国入りの意思を表明した年でもありました。日本政府は2005年にも安保理常任理事国入りを画策しましたが、失敗に終わりました。しかし同年12月に国連内に設立された平和構築委員会の一角を占め、PKO派兵への道筋を確保し続けています。
国連の中でも大きな票田であるアフリカへの支援とPKO派兵の継続は、これまで何度も挫折してきた日本の国連安保理常任理事国入りを実現するためではないでしょうか。
日本政府は、次なるアフリカへのPKO派兵として、スーダン派兵を狙っています。しかしスーダンは、自衛隊をその活動領域に組み込もうとするアメリカ軍の対テロ戦争の対象地域です。イラクにおける米軍活動の支援は憲法違反である、と厳しく断罪された自衛隊が、ふたたび米軍の対テロ戦争の影の下でPKO活動に従事することは「平和への定着」に逆行すると言えるのではないでしょうか。
日本が世界に誇り貢献できる「平和の定着」は、TICADや国連などの場で憲法9条の理念を広め、その実現に向けて踏み出すことではないでしょうか。沖縄に次ぐ在日米軍が駐留する神奈川の地でTICADが開催されるいま、私たち市民はもう一度「平和の定着」のために日本がしなければならない貢献を考える必要があるでしょう。
外務省によれば、2003年のTICAD以来、日本のアフリカ支援の3本柱は、「人間中心の開発」「経済成長を通じた貧困削減」「平和の定着」だそうです。
今回は「元気なアフリカを目指して:希望と機会の大陸」というキャッチ・コピーのもと、
「○経済成長の加速化、○人間の安全保障、○環境問題・気候変動問題への対処、を3つの優先事項として設定し、国際社会の資金と知恵の結集を図りたい」
と言う一方で、
「1993年に国際社会の関心をアフリカに向けさせた第一回TICADから15年経った今回は、アフリカ援助施策及び援助政策全般を見直すまたとない機会、援助が途上国の開発を側面から支えるものであるという基本にさかのぼり、ODAを外交のツールとする日本の外交戦略、国家戦略の中でのODAの位置づけを踏まえた議論をする」
としています。
この3月ガボンで開かれた閣僚級準備会合で日本側が提示し、TICADで採択予定の「横浜宣言」の草案は、
○社会基盤整備を通じた「経済成長の加速化」、
○平和と開発の両立による「人間の安全保障」、
○気候変動問題に対する日本の掲げる「クール・アース50」(温暖化対策用の資金貸し付け)構想
という内容になっているようです。しかし本当にアフリカの人々にとっての「希望と機会」の会議になるのかは疑問です。
外務省はTICAD IVに向けて、『元気なアフリカを目指して』というパンフレットを発行しています。このパンフでは、日本によるアフリカ支援の例の一つとして、「一村一品運動」の促進が挙げられています。
「一村一品運動」とは、地域の特産品づくりによって、コミュニティ経済の活性化を進めるものです。そもそもは日本の大分県で実践された地域起こし運動で、1980~90年代にはアジア各国に伝えられました。
タイのタクシン前首相は、一村一品運動に積極的に取り組みました。タイ政府は地域の特産品に三~五つ星までの品質保証を付けて、上から生産を管理する体制を整備しました。こうして作られた特産品は、華やかに包装され、国内外の都市部消費者向けの嗜好品となっています。
一村一品運動によって、地域の生産者の収入が気まぐれな都市消費者のニーズにますます左右されるようになったという批判は、根強く存在します。こうした外向けの経済開発が本当にタイの農村住民の貧困を削減したのかを十分に検証することなく、一村一品運動は今度はアフリカへと輸出されようとしているのです。