あるとすれば、アフリカの諸政権あるいは地域住民による、自国のあるいは地域のすべての人々の最低限の衣食住の保障を促進するような政策・運動を支援することではないでしょうか。
具体的には
・アフリカのエリート・クラブを潤すような現行の援助の中止
・貧困層を抑圧する政権への援助凍結
・真の恒久的貧困削減対策に回すことを条件にする以外はなんの条件も付けない債務帳消し
・アフリカのリーダーたちが提起して海外資本を呼び込んでいるNEPADではなく、現地の貧困層の要求実現のために、当事者から要請のある医療・教育関連への支援や社会・政治的要求への支援
などが考えられます。
こういう関わり方はもはや「開発援助」と呼ばないかもしれません。だいたい「開発援助」などという日本語は、developmentという英語の訳語なのでしょうが、こちらが相手を「開発する」というニュアンスが感じられます。もともとdevelopというのは「(自らが)成長する、発展する」という自動詞だったのです。
米国のトルーマン大統領が1949年に「米国は“underdeveloped”(低開発)の国々の人々が米国の進んだ科学と産業の恩恵を享受できるようにしなければならない」という演説をして、いわゆる第三世界への経済援助を始めたときからdevelopに「開発する」という他動詞の意味が付与されるようになった、と沖縄在住の平和運動家のダグラス・ラミスさんは書かれています。
私たちはdevelopmentの本来の意味に立ち返るべきではないでしょうか。