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「続けていくこと・繋げていくこと」
学生時代、古典美術の授業での教授の言葉が今も耳に残っています。
「古典とは幾 つもの時代の眼をくぐり抜け、残し伝える価値があるとの評価をされ続けて現存するものである」

伝統産業もまさしくこの解釈が適当であると思います。果たして今の時代は伝統産業にどのような評価をし、判断を下しているのでしょうか。厳しい現実の中、ますます廃れる現状も、また一方で、ものづくり塾の活動のように何らかの手だてを講じようとする動きも時代の流れでありましょう。その中でこれから先どのような未来があるのでしょうか。特に生業として伝統産業に関わっている者はどのようなビジョンを描いていくべきなのでしょうか。

現実は今日、明日のことに精一杯でとうてい先のこと、それは次の代やもっとその先のことはもちろん、自分自身の未来さえ見えない状況であります。これまでのやり方やシステムはもはや死に絶えているといってもいいでしょう。修業ひとつとってもそうです。その上、なんとか身につけた技術も食べられないことには話になりません。

また、着物に例をみても、使い手の激減、本物志向の衰退、結果的に伝統産業の評価は堕ちていっているのかもしれません。正しくは、評価しようにも、その評価のものさしすら持ち合わせていない人も多いでしょう。

伝統産業の本来の姿は簡単に取り扱えない、奥の深いものであると思います。特に京都におけるそれは、それだけのものを先人が鍛え、洗練し、残してくれているのです。ただ、容易くはないが、決して気難しいものではないと思うのです。高い敷居の前にあがってしまい、逃げだしたり、安易なところで満足してしまっては、これまでの積み重ねが台無しになってしまいます。これに関わるものは常に厳しく自分を鍛えていかないといけません。作り手はもちろんのこと、使い手も伝統を支える大きな柱
です。使い手の厳しい眼がこれまでの伝統を作ってきたのですから、大いに楽しむ反面、使い手としての器を大きくしていく必要があると思います。

その上で新しい感性や伝統産業に何の興味のない人達の反応を無視することはできないと思います。迎合するように何がなんでも眼を引くようなものを作っていく傾向もあるでしょうがそういうものはすぐにメッキが剥がれるでしょう。作り手の一人一人が自分も今の時代を生きている人間としての眼を持ちながら、自身の美意識、価値観で良いと思うものを責任を持って提供していくことだと思います。「所詮わからない・・・」とかいった消費者をばかにした態度や或いは勉強不足でのものづくりはすぐに見破られてしまうものです。ものは正直です。売れていないのはそれなりに理由もあるでしょう。本当に厳しいですが、その厳しさは後に逞しさへと繋がる、しかるべき修業の場であると考えます。

刹那的でない長い目で見る、ものの見方が必要でしょう。待ったなしの状況であるからこそ、これまでを大切に、これからを見据えてものづくりに関わっていかないと、安物や偽物に踊らされて私達の大切な文化が消え失せてしまいます。本来は構造的な問題やシステムとしての不備を整え、大きな体勢として臨むのが理想的でありましょう。しかし、業界も行政も本当に伝統産業を大切に思っているとは考えにくい有り様です。志を持ち、親身になって取り組んでいる人達が涙をのんで去っていくのを見るにつけ憤りを感じます。こうなった以上、関わっていく覚悟の出来た人間が自己責任において、厳しくそして楽しく続けていくことでしか、繋がっていかないように思います。

伝統産業が本来守り伝えるために培ってきたやり方が通用しなくなった今、私一個人が作り手として何が出来るのか真剣に考えないといけません。その自覚の上に毎日を過ごさないといけないと痛感しています。
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2003.1.13.