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「西陣の一部」として |
先日、京都経済新聞社の取材を受けた。京都ものづくり塾で西陣プロジェクトを進める私という人物を紹介する記事を書くためだった。 私の西陣に対する思い入れ、西陣プロジェクトをはじめたきっかけや、活動の中で感じていることなどを話した。その取材のなかで、私は「西陣を歩いていても飽きない」と言った。通勤時などに、わざわざ歩いてでることがある。続けて、「その度に新しい発見がある」と言った。しかし、後から思うと、少し表現が違うように感じた。 「新しい発見」というと、今までに自分になかったものを手に入れたかのような印象を受けるが、明らかにそうではない。その「発見」とは、実は自分がずっと前から持っていたもので、忘れかけていたものを思い出せてくれているという感じに近いと思った。そう、西陣は自分の一部なんだと思った。でも、それも違う。自分は西陣を包含するほど大きな存在ではない。とんでもない話だ。正解はその逆だった。 私は「西陣の一部」だったんだ。そう思うとすっきりした。西陣は数100年も前からそこに腰を据えている。私が生まれたことなんてへとも思わず、いつのまにか包んでくれていて、30年近く経った今もそれは変わっていない。そして、西陣は脈々と生き続けている。 しかし、今出川通りにマンションが増え、景観が壊されていくのを見ていると、本当に痛ましい思いがする。自分がその一部でありながら、それを食い止めることのできない歯がゆさを感じる。景観だけではない。西陣の織屋の多くが安い労働力を求め、中国で生産をさせている。それが西陣自身の不振を招いている。自分で自分の首を絞めているのだ。自分と同じ西陣を構成するひとたち自身の手によって、西陣が壊されている。一度壊れた文化は二度と戻らないだろう。自分にはどうすることもできない大きな力に対して、ただ見ていることしかできず、悔しい思いをする。 こうして、西陣が壊されていくのは、今私が立っている地盤が崩れていくのと同じことだ。この町並みを見て、文化を感じると自分の血が騒ぐ。西陣のことになると、思わず力が入る。自分が自分であり続けるためにも、これは守らなければならない。指をくわえて待っていても、だれも救ってはくれない。西陣のことは、西陣にいる私たちがやるしかないのだ。 それは、西陣に住むひとたちだけの問題ではないはず。みな、それぞれの地域に住んでいる。そこに住む人たちがその地域を大事にするからこそ、そこは魅力的を保ち、いつまでも輝いていられるのだと思う。そして、そこに住む人たちが生き生きとしていられる。その地域のことは、そこにいる人の手でつくるしかない。あちらこちらで、人々が自分の住むまちを誇りに思い、そのためのアクションを起こせれば、この国はもっと輝くことができるはず。まちの魅力を最大限に発揮するために、その地域について考えてみる。すると、自分の土台が固まっていくのを感じる。 西陣の魅力とはなにか。次回のエッセイに続く。 |
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2001.11. 6. |