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文化を育むということ | |
知を重ねることを知った組織は、それを維持、発展させるシステムを構築する。
それが文化となる。 その組織が積み重ねた知識の前提の上に立ち、その組織に所属するひとたちにとって、当たり前となったならわしのことをいうのだろう。 文化は、そこに所属するひとに依存する。各々の個性が融合し、組織全体の文化をつくりだす。 西陣という地域にも文化がある。西陣織というプロダクトを生み出す知の上に成り立った文化であろう。それは、職住一体であり、織機の音の中にいることであり、織り物に対する愛着であったりするのだろう。 それらは、いずれも、そこにいるものにとっては、当たり前のことばかりで、あえて「西陣の文化は?」と聞かれても答えられないのだろう。 これが文化だ、というのが明示できないと、それを守ることはできない。当たり前にありすぎるから、あえて意識することがないまま、そのまま忘れられていくのではないかと感じる。 文化は見えない。そして、それは組織そのものであったりするので、それを明示することはすごく難しい。 でも、それを見えるかたちにしていかないと、伝えることも、発展させることもできない。明らかに意識しないと守れないものもある。 先日、祇園祭のことを取り上げたNHKスペシャルが放映されていた。そのなかで、祇園祭に毎年携わった夫をなくした未亡人のことが取り上げられていた。その夫はお見合いの席で「趣味は祇園祭です」と答えたほどで、毎年7月になると、祇園祭に体をささげていたという。でも、その男性がなくなってからも、祇園祭はそれまでと何ら変わりなく催される。彼がいようがいまいが、関係なく。 それを見て、少し複雑な思いがしたが、文化とは、誰かが欠けたら崩れるようなものではなく、みんながわかっているから、それを維持できるというものなのだろう。そこにいるから当たり前に行われていることなのだろう。 さて、西陣の文化とはなにか? それは西陣の魅力でもあり、問題点も抱えているだろう。 これも時代の流れである。それに従うのも自然なことなのかもしれない。 でも、なくしては行けないものもあると思う。 明らかに、西陣が長年にわたって積み上げてきた文化は固有のもので、他のどこにも存在しない。 私たちには、それを語り継いでいく責務があるのではないかと考える。 「西陣の文化」とはなにか、日々、答えを探している。 |
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▼INDEXへ | 2001.10.14. |