名護市議選での与党過半数当選の意義について
「辺野古移設反対」が鮮明に
中立派・どっちつかずの議員は存在できず
辺野古移設案の地元として注目の名護市議会議員選挙は去る一二日、「辺野古反対」の稲嶺市長支持議員一六人が当選し、市議会の過半数となった。名護市では市長と市議会が「辺野古移設反対」で足並みがそろったことになる。
議席定数は二七。反市長派=「辺野古容認」議員は一一人となった。改選前は稲嶺市長派一二議席、反市長派一二議席、中立が三議席だった。
候補絞ったはずが、バタバタ落選
特徴的だったのは第一に、今回は中立的議員が当選しなかったことだ。前原・沖縄担当相が前市長の島袋派候補に選挙中も接触し、容認派議員テコ入れを画策した。ところが容認派候補は軒並み低得票、バタバタと落選した。前副市長・徳本哲保=久志区出身や嘉数巌候補=嘉数知賢(自民)の子息も落選した。前原担当相は官房機密費を、島袋前市長を通じてこれら議員に提供した可能性もある。だが逆効果だった。容認派候補は立候補人数を絞ったはずだったのに、それでも落選者多数だった。
第二にこの市議選では、菅内閣の日米「合意」実行表明によって政府による「県外」への期待はもはやなくなった段階にあった。選挙結果はその「合意」に対する名護市民の回答だということである。去る五月二八日の日米共同発表と八月三一日の専門家協議報告書の、どちらにも名護市民ははっきり「ノー」と回答したことを意味する。
見逃せないのは仲井真知事が選挙中、島袋派候補の応援をしたことだ。県議会ではあいまいに「沖合い移動」だの「修正」だのと発言していながら、名護市議選でははっきり辺野古移設候補を支持した。八四%の県民が辺野古反対だ。県知事はこの県民の意向を応援すべきであった。
第三に、名護市では施行中の米軍再編交付金がストップされ、今年度予定されていた学校体育館事業費など一〇億円は交付されていない。稲嶺市長が辺野古移設に反対しているからだ―と防衛省などのイジメ策だ。それにもかかわらず多数の市議候補は稲嶺市長支持にまわった。「金だけの問題ではない」と。
第四にはこの市議選結果に直面して、アーミテージ前国務副長官は「知事選次第で辺野古移設は不可能になる。部分移設など、次善の策を考えるべきだ」と去る一五日に述べた。かなりの弱気がうかがわれる。彼は去る六月一七日にも「辺野古移設合意は実施困難。米側がさらなる困難を追加してはならない」と語っていた。他方、ナイ・ハーバード大教授は市議選前の六月一九日であるが、普天間をめぐって日米間のギクシャクはあるもの「米軍駐留による抑止力自体は不可欠」と強硬論だ(*)。
市議選での稲嶺市長支持多数実現によって、普天間の辺野古移設実現はほとんど不可能になった。去る一〇日に首相官邸で開催された政府と沖縄県の公式対話=沖縄政策協議会も、まったく形式的に開催されただけ一一月二八日の沖縄県知事選の結果待ちだ。
「辺野古』を使って『普天間』を使い続けるのは卑怯だ
そこで今回の市議選の意義の第一は、政府による辺野古移設のシナリオを崩壊させたことだ。市議選で移設容認派を多数に持ち込み→仲井真知事に容認の態度表明をさせ→知事の埋立権限で移設工事に着手する。このシナリオは最初の段階で崩れた。今や、仲井真知事はウナギだ。ニョロニョロと、どっちつかずで「政府が決めないからわからない」。
第二には、辺野古移設は実現不可能になった。県知事は稲嶺名護市長と名護市議会の反対を押し切って公有水面埋め立て許可をすることは政治的にはできない。それどころか自分の知事当選さえ、危なくなってきた。知事選で落選したら、移設は全く不可能だ。
第三には市議選で明確に示された名護の重い民意を、菅政権もこれを踏みつぶすことは難しいことだ。当初の完成予定二〇一四年どころか、それ以降もズルズルとこれを引きづることになりかねない。これは伊波市長が怒りを込めて告発していた「『辺野古』を使って『普天間』を使い続ける」ことだ。宜野湾市民はこれからも危険にさらされ続けなければならないのか!米国側のグアム移転も遅れは深刻だ。連邦財政も逼迫していて、しかも海兵隊不要論は今では米国内では常識。米国も早くその「負担」から逃れたいのだ。
第四には、普天間を一刻も早く閉鎖し、それを撤去するか移設するか管政権は決断すべきことだ。政治主導で撤去も移設も、具体的には可能だ。
現にラムズフェルド前国防長官は政治主導で「来沖で即決、『一万削減』」した。「一万人」とは「沖縄海兵隊の一万人(削減)」である。「パチンと指を鳴らすような政治家の即断だった」という(沖縄タイムス紙)。
われわれの任務は、知事選にも勝利し現在の閉そく事態を突破して政治解決へ導く条件を準備することだ。
*「米軍駐留による抑止力」は、正確には「米軍によるプレゼンス」というべきであろう。
与那国島に自衛隊はいらない
急ピッチで進む派兵計画・陸自は戦争をするために先島諸島へ
防衛省は沖縄島以西の先島諸島の宮古島や石垣島に陸自の「国境警備部隊(数百人)」を、与那国島に陸自の「沿岸警備部隊(約100人)」を、5〜8年後をめどに派兵するとしている。また、中国海軍の日本近海での活発な動向を踏まえ、来年度から、与那国島を含む先島諸島で陸自の部隊配備に向けた調査、すなわち土地の選定など必要な調査を行い、早ければ5年後にも、部隊配備をしたいとしている。これに対し、宮古島、石垣島、与那国島の住民からは「近隣の中国や台湾に緊張関係を生み、逆に紛争を引き起こす要因となる」と配備計画に強く反対している。
陸自の変貌と陸自の海兵隊化
04年の防衛計画大綱では、「島しょ部に対する侵略への対応」が防衛力の新たな役割と位置づけられた。南西諸島、とりわけて先島諸島への防衛力の強化をうちだしている。これまでの冷戦時代の旧ソ連の侵攻を想定した北方中心の部隊配置からの転換を意味している。
10年3月沖縄の陸上自衛隊は第1混成団(那覇市)が第15旅団へ「格上」され1800人から300人増えて2100人に増員。陸上自衛隊普通科(歩兵)連隊を中心に、通信隊・科学防護隊・偵察警戒車・高機動車等を新たに導入し、部隊をより実戦化、強化している。
そして、陸自は、06年1月からカルフォルニアの演習場に第15旅団などから部隊を派遣。「占拠された離島に海から近づいて上陸・奪回したり、後続部隊のための陣地を確保したりする機能を持たせる訓練」「水陸両用部隊」、すなわち、「陸自海兵隊」ともいわれ、モデルは海兵隊という。戦闘できる軍隊か。
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