軍用地を生活と生産の場に!
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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 第182号(2006年10月28日発行)

【連載】
私の垣花(かちぬはな)物語 その(9)

語り 上原成信(関東ブロック)

編集 一坪通信編集部


 ☆沖縄県知事選挙

 一一月一九日投票の県知事選について事前運動が進行中。しかし、何か釈然としない気分で楽しくない。今年一月の名護市長選挙でもそうだった。候補者選定が一般市民の目の届かない所で行われて、なぜその人が選定され推薦されるかが見えないという不満があった。今回は同じ政治志向の分野から複数立候補するという分裂選挙は避けられたが、候補者選定の経緯は決してガラス張りではない。経過がわからないから成り行きの是非を論ずることはできないが、もやもやした気分から抜け出せない。

 おおかたの活動家は、不満を持ちながらも決まった以上はそれで行くしかないと、ポスター貼りになどに励んでいるようだ。良い結果が出ることを期待するが、今後はこういうボスどもの密室での候補者選びはご免被りたいものだ。



 ☆七七年反戦地主を招いて集会

 七二年の復帰時に政府は沖縄返還特別国会で「沖縄県における公用地等の暫定使用に関する法律」(略称・公用地法)を五カ年の時限付で特別立法した。五年間あれば契約を拒否している反戦地主を契約に追い込めると見込んでいたわけだ。

 復帰時には三千人もいた契約拒否地主は五年間で大幅に減ってはいったが、それでも百人以上の反戦地主が公用地法期限切れを前にして契約に応じなかった。

 政府は焦ったが、当時は安保反対の議員も多かったので、五月一五日の期限切れまでに新しい法律を国会で通過させることができなくて四日間の法的空白状態が生じた。

 キャンプ・シールズの地主島袋善祐はトラクターで自分の土地に乗りつけ、自分の土地に線引きして「不法立入禁止」の立て札を立て、アヒル二羽を放しニンニクの種をまいた。

 その公用地法が切れる前年の七六年に、その法律の継続を許さない運動を東京でもやろうと神山政良らの県人会幹部に訴えて同意をとりつけ、反戦地主会の事務局長・平安常次や違憲共闘議長・宜保幸男を呼んで県人会主催の「公用地法継続反対」集会を開いたりした。この時期には県人会として「反戦地主と連帯しよう!」などのステッカーを三種類作って街中に張り巡らした。上原康助ら沖縄選出の野党国会議員の議員会館内事務所にまで貼りに行った。


 ☆二千万円で一坪運動立ち上がる

 八二年の夏、平安常次に品川のホテルに呼び出された。大家族を抱えて生活が成り立たないから、土地を売らなければならなくなったが、不動産屋に売ると右から左に防衛施設庁の手に渡ってしまうので、一坪運動をやりたい、という話であった。それには二千万円必要で、一人一万円で二千人を組織してくれと言われ、うーんと唸ってしまった。一介のサラリーマンに過ぎない自分にとっては途方もない金額だった。一緒に話を聞いた沖縄研究会の名嘉憲夫は仲間に相談して取り組むと言っていたが、自分が声かけられるのは四、五人しか思い浮かばなかった。

 平安の話は東京だけでと聞こえたが、実際には沖縄でも一坪運動の話は進行していて、照屋秀傳や城間勝ら中心になって人を集めていた。その沖縄の運動と連絡を取りながら関東でも人々への勧誘が始まった。私も十人ぐらいは口説き落とした。関東では木村辰彦らが属する社会党系や沖縄研究会のルートで五〇〇人ぐらいが集まった。

 沖縄・一坪反戦地主会の発足は八二年一二月八日で、那覇で設立総会が開かれた。その時の共有地は嘉手納飛行場の滑走路わきの二〇〇五・八平方メートル(二筆合計面積)。当時強制使用されていた反戦地主は一四〇人余。「一坪」の世話人には新崎盛暉、平良修、金城睦(ちかし)、池宮城紀夫(としお)川満信一、照屋秀傳が選ばれた。

 翌年八三年六月二三日には関東ブロックの結成大会が中野区沼袋の区立青年館(今はない)で開催され、一三〇人が参加。当時沖縄から自治労の副委員長として出向していた仲吉良新が激励に駆けつけてくれた。代表委員には金城唯温、山入端辰雄、玉城昇和、山城文盛、上原成信が選ばれた。


☆沖縄の反基地闘争にこだわり続ける人々

 そもそも一坪運動は、復帰二十年をへて軍用地の強制使用や公開審理に対する世間の関心が薄れてきたことから、百人近くに減った“沖縄の良心”反戦地主を支える草の根レベルの反戦反基地闘争を再構築できないか──という新崎盛暉らの発想から始まった。

 この運動は当初、参加者を沖縄在住者に限定しようとしていた。基地闘争が発生した時に現場に駆けつけてスクラムを組める者たちだけが参加すべきで、拠出金の一万円を反戦運動の免罪符にしてはならないと言われていた。一面ではそのことを容認しながらも、ヤマトに居住してはいても沖縄の基地問題をわがことと考えている沖縄出身者まで閉め出すのは行き過ぎではないかとの関東からの申し立てが認められて、県外居住者でも「沖縄の反基地闘争にこだわり続ける者」は参加を拒まないということに落ち着いた。

 一坪の運動というのは、いわば強制使用との闘いだ。防衛施設庁から「あなたの土地を強制使用します」という通知が来ると──近頃は一坪地主を馬鹿にして土地収用法の既定を無視して、その通知を寄越さなくなっている──それに対して「反対する」という意見書を出す。

 一坪運動が始まった頃の意見書提出は、ユニークなものが多かった。様式は問わない既定だったので、コンクリート片に書いたり、サツマイモを削った面に書いたもの、大きな段ボール紙や、何メートルもの巻き取り紙、削った木片などいろいろ様々で、米軍特措法反対、基地に土地は貸さないという想いに満ちあふれた千差万別の表現があった。

(つづく)