軍用地を生活と生産の場に!
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
http://www.jca.apc.org/HHK
東京都千代田区三崎町2-2-13-502
電話:090- 3910-4140
FAX: 047-364-9632
郵便振替:00150-8-120796

『一坪反戦通信』毎月1回 28日発行 一部200円 定期購読料 年2,000円
 第182号(2006年10月28日発行)

関東ブロック連続学習会
沖縄・反戦地主の闘い

−米軍用地の強制使用に反対して−

講演 池原 秀明さん

権利と財産を守る軍用地主会(通称「反戦地主会」)事務局長、沖縄市市議会議員

 皆さん今晩は、お久しぶりです。初めての方もいらっしゃるということなので、少しこれまでの流れを話しながら、そしてまた皆さんからも質疑を受けて一緒に勉強していきたいなと思います、よろしくお願いいたします。

 新聞でご覧になったでしょうか、反戦地主、有銘政夫先生と真栄城玄徳さんのいわゆる地籍不明地、米軍特措法(注1)の中では唯一土地が特定されなければ収用できませんよという条項があって、これを引っ張り出して私たちはずっとこの闘いをこれまで続けてきたわけです。

 ところが一昨日、これの判決が出まして高裁で棄却されました。結局原判決を踏襲するということで、皆さんの控訴は棄却するという話しになりました。今後最高裁まで行くのかどうなのかは、もう一度弁護団と会議を開いてやっていけるのかどうか検討します。


銃剣とブルドーザー


 沖縄の軍用地というのは、戦争中に日本軍がまず基地を作った。その後戦争によって米軍が日本軍基地を取り込んでそのまま米軍基地にする。しかも米軍基地を、日本軍基地を更に拡張した上でこれを作ると。アメリカとしては日本軍基地をそのまま米軍基地にしたわけです。いわゆる「壜(びん)の蓋(ふた)論」で、アメリカは日本軍の再来を許さないということで壜の蓋で押し込んであったわけです。

 ところが隣の中国で革命が起こったために対防共戦として、日本軍の再来を認めないというだけじゃなくて、アメリカの戦略としては対防共戦としての戦略を作らなくてはいかんということになります。結局は朝鮮動乱が終えた後、1953年頃から55年にかけて、朝鮮戦争のためにやってきていたアメリカ軍の中で日米安保条約に認められていない海兵隊、いわゆる安保では3軍、陸海空ですね、これ以外の海兵隊がいわゆる朝鮮戦争を遂行していった、これが戦争が終わって日本に基地を置くことができなくて結局はそれをどこに持って行くかというと、沖縄が異民族支配にあったために、沖縄に基地を移すということで改めて日本軍基地以外の土地を強制接収に入ります。これがいわゆる銃剣とブルドーザーによる土地の奪いというふうになります。


土地連の結成

 これからが私たち沖縄県の軍用地主としての位置付けが始まります。それまでは戦争行為によって取られたので、地主たちの権利も主張できないまま、県民そのものが捕虜の身の中で土地も勝手に米軍が使っておったと。ところがこの時点から安保条約が制定されて、憲法が制定されたうえで沖縄が異民族支配にゆだねられた時点から、施政権は日本にあると、統治権はアメリカに置くというふうになった時から、沖縄の地主も団結し始めて、島ぐるみ闘争ができて、まず、今現在土地連といっていますけど、沖縄県軍用地主等土地連合会というものが組織されました。これはいわゆる軍用地を持っている地主の皆さん方の組織ですね、これは官民一体の組織です。

 そういう流れの中で4原則貫徹闘争(注2)というのがありまして、島ぐるみ闘争で、土地接収が行われたことに対して3ヶ所だけ沖縄県民から激しい闘いが起こります。有銘さんが持っていた土地、今「おもろまち」になっています旧牧港住宅地区、現在は第二副都心と言われているところ、実は有銘さんの土地もそこにあったんですけど、そこは地主の抵抗がなかったのでおもろ基地として作られましたけど、今の那覇飛行場、小禄飛行場と言っています、そこと宜野湾の伊佐浜と伊江島、この3ヶ所は地主の反対闘争が起こって結局銃剣とブルドーザーで制圧して基地を構築しました。

 その他の土地については、海兵隊が作った土地については、無抵抗のままに米軍に勝手に作られた。勝手し放題に地主が抵抗できなくてそのまま作られたというふうになっています。そういう流れの中で、沖縄県全体がこの3ヶ所の新たな闘いによって、基地は提供しないという島ぐるみ闘争が起こってまいります。

 その時に初めて軍用地主会が結成されて、それまでは地料は無料で使われていたものが、この土地連を作ることによって地代相当額として地代が貰えるようになった。その貰い受ける受け皿として連合会を作ったとなっています。


反戦地主の誕生

 地代が貰えちゃうと地主はだまっちゃうんですね。ところがその後、今度は基地被害がどんどん出てきます。そのことで沖縄復帰、私たちは本土復帰と言っていますけど、この祖国復帰運動が高まってついに27年目に私たちは本土復帰を勝ち取ることができるわけですけど、この時代、1972年5月15日が沖縄復帰ですけど、その前年の1971年12月9日に私たち反戦地主会が誕生するということになります。

 沖縄返還協定を結んだときの沖縄国会で、私たち反戦地主が誕生したために、日本軍、日本政府はアメリカに日米安保条約、地位協定に基づいてスムーズに基地を提供できると思っていたら、そこに一坪たりとも軍事基地には貸さない、土地を取り返して生産と生活の場に作り変えていくんだという拒否地主が出たために日本政府は困ってしまいます。

 この反戦地主に対する法律を作らなければならないということで、公用地暫定使用法(注3)というのを作ります。71年に作られた法律です。

これが何故できたかというと、本土であった土地収用法、それから本土にあった米軍特措法、これで沖縄の軍用地を収用することができないと。法の中では許されていない色んな課題が残されているためにできなかったと。逆に言えば沖縄にだけ適用する法律、いや3000名に対する、反戦地主にだけ適用する法律、こういうものを作ったわけですね。本来、憲法では、法律は、日本国民全て平等に扱われなければなりません。憲法では特定の地域に法の網をかぶせる場合には、そこの住民の投票をかけなければいかんといっているけれども、それもやらずに公用地暫定使用法ができてまいります。

 それが適用されて、私たちの土地はそのまま軍用地として米軍基地に手続きも取らずにただ官報に載せたけで、引き続いて米軍に提供するということになったわけです。これが5ヵ年を経過して77年になった時点で、政府はその間、軍用地主の反戦地主をできるだけ契約してみせると言って努力をしたわけです。

 官民と言っていましたけれど、この官の部分、県の土地、これについては契約拒否を当時の屋良知事はやっています。ところがそれに対して防衛施設庁はだましをして、いわゆる念書、覚書、取り交わし事項だとかいうような形で契約もどきのものをさせたということで、結局は残ったのは反戦地主だけになりました。


空白の4日間

 77年の5月15日に期限が切れて私たち反戦地主会はここで改めて基地に突入していきます。4日間の空白、安保に風穴を開けたというふうに言っていますけれども、小禄ではピクニック気分で久しぶりに、戦後30年ぶりに自分の祖先の土地に入ることができたと、この土地を平和的利用ができたらなあという思いでそこでお祝いをします。伊江島では入っていって皆でお祝いをするというふうになります。

 ところが嘉手納基地は、地主が突入しますけど米軍に阻まれて結局機動隊を導入されて逮捕者が続きます。それでも入れろといって3日間攻防して、結局米軍は地主だけは入れましょうというふうになりましたけれども、嘉手納基地についてはやはり阻まれたということです。キャンプシールズについては、地主がトラクターを持ってきていきなり基地を耕し始めた。そこでニンニクを植え始めた。アヒルを放し、ニンニクを植えるということで、これでアメリカがパニックを起こします。こんな状態になったら米軍基地はもう保てないということで、日本政府に慌てふためいて、何とかやれということになりました。


地籍明確化法

 復帰の時点で返された土地が5ヵ年間利用できないでほったらかされた、この理由は何かというと地籍がはっきりしていない、戦争によって公図が焼けちゃった、おまけに基地によって、ブルで潰されて自分の土地がどこかわからない。だから返されたけど利用できない。

 これに対して私たち反戦地主は、地籍を明らかにして欲しいと常に要求しておりました。これをうまく日本政府は取り込んで、地籍を明らかにするという地籍明確化法(注4)というのを、5月18日に、4日後にこれを誕生させます。

 それによって公用地暫定使用法を5ヵ年から10年に改めるという条項を付けて地籍明確化法の上で公用地暫定使用法が生き返ることになります。政府も公用地暫定使用法は一度は死にました、地籍明確化法が誕生をしたことによって改めて公用地法が適用できるようになりましたという説明を国会答弁で法務大臣が言っているわけです。

 一度廃案になった法律がまた生き返ると、しかもこの法律の中身は、片一方は測量する法律、片一方は軍用地を強制接収する法律、これが一緒に合体するわけです。これが法治国家で許されるんでしょうか。本来はあっちゃいけないことが沖縄には出されたということで、我々は違憲裁判に訴えていたわけですけれども、これも国会の適正なる手続きによって成立したものだから認められるということで却下されました。


米軍用地特措法

 そういう流れの中でまた5ヵ年間が経過をして82年を迎えます。復帰10年目を迎えます。いわゆる公用地暫定使用法がこの時点で切れます。切れるけれども何を準備してきたかというと、米軍特措法という法律を沖縄に適用します。これは朝鮮動乱を終えた後、安保条約が結ばれた時点で実は米軍特措法もその時に制定はしてありました。

 自衛隊基地の土地を取るためには土地収用法でやるといことでしたけれども、土地収用法ではできませんでした。だから皆国有地に押し込まれました、自衛隊の基地は。ところが米軍用地については、新たに基地を接収するためには新たに土地収用法を作らなければいけないということで米軍特措法を作りました。

 これが日本で適用されたのは、東京都の砂川基地を作ろうとした時でしたけれども、美濃部知事が誕生したために結局これも適用しながら裁決を下りずに流れちゃいまして、ベトナム戦争も終わって結局これは実行できませんでした。

法律ができて20年目、沖縄復帰10年目になって沖縄にこれが適用されてきます。1982年の5月15日、米軍特措法が適用されます。

 何故これができたのかというと、地籍明確化法によって5カ年間の間に、民有地については総合事務局、軍用地については防衛施設庁が担当者になって地籍を明らかにしました。これが土地の確定といいます。この確定をした上でないと米軍特措法が適用できないというようになっています。ですから土地測量を入れて図面を作ってという、いわゆる米軍特措法の手続きの一環の中でこの地籍が明らかにされないとできないということになっていたんで、10年間これが適用できなかったわけです。そのために沖縄県にだけ適用する法律を2度に渡って作り替えて適用してきました。


公開審理の開始

 82年に始めて米軍特措法が適用された時点から、地主に対して、手続き上はまず意見照会、あなたの土地を米軍基地に提供したいんだけど契約していただけますかという意思確認の意見照会が入ります。勿論反戦地主はこれを拒否します。そうすると防衛施設庁は総理大臣に向かって、この土地を米軍特措法によって強制収用してよろしいでしょうかという認定申請を出します。そうすると即座に総理大臣が認定します。 その認定によって今度は土地調書、物件調書というのを作って、防衛施設庁が地主に対してこの土地はあなたの土地ですかという確認、押印を求めます。地主は戦後一貫して自分の土地に入ったことがない。図面編纂については地籍明確化法で作ったけれども、それは集団和解方式ということで図面を勝手に防衛施設庁が作ってきて、これをあんた方認めなさいよと言って集団的に印鑑を押させた。自分の土地に入ったこともなければ、ここがあんたの土地だと示したこともないわけです。

 返還された時にはこの図面で改めて区画整理をして、ここがあんたの土地ですと示すからそれを受け取りなさいというのが集団和解です。契約地主の皆さん方はこれを認めたわけですけど、我々反戦地主はこれを認めてないために押印拒否をします。まず基地に入れろ、自分の土地がどこにあるか見せろと言ったけれども見せなかったために、結局自分の土地がどこにあるのかわからないのに土地調書にはいこれが私の土地ですと言って認めるわけにはいきませんと。

 そうすると防衛施設庁は、今度は市町村長に上げてきます。いわゆる機関委任事務、市町村長へ地主が拒否をしたので米軍特措法の機関委任事務に基づいて物件調書、土地調書の押印をしなさいという手続きを取ります。しかし市町村長も、地主がわからないといっているのに他人である私たちがわかるはずがないでしょうと言って拒否をします。

 今度は知事まで上げることになります。知事は最終です。知事が拒否してしまうとこの手続きは取れません。ところが当時西銘知事が誕生しています。知事は米軍の基地建設については賛成でしたので結局はこの調書を作りました。

 82年は土地物件調書ができたために、土地収用委員会に収用手続きの申請をします。裁決をしてほしいという申請を出します。収用委員会はこの手続きを受けて、今度は地主に対してあんたがたの意見を聞きましょうというのが公開審理です。

 この公開審理の場で地主の意見を聞いて裁決を下ろすことになります。この時は保守県政の下で作られた土地収用委員会ですので、当然土地収用法に対しても基地収用に対しても賛成の立場の人たちが多かったために、公開審理そのものがでたらめでした。地主の意見を聞こうという耳を持たない、ただ既成事実として何回やりましたと。意見があれば却下、却下という形で、打ち切るということになって機動隊を導入して、当時の宜保議長が傷害まで受けて、こういう形で裁決も一方的に出されました。

 その時に地主の権利補償として初めて土地の地代相当額が認められます。復帰の時点では契約地主と反戦地主の間に差別がありました。我々は契約をしておりませんので、地代じゃなくて損失補償、損害を受けて初めて出ますから後払いです。契約地主は先払い。こういう差別を受けながら、しかも地代にも差がありました。ところがこの収用委員会の裁決の中で、初めて契約地主の地代相当額が損失補償という形で認められたのが唯一の救いでした。

 残りは日本政府の言うとおり。82年は5年間、次の87年は20年間の申請に対して期間を短縮して10年強制使用しました。


苦渋の選択

 そういう中で、契約地主の使用期限が92年に切れてまいります(20年=民法上の制限)。その時点は大田知事が誕生しています。ですから同じような手続きが行われますけど、反戦地主が土地物件調書の押印を拒否します。市町村長も拒否をしました。大田知事に上がりました。革新県政ですから当然我々は反対をしていただけるものだと思っていました。

 最初は我々の意向を受けて拒否しておりました。ところが政府が大田知事に対して飴と鞭の政策を打ちおろします。いわゆる3点リンクといっていました。一つ目は沖縄の第3次振計、10年ごとに振興開発計画を作って10年間で沖縄のこれからの振興はこうしますというものが作られますけど、第2次振計が終わって第3次振計を作ろうとする矢先にこの問題が起こります。政府は、大田知事がこれに反対するなら、拒否をするならば沖縄県の振興計画はありませんよと、財政支援はしませんという圧力をまずかけます。

 もう一方は3事案といって沖縄県から常に求めていた104号越えの実弾演習の撤去、那覇軍港の移設、撤去、それから読谷飛行場のパラシュート降下訓練、全ての所で常に事件事故が起こっていた所なんで、ここは県民の命を脅かしているということで、緊急に、まず最初にこの3つから取り払ってほしいというのが3事案です。

 更にもう一つは、いわゆる軍用地転用促進法。私たちは平和転用促進法と言っていますが、軍用地が返還された土地は、アメリカ軍が勝手に引き均して、勝手に日本政府がアメリカに使わせたわけだから返す時には国の責任でもって原状回復をしてほしいという要請をかけます。これが平和転用促進法、基地には貸さないといって我々は闘っているわけですから、平和的に利用するように土地の返還は跡地利用としてちゃんとやってくれよというものをやりました。

 これについてできるように努力しましょう、これがいわゆる3点リンクですね。この3つを解決してあげるからどうぞ大田さん押印してくれと。知事として政治的なスタンス、基地撤去のスタンスを押し通すことができるか、これが問われていたのに、苦渋の選択ということで地主を切り捨てて130万県民のために3次振計を取るというふうになって押印します。


95年の事件

 ところがその後、1994年に実はナイ報告(注5)が出てまいります。アメリカの米軍再編に基づくナイ報告によってアジアに10万人態勢を作るということで、沖縄県の米軍基地の永久構築の方針が打ち出されます。そういう流れの中で大田知事はこれでは約束違反ではないのかというふうに国に言い始めました。そしてその間、軍転特措法はどうなるかというとこれも法律を作る気配すらみせない、おまけに3事案も一つも動かない。

 大田知事もこれが認められないでは困ったなと政府にどんどん物を言っていた矢先にあの少女暴行事件が起こります。95年ですね。

 92年の裁決の時に、大田知事によって押印をしたために強制収用されますけど、その時の使用裁決は10年という防衛施設庁の申請に対して、県の収用委員会は革新県政に変わっていますから10年を5年に短縮します。97年にまた期限切れがくるわけですね。ですから95年頃から土地収用の手続きは始まっているわけです。

 そうしている時にあの少女暴行事件が起こって県民大会が開かれ、その中で大田知事は92年に約束した3点リンクは一つも解決されていない、もうこれ以上公告縦覧に押印をするわけにはいかないといって反対をしたために、当時の総理大臣であった村山富一、社民党の総理大臣が大田県政を相手にして最高裁判所まで裁判手続きを取りました。結局最高裁で負けて、大田知事は法律に基づいて機関委任事務を強制的にさせられます。これが97年ですね。

 97年の期限が切れたときには、結局は最高裁判決が出て大田知事は押印しますから当然私たちの一般の反戦地主の分は強制接収されます。土地収用委員会によって裁決が下りるわけですけれども、象の檻の分だけは却下をされたというふうになります。

 そういう流れの中で、私たちの土地がまた改めて97年から更に5年、2002年まで強制接収の手続きが取られます。2002年に行われた土地収用委員会の公開審理が現在も闘われ、審理を終えて、裁決を待つのみというふうな状況に来ています。

 そういう意味では、常に県民運動と連動しながら私たちの闘いはあるということですので、常に私たちはウチリ火でいて火種はいつも残しておいて、いつかまた色んな事件が起こったり、あるいはまた県民が盛り上がった時に燎原の火のごとく燃え広がるとそういう形でウチリ火になっていこうという確認をしています。


闘いの支え

 反戦地主の生みの親は復帰協です。祖国復帰協議会という、あらゆる団体、労組団体、政党団体が作った協議会によって運動が高まって祖国復帰を勝ち取ることができましたけど、この復帰を勝ち取った時点で解散をしなければいけないわけですよね。

 ところが、復帰協の目的は基地もない平和で豊かな沖縄県作りということですけれど、その目的は達成せずにただ沖縄返還だけがされたということになって、この軍用地主をめぐる闘いを受け継ぐということで反戦地主会の立ち上げのきっかけを作っていきます。

 そして違憲共闘会議(公用地法違憲訴訟支援県民共闘会議、現在は沖縄軍用地違憲訴訟支援県民共闘会議)が誕生します。復帰協が解散をして、解散をした流れがそのまま違憲共闘会議に続いてきます。そういうことで我々の運動というのは、最初は政党団体や労組団体に支えられながら、次に違憲裁判をするというきっかけで違憲共闘会議を作って違憲裁判をすると。

 その中で、82年の闘いの中で、年々細くなっていく反戦地主を支えていくために一坪運動に繋げていこうじゃないかといって呼びかけたのが皆さんの誕生なんですよ。

 それで当時の会長であった平安常次さんの土地を3筆に分けて、私たちと、私は82年に土地が還りましたんでグループを作って1筆を買い、皆さん関東ブロックなどの方が一坪反戦地主会を作って買い取ったということです。

 そういうきっかけの中で、私たちはまず最初に財政支援として違憲共闘会議から助けられました。さらに今度は公開審理の上で非常に動員力が弱まっていた、100名を割っている中で国は官憲を使いながらやってきますから大変な厳しい状況の中でこの一坪反戦地主会の闘いは私たちの大きな支えになりました。公開審理ももう本当に会場がぶっ壊れるんじゃないかと思うぐらい、むんむんとしていて揺れるような状況の中で公開審理が行われました。そういう意味では2度とあのような闘いが起こるのかなという思いがあったんですけど、それが経過として現在に至ってきているわけです。


政治を作り変える

 公開審理そのものは何を意味するかというと、裁判所でいう証拠あるいは原告の弁論の機会、意見を述べる機会が唯一公開審理なんですね。ですから私たちは、今まで地主の権利主張すらできないで奪われた土地、復帰を迎えても地主の意見を一つも言えない、そういう中でようやくこの公開審理の中で初めて地主の意見が言えるようになったということで、私たちはこれを重視をして今まで闘ってきたわけです。

 ところがこれに対してやはり国は、形骸化して単なる手続きの域を出ず、中々我々の意見が通らなかった。だから政治を作り変えていかなければならない。県知事を作り変えていくと我々の闘いも変わる、保守県政に変わるとこれがしゅんとなって。ですから反戦地主の闘いというのは、逆に言えば知事選まで連動していくこういう闘いの位置づけもあるという思いもします。

 今回はそういう面では絶好の機会ですね。今米軍再編によって改めて沖縄に基地構築がなされようとしている、更には普天間飛行場の県内移設が現実化されようとしている、これまでは海上基地ですから当然我々は色んな闘いをして阻止することができたけれども、今度は陸上案に変わってくると刑特法(注6)が待っているわけです。中々阻止行動もうまくいかない、そういう流れの中でやはりこれは知事選を勝ち抜かないと、基地を認めない、米軍再編を認めないという知事を誕生させない限りは普天間基地も食い止めることはできないし、私たちのこの2002年から始まっている県の収用委員会裁決、いまちょうど裁決書の準備中というか文書の作成中なんですけど、この裁決にどういう影響を与えてくるのか、あるいはまた2007年に改めて裁決がなされて強制接収が始まると思うんですけど、それに知事がどうかかわっていくかというのを私たちは見ていかなければならない。

 そのためには何としても、知事選は統一と団結をしてぜひ革新県政に作り変えて米軍再編を認めない、そういう運動に作り変えていこうと今努力をしているところです。これまでも皆さん方の大いなるご支援をいただきましたけれども、更にまた輪をかけて、県知事選も含めてご支援を賜りたいなというふうに思います。


加害者になりたくない

 米軍再編の中で嘉手納飛行場、ここを自衛隊との共同使用というふうに言っているわけです。今までは、地位協定の2条4項のB項で自衛隊基地を米軍は使用していたわけです。共同使用の条項です。ところが沖縄の米軍基地を今度は自衛隊が共同使用をするというふうになりますので、今度はA項を適用してまいります。

 このA項で嘉手納飛行場を自衛隊が共同使用することは、日本のあらゆる自衛隊基地と米軍基地が一体化して、自衛隊がどこの米軍基地でも使えるようになる。あるいは米軍は日本の自衛隊基地をどこでも使えるようになる。こういうものが今回の米軍再編ですので、これがまず手始めに行われるということです。

 これに対して私たち沖縄市議会も反対決議を私が提案をして可決をみることができたし、さらには嘉手納基地をめぐる嘉手納町、北谷町、沖縄市が作る3連協でも自衛隊の米軍基地共同使用を許さないと反対決議をしています。

 そういうふうに反対運動をしていたら、北朝鮮からのミサイル発射が起こったために今度はパトリオット配備が嘉手納基地にされようとしていると。いよいよ今日、那覇軍港にパトリオット関連の機材が運び込まれて、今日深夜からこれが国道58号線を陸上輸送されて嘉手納基地に運び込まれることになっています。今、有銘さんなんかはこの阻止行動で色々な行動を取っているところだと思います。

 それからミサイル弾頭については、昆布(うるま市)の桟橋から入っていくことになります。機材、器具、電気通信含めては那覇軍港から、本体は昆布の軍桟橋から入ってきて嘉手納飛行場に運び込まれる。現在、嘉手納飛行場の中で沖縄市側のほうにすでに土地の造成が始まっています。さらに嘉手納弾薬庫、ここにも恩納村側に作ると言っています。恩納村の自衛隊基地がありますけれども、迎撃ミサイルが置かれています。ここにも場合によってはパトリオットミサイルが配備されるだろうと言われています。

 ですから沖縄の米軍再編というのは、縮小されるかもしれないけれども、むしろそれ以上の、近代兵器に変わっていますので基地機能強化は衰えないでそのまま沖縄に居続けていく。基地負担軽減だというのは名ばかりで、実際は米国の言うなりに予算を引き出すための方便に、この負担軽減が使われている。

 日本の国民からすれば、沖縄の基地が縮小されて返還されるらしい、嘉手納飛行場以南は返還されるらしい、喜ばしいことだと思っているかもしれませんけど、そのために3兆円、グアム移転のための予算や、あるいは普天間飛行場の移転費用に使われるとなっているわけです。

 私たちは、米軍基地に土地を提供することで加害者になっている、この加害者になりたくない。だから私たちは基地に土地は提供しないという思いで、これはベトナム戦争の反省から立っていますので、アフガン戦争や色んな戦争に向かって私たちは常に闘いを挑んできたわけです。
 沖縄県の反戦地主はある面では沖縄の政治動向も占いながらそういう位置づけの中で細々と闘いをしていると。しかしこれは、細々とは闘いしているけれども周囲の皆さんがこれを大きく包み込んで、そういう面では闘いの中心にあるということもご理解いただいて今後のご支援をいただきたいなというふうに思います。
(テープ起こし・編集/編集部)



(編集部注)
注1:米軍特措法 「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定の実 施に伴う土地等の使用等に関する特別措置法」
注2:4原則貫徹闘争 「(1)地代一括払い反対(2)適正補償(3)適正賠償(4)新規接収反対」
注3:公用地暫定使用法 「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」使用期限を5年間と定めていた。
注4:地籍明確化法 「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界 の明確化等に関する特別措置法」付則で公用地暫定使用法の適用期限を5年から10年に改変。
注5:ナイ報告 米国防総省の「東アジア戦略報告」東アジアの米軍兵力10万人体制の維持、日米関係を「アジアにおける米安全保障政策のくさび」と位置付け。
注6:刑特法 日本国内の米軍基地をめぐる犯罪について規定した日本の国内特別法。