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 第179号(2006年6月28日発行)

【連載】
私の垣花(かちぬはな)物語 その(6)

語り 上原成信(関東ブロック)

編集 一坪通信編集部

戦争をはさんで26年ぶりに那覇の地に立った上原成信は、風景の変容にめまいを覚える

 ほぼ一年ぶりに沖縄の土を踏んできた。「六・二三国際反戦沖縄集会」参加を主目的に行ってきた。何年前だったか確かなことは覚えていないが、前にも小泉の慰霊祭参加に抗議するため、平和記念公園の入口で横断幕を張り「小泉帰れ」と大声を張り上げた記憶がある。今年は真喜志好一氏の車に便乗して十時頃、その時と同じ場所に着いた。こっちが四、五人のうちは「ここに立ち止まらないでください」と言うだけだったが、十人、二十人になると急に制服警官の数が増えて、各人を両側から挟むようにして、強制移動をはかってきた。

 前回は目の前を黒塗りの車数台が駆け抜けていったが、今回は小泉がどこをどう廻って式場に入ったか、眼にすることはできなかった。

 その前の晩、沖縄総合女性センターでジュリアン・アグオンというグアムの青年(二十四歳)の話を聞いた。米軍基地と米本土からの移住者、フィリピンからの移民、先住民のチャモロが複雑な関係を構成していることがうかがえた。グアムは米国だからと海兵隊移設に簡単に賛成すべきではないと考えるようになった。



☆金持ちクラブから大衆運動へ

 東京におけるウチナーンチュの集まりは、戦前はどちらかというと富裕層ウチナーンチュの社交クラブだった。戦後は四十五年十一月に沖縄人連盟という名称で発足する。その時の会長が沖縄学の伊波普猷。この沖縄人連盟が四十九年五月には「人」を省いて沖縄連盟と改称。さらに沖縄協会と名前が変わっていく。東京沖縄県人会の発足はプライス勧告反対の島ぐるみ闘争のさなかの一九五六年。

 自身が連盟の一員でもあった神山政良は、米軍占領下の沖縄の先行きを憂えて、これからは大衆運動が大事だということで、間口を広げた県人会組織を作ろうと考えたのである。彼自身は、琉球王朝王家の王子・尚昌に付き従ってオックスフォード大学へ四年間留学、政治経済を学んでいるエリートだ。


☆政治的課題を避けて通れなかった県人会活動

 他地域の県人会に比べると、東京では学者、教師、医者、弁護士などインテリ層の比重が高かった。大阪、川崎、鶴見などはウチナーンチュとしてのアイデンティティ、文化の継承という点では、東京よりもグンと色濃い沖縄社会があったが、復帰のような政治問題になると、労働者として移住してきた人たちは生活に追われて、政治どころではないという一面があった。沖縄現地の声を代弁して、政府や政治家たちと交渉するには、東京にいるインテリ連中に一目置くのは当然のことだった。

 明日の飯をどうするかが先で、郷里を思う気持ちは強くても、日本社会の中での政治的活動には弱さがあった。このころは沖縄への渡航、貿易、送金などの自由は無かった。

 復帰までの県人会は、年に何回も決起集会を開いた。その度に国連、米国、日本政府、国会等々への陳情書、要求書、決議書をごまんと書きあげた。中には割り当てられて私が書いたのもいくつかあった。もちろん沖縄現地に送る激励文もどれだけ書いたことか。よくあれだけやれたものだと感心する。


☆海に沈んだ垣花

 一九四四年十月十日、那覇の町のほとんどが米軍の艦載機群による空襲(十・十空襲)で灰燼に帰した。しかし住吉町二丁目の我が家の家業であった銭湯は焼け残り、地上戦が始まるまでは日本海軍の浴場として利用されていたという。戦火に追われて住民が逃げ回っているうちに米軍は金網で囲って、垣花一帯を軍港に仕立て上げた。丘も沼も墓地もすべてが平らに均されて、場所の目印はすべて失われた。四十五年から四十七年にかけて米軍が行った那覇軍港の港湾拡張工事で、陸地の一部は掘削され、海に没してしまった。 

 一九五〇年に那覇市を含む沖縄島南部一帯のオフリミッツは解除されたが、那覇軍港は今に至るも金網に囲われたままである。帰るべき地を失った垣花の人々は、県内諸地域に分散していった。今では若狭二丁目、三丁目と呼ばれている戦後の埋め立て地に垣花の人たちはある程度まとまって住み着いた。


☆那覇の地で「異邦人」に

 戦後初めて沖縄に行ったのは一九七〇年。東京に出てきて二十六年目の帰郷だった。那覇の街角に立った時は、とても奇妙な感覚だった。道を歩く人たちもウチナーンチュだし、ウチナーグチ(沖縄語)も聞こえてくるが、街の中はまったくの・未体験ゾーン・だった。

 町並みが全く見知らぬ他国であった。自分の持っていたイメージと全然違う。国際通りももちろん戦前は無かった。生まれて初めて見る異国へ来たような感覚と、でも、ここは古里沖縄でそこへ帰ってきたのだという感覚の両方があって、落ち着けなかった。               
   (つづく)