軍用地を生活と生産の場に! |
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック |
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『一坪反戦通信』 |
毎月1回 28日発行 一部200円 定期購読料 年2,000円 |
第174号(2006年1月15日発行) |
新連載私の垣花(かちぬはな)物語 その(1)語り 上原成信(関東ブロック)編集 一坪通信編集部☆米軍再編の中間報告を聞いて いま、何をしたらいいのかな。沖縄で今まで頑張ってきた人たちは、更に歯を食いしばって闘うことは間違いないけれど、沖縄全体の結束に持って行けるかどうかが決め手。政府側はいろいろな手管を使って、事を進めようとするはずだから、それに立ちはだかるには民衆の組織化が必要だ。 しかし、これまでの経過からみるとこれがなかなか難しそう。大学の研究者たちも動き出しているようだし、心ある人たちは「今こそ立ち上がらなくちゃ」と焦っているだろうが、大衆が動き出すかどうか、そこが一番難しいところだ。 近いところでは名護市長選挙がある。十一月には知事選と今年は選挙の年で、そこをにらみながらどう闘いをつないでいくかだ。 向うは自民県連が中間報告容認を渋っている稲嶺知事を盛んに牽制し、自民保守系の国会議員が政府の意をくんで動いているはずで、党本部から強力なテコ入れがされているに違いない。それに比べて、野党側国会議員がどれだけの能力を発揮できるか、心もとないところだ。 沖縄の動きを視野に入れながら、議員という自分たちの立場で何をするかというのが抜けていたらしょうがない。沖縄をリモート・コントロールする連中は東京にいるんだからね。 ☆かつての反戦派よ、出てこい かつて“反戦派”呼ばれた連中はどこに消えてしまったのかね。死に絶えたわけではないはずで、どうしたら彼らに火をつけられるのか考えている。六十年安保、七十年安保で先頭に立っていた人たちに「残り少なくなった年月を、かつての情熱でもうひと踏ん張りしようじゃないか」と訴えたい。 これまで、一年半以上、毎週月曜日に防衛庁前で抗議行動を続けてきた。辺野古の基地建設については一敗を喫した日米政府が、化粧をし直して土俵に上がってきたので、もっと痛烈な投げをかましてやろう。これまでの毎週一回を週二回にするとか…。しかし、マンネリになってはいけない。まあ、一番いいのはマスメディア飛びついてくるような動きを創り出すことだろう ☆馬車に飛び乗って黒砂糖をほじくったころ 私が生まれたのは那覇市内の垣花(かちぬはな)で戸籍上では那覇市住吉町二丁目である。しかし、三歳から十二歳までは、そこではなく奥武山(おうぬやま)という国場川の中州になっている島で育った。 今では島の南側は埋め立てられて、小禄側と地続きになっているが、戦前その島は国場川の河口に浮かぶ離れ小島で、南北二つの明治橋で両岸につながっていた。今では、奥武山町と呼ばれているが、その頃の町名は通堂町三丁目だった。 南北の明治橋は那覇の中心街と島尻地方を結ぶ幹線道路で、製糖期になると、小禄や豊見城、遠くは糸満あたりから黒砂糖の樽を荷台一杯に積んだ馬車がひっきりなしに通った。 十歳前後の腕白連中にとって、前を歩いている馬方に気付かれないように馬車の後に飛び乗って、五寸釘や肥後守(その頃の子ども用ナイフ)で砂糖樽の中をほじくるのが心のわくわくする楽しみであった。 馬方に気付かれて「こら!」と大声で怒鳴られることが、また、一段とスリルを盛り上げた。 今では、この通りは空港と市街地を結ぶ車が我が物顔で走り、歩いている人はほとんど見かけないが、昔は皆歩いていた。垣花にあった水産学校に通う生徒、首里、那覇にある中学や女学校に通う兄さんや姉さんたち。那覇の街に勤めに行く人、買い物に行く人…。 馬車の積み荷も黒砂糖だけでなく、季節によっては那覇港から積み出すキャベツ(その頃はそんなしゃれた言い方でではなく、タマナーと言っていた)を満載していることもあった。 ☆お転婆娘によく泣かされた この通りに面しては、二十軒ぐらい間口二間ばかりの店が軒を並べていた。そば屋、下駄屋、仕立屋、呉服屋、酒屋、駄菓子屋、雑貨屋などで鉄工所も二軒あった。一軒の鉄工所は職工が十人ぐらいもいて、天井には縦横にベルトが走っていて、年中大きな騒音を立てていた。クズ置き場にはらせん状にくるくる巻いている金属の削り屑がたくさん捨ててあって、子どもたちはそんなものを拾って遊び道具にしていた。その鉄工所には同じ年のお転婆娘がいて、ケンカしては男の私がよく泣かされた。 三線屋も一軒あった。昼間はその店の親父さんが三線を作っていたが、夜になると三、四人のおじさんたちがやってきて、三線を弾きながら蚊に刺されるのもかまわず、お経のような歌のようなものを「ウーウーウー」と唸っていた。隣近所の顔見知りのおじさんは一人もいなかった。全然面白くないのに、また、つき合って聞いてあげる義理もないのに、子どもたちは同様に蚊に刺されながら、家の上がりがまちに頬づえを付いて、ぼんやりとその光景を眺めていた。 そんなことにでもつき合わなければ、他に見たり聞いたりするものがなかったからだ。大人になってわかったことだが、おじさんたちがやっていたのは沖縄古典音楽の稽古であった。 (つづく)
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